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トルバドーれ!  作者: 袴田八峰
第十七幕「バイバイ。」

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一席


 噴水の水しぶきが、午後の陽光を浴びて宝石のようにきらめいていました。


 ポメロはギターをケースに収め、額の汗を拭いました。三番舞台での一件を経て、路上に戻った彼の演奏には、以前にも増して奇妙な重みが加わっていました。


 しかしその背中に投げかけられた声は、手放しの賞賛ではありませんでした。


「──聴くに堪えんな、耳音痴」


 腕を組み、アロンジュ・ペリュックを端正に整えたエピタフが、不機嫌そうに噴水の縁に腰掛けていたのです。


「あはっ、エピタフ! 聴きに来てくれてたのかい?」


「勘違いするな。通りすがりに不協和音が鼓膜を刺しただけだ。ポメロ、貴様……今の自分のギターの響きをどう思う」


 問い詰められたポメロは、背負ったギターケースを軽く叩き、きょとんとした顔で首を傾げました。


「響き? うーん、やっぱりわかるかい? 実は二月前かな、一晩中雨の中で弾いたことがあってさ。それから自分でも、なんだか音がくぐもって、元気がなくなったな──って思ってたんだ」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、エピタフの顔が驚愕と憤怒で赤く染まりました。彼は弾かれたように立ち上がり、ポメロの鼻先に指を突きつけます。


「雨の中だと!? 貴様、正気か! 木造りの楽器を雨に晒すなど、言語道断! 狂気の沙汰だ!」


 楽器虐待反対! このDV彼氏!


「なんだとう? ちょっと濡れたくらい、すぐ乾かせば大丈夫でしょ?」


「大丈夫なわけがあるか! 湿気は木を殺し、魂を腐らせる。いいか、貴様の技術云々の話ではない。その楽器自体が、もう限界を超えて傷んでいるのだ。楽器は演奏家の分身だろうが!」


 エピタフは鍵盤楽器の奏者であり、弦楽器の構造に精通しているわけではありませんでした。


 ですが、彼は【伝統派】という膨大な音楽的遺産の集積地に身を置く男です。何百年と受け継がれてきた楽器の管理という名の宗教的戒律が、彼の血肉となっていたのでした。


 そもそも、エピタフの信奉する伝統派において、ギターという楽器は野卑な新参者に過ぎませんでした。


 リュートやチェンバロの優雅さを知る者たちからすれば、その構造はあまりに脆く、不完全なものとして扱われ、専門的に扱う者などほとんどいないのが現状です。


 それでも、エピタフには分かりました。目の前の愚かな友が抱えているおんぼろのアコースティックギターが、すでに悲鳴すら上げられないほど衰弱していることが。


「あはは……。でもさ、僕にはこれしかないんだ。この音が僕の音なんだよ」


「真面目に啓蒙してやる。そのボロは、もう買い替え時だ。いいか、楽器への執着と、ただの怠慢を履き違えるな」


「でも、でもだって……このギターとはずっと一緒だったし、故郷くにから持ってきた唯一の宝物なんだ」


 必死に食い下がるポメロでしたが、エピタフの眼差しは冷徹なまでに真っ直ぐでした。


「貴様にもわかっていよう。そのギターはもう……寿命を迎えつつあるのだと」


 ポメロは言葉を失い、背中のギターケースを強く握りしめました。その沈黙を肯定と受け取ったのか、エピタフは一つ、重い溜息をつくと、懐から一枚のカードを取り出しました。


「……伝統派お抱えの高級職人を紹介してやろう。相当な高い買い物になるだろうが、その値以上の価値はあるはずだ。貴様、金は余らせているだろう?」


 ポメロは、懐にある財布の重みを思い出しました。


 現在、都の三番・四番舞台を中心に「私の王子様」ネオが歌う『僕たちのひみつきち』が年間チャートの上位に入れそうな勢いで大ヒットを飛ばしています。


 ポメロから飛躍の機会を奪ったカーネギーの音楽界ですが、ビジネスにはがめつくても、契約には誠実でした。


 わずか一ヶ月分のロイヤリティと楽曲使用料として、ポメロの元には金貨が複数枚、がっぽりと舞い込んでいたのです。


 立志を夢見て田舎から出てきた少年には、使い道に困るほどの巨額です。


「……そうだね。お金はある。あるけど……」


「未練があるなら、その職人に一度見せてみるがいい。判断を下すのは貴様だ」



───── ♬ ─────



 夜の静寂が奏鳴荘を包み込んでいました。


 ポメロは自室の寝椅子に深く腰掛け、膝の上に愛器を横たえていました。


 窓から差し込む月光が、無数の傷に覆われたギターの表面を青白く照らし出します。


 手にしてから、もうすぐ六年。指先に馴染んだこの木の塊は、もはや体の一部と言っても過言ではありませんでした。


 目を閉じれば、あの日──このギターを手渡された瞬間の景色が、鮮明な色彩を伴って蘇ってきます。


 故郷の村。土砂崩れで道が塞がれ、やむなく二週間の滞在を余儀なくされていた、あの一人の男。都での夢に破れ、逃げ出した旅の空にさえ疲れ果てていた男の瞳は、底の無い井戸のように深く、暗く、澱んでいました。


 男にとって、暇潰しの手慰みに過ぎなかった二週間の教授。教わる側のポメロにとっては、それが世界のすべてだったのです。


 『……これをやる。好きにしろ』


 男がポメロにギターを押し付けたのは、村を去る朝のことでした。


 それは贈り物というにはあまりに無造作で、断念というにはあまりに重い、身勝手な「廃棄」でした。男は自分が抱えきれなくなった都への未練も、擦り切れた思い出も、すべてをこの木の箱に詰め込み、何も知らぬ少年に背負わせて去っていったのです。


 ですが、そんな男の悲哀も哀愁も諦念も、当時の幼いポメロに分かるはずもありませんでした。少年の記憶の中の彼は、ぶっきらぼうながらも親切にギターを手ほどきしてくれた、憧れの師匠でしかなかったのでした。


 それからというもの、ポメロは夢中でギターを弾いてきました。田舎の納屋で、羊たちの鳴き声に混じって弾き、歌い。夕暮れの畦道で、影が伸びきるまで弾き、歌い。冬の暖炉の前で、指が裂けそうになるまで弾き、歌い……。


 去り行くリノに手を伸ばしながらも、指先さえ届かなかった経験。自らが生み出した歌を、他者に、システムに、無慈悲に取り上げられ、その対価として虚しい金を受け取った経験。


 それらが少しだけ彼を大人にした今。

 ブルーズの水たまりをその胸に宿した今。


 このギターは託されたのではなく、捨てられたのだと。


 重荷を、未練を、自分にはもう鳴らせなくなった過去を、あの男はこの楽器ごと少年に投げ捨てたのだと、ポメロは初めて悟ることができました。


 ですが──あの日、男から押し付けられたゴミを宝物だと信じて走るうちに、気づけばこんなに遠くまで来てしまいました。


 音楽の都、カーネギー。あの男を焼き尽くし、追い出した、因縁の場所です。


 ポメロはふと、男から最初に手ほどきを受けた、最も基本的な運指の練習曲をなぞってみました。数え切れぬほど繰り返した、指の呼吸のような旋律でした。


 ぽろん、ぽろん、


 ……ビろん。


「……」


 指先が止まります。


 ブレていました。音が。

 ひび割れました。音が。


 低音弦を強く弾くと、ギターのボディがこれまでになかった不自然な振動を返し、ポメロの腹を不快に叩きました。


 あの日、男の底無しの瞳から受け取った絶望すらも、遠くない未来に鳴らすことができなくなりそうです。


「……行ってみるかぁ。楽器職人」


 独り言が、冷えた空気の中に溶けて消えました。ポメロはゆっくりと立ち上がり、壁に立てかけたボロボロのギターケースを引き寄せたのでした。 



───── ♬ ─────



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