四席
くー、くー。
膝の上でオリコーさんな寝息を立て始めたアンドレックを余所に、その叫びの全てを受け止めたポメロは、冷え切った指先を動かして楽曲の形をブラッシュアップしていきました。
アンドレックが無理なく歌える音域。それでいて、無伴奏で口ずさまれても心に真っすぐ突き刺さるような、強烈なメロディーライン。
なぜなら、この歌は他でもない、アンドレック自身に歌われるべき歌だからです。もしこの歌が、彼の両親の凍てついた心に通じないのであれば、ポメロもまた、この曲を永遠に封印する──そのくらいの覚悟で、彼は音符を編み上げていました。
書き上げたスコアは二つ。
子供の目線に立ち、演奏の注意書きをびっしりと書き込んだアンドレック用のもの。そして、音符と記号だけで構成された、プロの奏者である自分仕様のものです。
『僕が愛されないなんて許されるわけがない』
アンドレックの魂の叫びそのものをタイトルに掲げる以外、ポメロに選択肢はありませんでした。
書き終えたポメロは、達成感のままに大きな伸びをし、固まった肩を回して鳴らしました。
眠るアンドレックを背負い、黎明の公園を後にします。
よほど疲れ果てたのでしょう。背中で多少揺らしても、アンドレックは深い眠りの中に落ちたままでした。彼が自力でポメロの首に手を回していない分、落とさぬよう細心の注意を払わねばなりません。極端な前かがみの姿勢。元農民の強靭な足腰であっても、翌日の凄まじい筋肉痛は必至です。中年以上の男なら、再起不能の致命傷になりかねない重労働でした。
「……いつも、朝日だな」
ポメロが曲を作り終える時は、大抵この時間です。
冬の朝靄が白く煙る中、公園の出口に差し掛かった、その時でした。
音もなく、すっと耳元に入る都々逸。
〽 荒らし回った ア、座敷の果てにィ~
〽 お餅のような 寝顔がひとつゥ~
ベベン。
時間帯を考慮してか三弦の弾きは抑えられていました。シゴデキ女は配慮ができる良い女。
「凄まじい創作。痛ましい叫び。音楽に携わる者として、実に心高ぶる風景を見せて頂きました。感謝しますよ、ポメロ君」
驚いて振り向いたポメロの視界に、どこかで見覚えのあるハの字眉と困り顔が飛び込んできました。疲労感を隠そうともしない成人女性が、そこに立っていました。
「ハルモニアさん……?」
「あはは……あの時ぶりですね、どうも」
苦労人特有の力のない笑い声を漏らしながら、領主お抱えの楽師は後ろめたそうに頭を下げました。
「今日はまた、こんな早い時間に……というか、どうしてここに?」
「あ、雇い主様の御子息を保護して頂き、ありがとうございました。前触れもなく姿を消されたので、一同てんやわんやですよ。旦那様も奥様も、それはもう心配しておられまして……」
「両親は、心配してくれていたのだな」
不意に、背中から声がしました。
「ええ、それはもう、深々と」
「ポメロ、ご苦労。……下ろしてくれ」
いつの間にか目を覚ましていたアンドレックが、ポメロの背から地上へと降り立ちます。ハルモニアがその小さな手を取り、優しく引き寄せました。
「もちろん、私も心配しておりましたよ」
ハルモニアがアンドレックを抱きしめます。
「すまんな。だが、実り多い家出だった」
「少しだけ、お顔が大人びましたものね」
アンドレックはハルモニアの腕の中からにじり出ると、少し誇らしげにポメロへ紹介しました。
「母上に代わって不味いティーを淹れていていたメイドの話をしただろう? あれがハルモニアだ」
「あれ……? ハルモニアさんって、ご領主お抱え楽師だよね?」
「常に音楽の仕事があるわけじゃないんですよ……。何かの催し物でもない限り、演奏の機会なんてありませんし。かといって、演奏訓練だけしているとごく潰し扱いされる。でも、時折奥様がお茶会の折に思い付きで演奏を命じてくる。だから長期休暇も取れないし……つらい……」
ハルモニアの肩がガックリと下がり、まるでアラサー独居独身ブラック企業勤めOLの如き、重く深い溜息が零れました。
「お疲れ様です……」
ポメロの心からの労い。
ですが、作曲の疲労でブドウ糖が枯渇していたポメロの脳が、ようやく今、点と点を結びつけました。
ハルモニアはお抱え楽師。つまりご領主様の部下。
ということは、この生意気なアンドレック様は──
「アンドレック様は、領主様の……!?」
「今さら気づいたのか!?」
二人顔を合わせてびっくりです!
「じゃあ、秋から両親がお姉さんに付きっきりになったっていうのは……リノの事!?」
「姉上を知っているのか!?」
二人顔を合わせて2度びっくりです!
「合縁奇縁と申しましてぇ~♪」
べべン。
ハルモニアが、どこか自棄気味に古典歌謡のフレーズを口ずさみます。
「リノ、元気にしてる?」
「……僕は姉上に近づくなと言われているからな」
ポメロが食い下がろうとした瞬間、ハルモニアが背後でバチバチと猛烈なウインクを送ってきました。これは「坊ちゃんはリノの『魔法』について何も知らない」という合図です。
普段は察しの悪いポメロでしたが、今回ばかりは見事にそのパスを受け取りました。
「……あ、ああ、そうか。下町育ちですからね。貴族としてのルールや仕草を完璧に覚えるまでは、お出しできないんでしょう」
アンドレックの背後で、ハルモニアが両手で大きな「マル」を作ります。連携技、成功です。
「さて、お坊ちゃま。お名残り惜しくもありましょうが、ご両親が寝ずに待っておられます。家出のお時間は、これまでと致しましょう」
「うむ。致し方なし。僕も父上や母上に早く会いたいしな」
ポメロは懐から、注釈の詰まったアンドレック用のスコアを取り出し、手渡しました。
「これが約束の品だ。ご両親に聞いてもらえよ!」
「ああ。ガキのわがままをぶつけてやろう!」
「伴奏はお任せくださいませ。私の本職が何であるか、皆様に思い出させてあげますよ!」
エアギターを弾くハルモニアの頼もしい……頼もしい? 言葉を背に、アンドレックは迎えの馬車に乗り込みました。
「ハルモニアさん、リノは、元気にしてますか?」
最後にポメロが問います。
「元気になろうと、努力されてます。でも、決して不自由はされてませんよ。お世話係の私が保証いたします」
「お世話係……」
「ええ……楽師、メイド、お世話係、サービス残業…… 有給取りたい」
馬車が朝靄の中を走り去り、ポメロは一人、奏鳴荘への道を歩き出します。
オリコーさんの反乱は、静かに、しかし決定的に幕を閉じました。
───── ♬ ─────
冬もすっかり深まった頃、奏鳴荘に大きな贈り物が届きました。
ずっしりと重みのあるそれは、丁寧な梱包に包まれた壁掛けの絵画でした。送り主の名にはハルモニアと記されています。
「なんだい、藪から棒に」
ドリーが怪訝そうに見守る中、ポメロが期待に胸を膨らませて包みを破りました。
現れたのは、凍てつく冬の夜を一瞬で溶かすような、柔らかな色彩に満ちた一枚の風景でした。
「っ……!」
それを見た途端、ドリーが両手で口を押えて瘧のように体を震わせました。
暖炉の傍ら、並んで座っているのはリノとアンドレックです。
リノの片足の膝から下が少し上がっているのは、きっと足をパタパタとしているのでしょう。リノの機嫌のいいときの仕草です。
アンドレックはその隣で、少しだけ誇らしげに胸を張っています。気持ち体がリノの方に傾いているのは親愛の証でしょうか。
暖炉の最適な場所に薪を焚べようと、真剣な面持ちでしゃがみ込んでいるのは領主その人です。
そして傍らの食卓では、柔和な表情の夫人が高い位置から空気を含ませるようにティーを淹れています。
用意されたティーカップは、四つ。
そこには、欠けた者のいない、あるべき姿で結ばれた家族の温かな夜が描かれていました。
アンドレックの【かまって】は、確かに届いたのです。
あの夜、ポメロの背中で、そして凍てつく公園のベンチで吐き出された魂の叫びが、この光景を勝ち取ったのだと、ポメロは確信しました。
「……いい絵じゃないか」
エピタフが珍しく素直な感嘆を漏らします。
その絵画は、奏鳴荘の食卓の、まさに暖炉の横に即日飾られることとなりました。
これからは毎日、リノたちの幸せな団欒が、奏鳴荘の住人たちを見守ることになるでしょう。
冬の夜風はまだ冷たいですが、絵からは温もりが溢れ出しています。




