第1話 七年ぶりの教室
山奥に建てられたその建物は、七年前に通っていた予備校と、窓の数まで同じだった。
久世直人は来客用駐車場の端で立ち止まり、四階建ての灰色の外壁を見上げた。
入口脇の旗竿。雨水の跡まで再現された、ひさしの端。
記憶と照合するまでもない。
高校三年の一年間、週に六日通った場所だ。
ただし、本物の校舎はもう存在しない。閉校後に売却され、三年前に取り壊されたことまで確認している。
目の前にあるのは、都市部から車で二時間ほど離れた、閉鎖済みの企業研修所。その敷地内に造られた精巧な模造品だった。
「趣味が悪いな」
スマートフォンの時刻は午後一時四十二分。電波は立っている。地図も通話も正常だった。
駐車場と建物の間には内門がある。いまは開いていた。斜面沿いのフェンスも含め、外から見れば閉鎖施設を利用した企業研修会場として成立している。
入口へ向かう二十代半ばほどの男女の中には、見覚えのある顔もあった。
七年という時間は、人の輪郭を変えるには十分だ。だが、歩き方や周囲を見る癖までは、そう簡単に変わらない。
久世は右の親指を触っていたことに気づき、手を下ろした。
一か月前に届いた封筒を、鞄から取り出す。
差出人は『神谷悠斗死亡事件・再調査連絡事務局』。
神谷悠斗は、七年前に死んでいる。
死者の名前を掲げた事務局が、なぜ今になって自分を呼ぶのか。
参加名目は、神谷悠斗死亡事件の非公開再調査。
『新たに確認された資料について、作成経緯および当時の判断根拠を確認する必要があります』
そして、久世に示された資料は、
『神谷悠斗に関する噂の拡散経路図』
だった。
案内は参加者ごとに個別に送られ、提示資料も異なるらしい。
日程は六泊七日。
開始後は証拠保全と守秘義務のため通信端末を預ける。
参加は任意と案内されていた。
久世は事務局や施設について事前に調べていた。不正や事故原因を調べる仕事柄、確かめられるものを放置する性分ではない。
調べた範囲では、少なくとも住所だけを記した悪質ないたずらではなかった。
それでも来た。
同封されていた相関図が、久世自身の作ったものだったからだ。
神谷が問題を流出させたらしい。
最初は、それだけの噂だった。
誰が聞いたのか。
誰が誰へ伝え、どこから推測が事実として扱われ始めたのか。
久世は当時、クラスをまたいで情報を集め、紙一枚に整理した。
全体を見れば、発生源を絞れると思った。
結局、図を完成させることはできなかった。
確証がないまま誰かを疑うべきではない。
もう少し情報が揃ってから動けばいい。
そう考えている間に、神谷は予備校を去った。
そして、二度と戻らなかった。
相関図は自宅の机にしまい、それから一度も他人に見せていない。
そのはずだった。
久世は封筒を鞄へ戻し、会場の住所と建物の外観、駐車位置を端末へ保存した。
誰が相関図を持っているのか分からないまま帰る方が、久世には耐え難かった。
キャリーケースを引き、正面玄関へ向かう。
受付に人はいなかった。
代わりに置かれていたのは、一台のタブレットだった。
本人確認を進めると、旧所属クラスを求められる。
久世は4組を選んだ。
『本人確認が完了しました。四階、4組教室へお進みください』
受付奥のプリンターから入館証が出てきた。
氏名と、その下に、
『4-A』
「昔のクラスだけじゃなく、席まで指定するのか」
久世は入館証を首にかけ、廊下へ入った。
白い床。
講師写真が並んでいた掲示板。
面談室の曇りガラス。
七年前の予備校が、建物の内側まで再現されている。
違うのは、どこにも人の生活音がないことだった。
先に入った者たちの足音だけが、階段の上から響いてくる。
「久世?」
背後から名前を呼ばれた。
振り返るより先に、声の主が分かった。
「やっぱり直人だ」
一条蓮は、七年前と同じように、まず相手を安心させる笑顔を見せた。
仕立てのいい濃紺のジャケット。
教育系IT企業の若手経営者となった現在の一条を、久世はネットの記事で何度か見ている。
「蓮。お前も呼ばれたのか」
「その聞き方だと、直人も事情を知らないみたいだな」
「少なくとも、昔の校舎を山奥に再現したとは聞いてない」
「俺もだよ」
一条は受付のタブレットへ視線を移した。
驚いてはいる。だが、久世より状況を受け入れるのが早い。
「七年ぶりの同窓会にしては、ずいぶん金がかかってる」
「同窓会なら、神谷の名前は使わない」
一条の笑みが、わずかに消えた。
ほんの一瞬だった。
「……そうだな」
久世は、一条が何を見せられてここへ来たのか尋ねかけ、やめた。
参加者ごとに資料が違うなら、自分の相関図を先に見せる必要はない。
まだ材料が足りない。
「先に上がろう。ほかにも見覚えのある顔がいた」
一条に促され、並んで階段を上った。
三階の踊り場で、女が一人、窓の外へスマートフォンを向けていた。
佐伯里奈だった。
こちらに気づくと、不安を隠すように言葉を重ねる。
「うわ、本当に二人ともいる。これ、何かの撮影じゃないよね? 隠しカメラとか。私、仕事柄そういうの本当に困るんだけど」
「久しぶり、佐伯」
「七年ぶりの最初がそれ? もうちょっと驚いてよ、久世君」
佐伯は笑いながら、手にしていた封筒を二つ折りにした。
同じ事務局名。
だが、久世のものとは厚みが違う。
「電波は?」と一条が尋ねる。
「普通に入ってる。配信もできる。でも、さすがに今はやめとく。非公開って書いてたし」
「賢明だ」
一条が肯定すると、佐伯は少しだけ安心した顔をした。
四階へ着く。
教室の前では、高瀬美緒が結婚指輪に触れながら家族へ電話をしていた。
「うん、着いたよ。しばらく会えないけど、いい子にしててね。何かあったら、渡してある事務局の番号に電話して」
通話を切った高瀬は、久世たちに気づくと柔らかく頭を下げた。
その左手には、何度も開封し直した跡のある封筒がある。
教室内では、がっしりした男が机を揺らしていた。
「固定されてやがる。ここまで昔と同じにするなら、机まで古くしなくていいだろ」
黒田岳だった。
日焼けした腕には高価な時計。
軽口とは反対に、視線は教室の隅や扉の蝶番を忙しく確認している。
窓側の最後列には、黒髪を短く切り揃えた天宮栞が座っていた。
細い眼鏡の奥で、教室ではなく持参した書類だけを見ている。
天宮は神谷がいなくなった後、4組へ入った生徒だ。
だから、久世たちと同じ意味での同級生ではない。
それでも彼女の机にも、『4-C』と印刷された札が置かれていた。
六人。
七年前の4組から神谷を除き、代わりに天宮を加えた六人が揃っている。
「久世君」
天宮が顔を上げた。
久世を見るなり、手元の書類を伏せる。
「どうした?」
「……何でもありません」
答えは短かった。
だが、久世が教室へ入ってから伏せる必要が生じたものを、彼女は持っている。
机の配置も、黒板も、時計の位置も昔と同じだった。
ただ一つ、黒板の中央にだけ白い紙が貼られている。
印刷された文字は二行。
『神谷悠斗死亡事件』
『再調査』
佐伯の話し声が止まった。
高瀬が息をのみ、天宮は伏せた書類を両手で押さえた。
黒田は笑うように口元を歪めたが、声は出なかった。
そして一条は、久世を見ていた。
六人の反応は、すべて違う。
久世は無意識に右の親指へ触れた。
この場にいる全員が、神谷について何かを知っている。
だが、同じ理由で呼ばれた者は、おそらく一人もいない。
午後二時。
教室の時計が、乾いた電子音を鳴らした。
続いて、天井のスピーカーから男の声が流れる。
『ただいまより、再入学式を開始します』
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
物語はここから、七年前の同級生の死と、現在の「再入学試験」が少しずつつながっていきます。
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