二席
下宿「奏鳴荘」の朝。食堂に差し込む柔らかな光の中で、エピタフは使い古したメトロノームのネジを無意味に回し、カチカチという規則的な音を響かせていました。
その視線は手元に固定されたままだが、隣でパンを齧るポメロを、どこか神経質そうに意識しています。
「あの……な?」
珍しく遠慮がちな声に、ポメロがきょとんと首を傾げます。
「……九番舞台の水曜公演というのは伝統派の登竜門と呼ばれていてな。まあ、伝統派とはすなわち、音楽理論的に正しい構成と和音を基にした、実験性を極力排した楽曲を追求する一派で……僕もそこに組しているのだが」
エピタフは眼鏡のブリッジを指先でぐいと押し上げ、一度だけ、盗み見るようにポメロへ視線を投げました。
「あー。今、不遇を託っているお前には酷な話かもしれんが……この度、僕が初めて九番舞台に上がれることになってな。ちょうどチケットの余りなどがあるから、後学の為、来てみないか?」
十三番舞台を追放され、ギターケースを抱えて途方に暮れていたはずのポメロでしたが、その言葉を聞いた瞬間、顔をパッと輝かせます。
「行く行く! 絶対行くよエピタフ! 僕、全力で応援するからさ!」
「い、いや、応援ではなく後学のためだと言っているだろう。理論の実践の場というものを、その耳音痴な鼓膜に焼き付けさせてやるという温情を──」
「分かってるって! エピタフならやれる、僕が保証する!」
ポメロは自分のことのように拳を握り、エピタフの背中をバシバシと力任せに叩きます。
「勉強しろと言っているんだ! 貴様のようなデタラメな感性に、僕の神聖なステージを保証される筋合いはない!」
「応援してやるって言ってんのに。 水臭いなあ、もう」
「うるさい! 応援など飛ばした時点で貴様は会場を強制退出だ! いいか、明日から僕が九番舞台におけるオーディエンスのあるべき振る舞いについて啓蒙してやる!」
エピタフは忌々しそうに顔を背けましたが、その耳たぶは隠しようもなく赤く染まっていました。
音楽の都カーネギー、公式ステージ群メジャーズの厳格なる【九番舞台】。
理論の権化・エピタフと、感性の塊・ポメロ。正反対の二人が、今度は演者と観客として、一つのステージに向き合おうとしていました。
───── ♬ ─────
九番舞台。そこは、音楽の都カーネギーにおいて最も静寂が重い場所だった。
エレクトラは、観客になるにもパートナーが必要だという理由で、ポメロに連れ添うように隣に座っている。彼女の纏うナイトドレスの香りが、乾燥しきったホールの空気に微かな湿り気を与えていた。
「……九番舞台。ここ、氷の中にでも入ってるみたいだ」
ポメロは、消え入りそうな声で呟きました。隣に座るエレクトラの耳元に届けるのが精一杯なほど、客席の空気は張り詰めています。
開演前から、ずっと。
カーネギーが誇る伝統の極致。そこには【十三番舞台】のような野蛮な熱狂も、辻舞台の猥雑とした活気もありません。観客たちは皆、膝の上に広げた楽譜を険しい顔で追い、まるで間違い探しでもするかのようにステージを凝視しているのです。
「今の装飾音、三十二分音符一つ分長かったわね」
「和声の解決が甘い。伝統派を名乗るなら形式を重んじるべきだ」
幕間で聞こえてくるのは、魂を震わせた感動の言葉などではなく、解剖学のような冷徹な査定ばかり。デッカが「俺ちゃんあの界隈に毛嫌いされてるからなー。まー心当たりアリアリなんだけどな! シシシッ」と誘いを断った理由を、ポメロは肌で理解しました。ここは、遊びのない精密機械の検品所なのです。
「ふふっ……不思議なもの。君のあの反骨心甚だしい【お茶】も、エピタフ君のこの窮屈な数式も、同じ音楽なのだから」
エレクトラが、ナイトドレスの裾を整えながら気付きを得たように呟きます。
けれど、ポメロの心は一向に揺さぶられません。これは「楽しくない」。音楽という名の、血の通わない精密機械の展示会を見せられている気分でした。
そして、ついにその時が来ました。
舞台袖から、燕尾服に身を包んだエピタフが登場したのです。
蒼白な顔で舞台中央へ進み、深く、定規で測ったような三十度の一礼をする彼。だが、その指先がカチコチに固まっているのを、ポメロは見逃しませんでした。
「エピタフ、動かないね」
「緊張しているのかしら」
顔は真っ青。浅い息を繰り返して。ピアノの椅子に腰掛ける時、足がもつれて転倒! 会場を満たすのは声も無く冷ややかに笑う伝統派しぐさ!
ポメロの顔に怒りが満ちます。
───── ♬ ─────
エピタフは、自らの視界が歪んでいくのを感じていました。
――楽譜がない。
ピアノの譜面台にあるはずの、魂の設計図が。
エピタフの早すぎる成功を妬む誰かの仕業か、あるいは、三段目の曲を弾くと豪語した跳ねっ返りの鼻っ柱を折るための、伝統派しぐさの負の側面か。
とにもかくにも、登板直前の小用から控室に戻った時点で、卓上のスコアは失われていました。あるいは小用を挟まざるを得なかったのも、提供されたティーにしぐさの雫が落とされていたからかもしれません。
(暗譜はできているはずだ。だが、もし間違ったら――)
この一ヶ月、エピタフは狂気にも似た執念でスコアを読み込んできました。この四小節はポメロが楽器を掻き鳴らすイメージで。こっちの四小節はポメロがスコアに書き込んでいるイメージで。伝統派の奏法を、注釈と付箋紙で元の五線譜が見えないほどに埋め尽くした一冊。
ポメロが作曲時にそうするように、エピタフはピアノの打鍵で、音のうねりで、ポメロを表現すべく格闘したのです。その結晶を、エピタフにとってのポメロ像を、古き少女漫画の世界のごときイジワルしぐさで奪われたショック。
エピタフは無様に転倒したまま、立ち上がり方さえ解りません。
視界が安定しない。天井は高く、照明はあまりに明るい。なんとか身を起こして椅子に座るが、自分で自分の体の感覚が掴めていない。四肢は動いているが、それを動かしているのが自分だという確信が持てない。そもそも、今ここにいる自分は、本当に自分なのか?
危ない。ショックによる離人症の疑い。お医者さん、早くこちらへ!
わからない。なにもわからない。わからないことがわからない。
僕はピアノを弾きに来たんだ。
でもスコアがない。何を弾いたらいいのか分からない。何のために弾くのか、わからない。
僕は───────
ぴいいいいいいいいいいいいいいいっっ!
静かなざわめきを切り裂いて、鋭い指笛が鳴り響きました。
発生源は客席のやや後部、左端。
エピタフが反射的にそこを見やると、赤茶けたテールを跳ね上げて、こちらを射抜くような眼光で睨みつけている緑の目の少年がいました。
ポメロ!
───── ♬ ─────




