エピローグ ――雨のあとに残るもの――
トントントン――。
静かな朝だった。
包丁がまな板を叩く音が、
古い家の台所に響いている。
タイル貼りの壁。
少しくすんだステンレスの流し台。
プロパンガスのテーブルコンロ。
その上のヤカンから、
白い蒸気が立ち上っていた。
ピーーーーーッ。
「あっ」
エプロン姿の刹那が、
慌てて火を止める。
長い黒髪を後ろで束ね、
袖をまくった姿は妙に家庭的だった。
だが、
包丁を握る手だけは、
今でも危険なほど鋭い。
昨日、
近所の猟師から貰った猪肉を、
見事な手際で解体していたのを思い出し、
正人は苦笑する。
(やっぱり普通じゃないよな……)
でも。
そんなところも、好きだった。
「何ニヤニヤしてるの?」
「いや別に」
「失礼ね」
刹那は頬を膨らませながら、
水屋から茶碗を取り出す。
炊き立てのご飯。
味噌汁。
卵焼き。
納豆。
浅漬け。
焼き鮭。
豪華じゃない。
でも、温かかった。
昭和の匂いが残る台所。
キッチンなんて洒落た言葉は似合わない。
けれど。
二人には、このくらいがちょうどいい。
◆
少し狭い食卓。
「「いただきます」」
味噌汁をすすり、正人は息を吐く。
「……うまい」
「でしょ?」
刹那が少し誇らしげに笑った。
「お義母さんに教わったの」
「母さんの味か……」
卵焼きを口に入れる。
懐かしかった。
窓の外には、深い山々。
鳥の鳴き声。
遠くを走る軽トラの音。
時折、家がミシッと鳴る。
血と炎に塗れた日々が、
まるで遠い夢みたいだった。
「あのさ」
納豆を混ぜながら、
刹那が口を開く。
「別に、一緒に住んでもよかったのよ?」
正人は苦笑した。
「やめたほうがいいよ」
「強烈だから……」
「それどういう意味?」
「いろんな意味でさ」
じとっと睨まれる。
でも。
そんなやり取りすら、
今は愛おしかった。
◆
あの事件から三ヶ月。
二人は街を離れた。
仕事を辞め、
正人の実家近くの空き家を借りて暮らしている。
五十世帯もない山村。
限界集落寸前。
高齢化率三十五パーセント超え。
人間より、鹿と猪のほうが多い。
近所の婆ちゃんからは、
毎週のように野菜が届く。
その代わり、
屋根修理や草刈りを手伝わされる。
正人は近くの事業所で働きながら、
畑もやっていた。
時々、父親の仕事も手伝う。
派手じゃない。
でも。
ちゃんと生きていける。
それでよかった。
「ねえ」
刹那が味噌汁をすすりながら聞く。
「私、傀儡化なしでどこまで行けるの?」
「神社とか寺に結界仕込んでるからね」
正人は少し考える。
「たぶん二十キロ圏内くらいかな」
「そこまでなら、病院も役所もスーパーもあるし」
「今はネットもあるから、なんとかなるよ」
「まあいいわ」
刹那は肩をすくめた。
「私も元々、田舎者だし」
その言葉に、正人は小さく笑う。
そして。
少しだけ真面目な顔になる。
「……あのさ」
「ん?」
刹那が顔を上げる。
正人は箸を置き、少し迷ったあと、
ゆっくり言った。
「ちゃんと式、あげようかと思うんだけど」
「どう?」
沈黙。
刹那の目が、ぱちりと見開かれる。
顔が赤く――
なるかと思った次の瞬間。
「あの……」
「そもそも私、プロポーズされてないんだけど?」
「えっ」
「えっ?」
二人の声が重なった。
「いや、ほら……」
正人が焦る。
「地獄に行かせないって……」
「あと、君さえいればいいって……」
刹那は無表情になった。
「はい?」
「あれ、プロポーズだったの?」
「だいぶ前から」
「…………」
長い沈黙。
「はぁ~~~~……」
刹那が額を押さえた。
「なんで私、こんなの好きになったんだろ……」
「ひどくない?」
「でも」
刹那は少し笑う。
「普通の女なら引くんでしょうけど」
「私は嬉しかったのよ」
「“地獄に行かせない”なんて、あんたしか言わないし」
正人は言葉を失う。
刹那は少しだけ視線を落とした。
「……まだ、思い出す?」
その言葉だけで、誰のことか分かった。
常夜。
正人は静かに窓を見る。
曇り空。
雨が降りそうだった。
「……うん」
「そっか」
刹那は、それ以上何も言わなかった。
責めない。
嫉妬もしない。
ただ、隣にいる。
それが、今の刹那だった。
「でも」
正人はゆっくり言う。
「今、こうして生きたいって思うのは」
「刹那といる未来なんだ」
刹那の目が、わずかに揺れる。
「だから式はする」
「ちゃんと」
「……うん」
今度の返事は、少し小さかった。
「もちろん籍も入れる」
「戸籍あるの?」
「なんとかする」
ふんっと鼻を鳴らす。
正人は、なんとなく聞かない方がいい気がした。
「でも」
刹那が指を向ける。
「プロポーズの言葉は却下」
「もっとロマンティックなの考えて」
「手紙でもいいから」
「花とか物はいらない」
「無駄遣いしないこと」
「はい」
「よろしい」
満足げに頷く。
「これから先、いろいろお金かかるんだからね」
「家だって直さなきゃだし」
びしっと指を向ける。
「えっ」
正人は固まった。
刹那は腕を組み、ふんっと鼻を鳴らす。
「女も強いけど」
「母はもっと強いのよ」
「覚えときなさい」
正人は少し遠い目をした。
「……うん」
「知ってる」
「母さん見てるから」
刹那が吹き出した。
「たしかに」
二人の笑い声が、静かな台所に響く。
◆
「そうそう」
刹那が立ち上がる。
「雨降る前に洗濯物干さなきゃ」
「この家、雨漏りするのよね」
「部屋干しできないわ」
「あー……」
正人は天井を見上げた。
「今度、屋根直しとくよ」
「うん」
刹那は頷く。
「もう雨にうたれるのは、いいかな」
その言葉に、正人は少しだけ目を伏せた。
雨。
別れの日も。
逃げた夜も。
血に塗れた戦いの日も。
いつも雨だった。
「……嫌な思い出ばっかりじゃないけどね」
そう言って、刹那を見る。
刹那は少しだけ笑う。
「私ね」
「こんな普通、一生手に入らないと思ってた」
洗濯物。
味噌汁。
屋根の雨漏り。
そんなものとは、一番遠い場所で生きてきた。
だから。
今が愛おしかった。
「……僕も」
正人は静かに言う。
「こういうの、ずっと欲しかったんだと思う」
刹那は何も言わない。
ただ、そっと笑った。
「じゃあ、ちゃんと直してよね」
「うん」
「任せて」
「うん、期待してない」
目を細める刹那。
「ひどいよ」
「いいのよ」
刹那は笑う。
「それが平常運転じゃない」
「私たちの」
「……だね」
二人は笑い合う。
悲しみを抱えたまま。
それでも、前に進むために。
◆
外へ出る。
山の風は少し冷たい。
物干し竿には、二人分の洗濯物。
シャツ。
タオル。
エプロン。
そして、セーラー服。
青空の下で、風に揺れていた。
山々は鮮やかな緑に包まれている。
どこまでも、空は青かった。
もう、
雨の音は聞こえなかった。
――呪われた美少女フィギュアを買ったら、俺が黒幕候補でした。――
完結
これで、正人と刹那の物語は終わります。
すべてが救われたわけではありません。
きっと彼らは、これからも罪や後悔を抱えながら生きていくのだと思います。
それでも、
“普通に生きたい”と願った彼らが、
最後に小さな幸せへ辿り着けたなら。
作者としては嬉しいです。
本当は、「パルプ・フィクション」や「スナッチ」のような、アウトローたちの群像劇を書きたいという気持ちもありました。
ただ、今回は正人、刹那、常夜の物語に焦点を絞りました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
よければ、次の物語でもお会いできたら嬉しいです。




