第1話 俺にだけ懐く美少女、圧が強すぎる。
ドアをガチャリと開けた瞬間、玄関の四隅に貼られた護符が、かすかに震えた。
その揺れは、まるでこの部屋そのものが、主の帰宅を待っていたかのようだった。
「ただいまー……」
疲れ切った声。
成川 正人、二十八歳。
都内の中堅企業で働く、ごく普通のサラリーマン。
残業帰りのスーツ姿。
肩にはくたびれたデイバッグ。
片手にはスーパーの買い物袋。
誰が見ても、どこにでもいる男だ。
だが。
「おかえりなさい……正人」
その男を迎えたのは、どこにもいないはずの少女だった。
緑のエプロンの下に、紺のセーラー服。
腰まで届く艶やかな黒髪。吸い込まれそうな黒曜石の瞳。
白い肌、整いすぎた顔立ち。
日本人形じみた美貌。
篝月刹那。
そして――正人の前でだけ、人間に戻れる女。
「……お、おう」
何度見ても慣れない。
自宅の玄関を開けたら、絶世の美少女が新妻みたいに出迎えてくる生活など、普通の男の人生に存在していいものではない。
だが、この一ヶ月で正人も学んだ。
驚いても意味はない。
照れても逃げられない。
この女は、そういう存在だ。
「もう食事、できてるから」
落ち着いた声。
けれどその瞳だけが、じっと正人を見つめている。
確認するように。
失っていないか確かめるように。
「……ありがとう」
靴を脱ぎながらそう言うと、刹那のまつ毛がわずかに震えた。
「それとも――」
一歩、近づく。
「私にする?」
「ぶっ!?」
一瞬で顔が熱くなる。
刹那はその反応を見て、口元をほころばせた。
「ふふっ。今日も真っ赤」
「からかうなって……!」
「からかっていないわ。本気でもいいけれど」
「やめろ、心臓に悪い!」
「じゃあ先にご飯にしましょうか」
全部計算済みだった。
正人の反応を楽しみ、限界まで追い込み、最後に逃がす。
この女はそういう遊びを覚えてしまった。
食卓には、湯気の立つ白米。味噌汁。肉じゃが。生姜焼き。彩りのいいサラダ。
「ありあわせで作ったのだけれど」
「……ありあわせ?」
どう見ても定食屋の上位互換だった。
一口、生姜焼きを頬張る。
「うまっ……!」
次に味噌汁。
「え、これ店出せるだろ……」
「そう」
刹那が、ふっと微笑む。
「よかった」
その笑顔だけは、年相応の少女みたいだった。
けれど正人は知っている。
彼女は料理中も、何度も玄関を見ていた。
帰宅予定時刻を過ぎると、窓辺に立って外を見ていた。
そして三十分遅れただけで、包丁を握ったまま無言になっていたことも。
この女は、重い。
とても。
「そうそう、これ頼まれてたやつ」
正人が買い物袋を差し出す。
「中身は見てないからな」
刹那は受け取り、中を覗いた。
数秒沈黙し。
「……そう」
ゆっくり顔を上げる。
「あなたが選んでくれたわけではないのね?」
「い、いや……店員さんに頼んで……サイズだけ伝えて……」
刹那の肩が小さく震える。
笑っていた。
「ふふっ……そうよね」
「男の人が女性下着売り場で悩んでいたら、かわいそうだもの」
「頼むからその話広げないでくれ……」
「見たかったのに」
「何を!?」
「あなたが赤くなりながら、真剣に私の下着を選ぶ姿」
「勘弁してくれ!」
刹那は楽しそうに袋を置き、正人へ手を差し出した。
「はい」
「……何?」
「レシート」
「え?」
「確認するわ」
「なんで!?」
黒い瞳が細くなる。
「ねえ、正人」
空気が変わった。
「私たち、恋人よね?」
「いや、その認識は――」
「恋人」
「……はい」
圧に負けた。
「あなたに悪い虫がつかないか、心配なの」
「俺にそんな心配いらないって……」
「知ってるわ」
即答だった。
「私で童貞捨てたんですもの」
「ぶふっ!?」
「でも、それとこれとは別」
一歩。
また一歩。
正人が後ずさるたび、刹那が詰める。
「いいから出して」
「レシートくらい自分で見ろよ!」
「違う」
刹那の指先が、正人のネクタイを掴む。
「スマホ」
「……は?」
「女性の連絡先、全部消すから」
「待て待て待て待て!?」
「安心して。最初からほとんど入っていないのは知ってるわ」
「なんで知ってるんだよ!」
「見たもの」
「いつ!?」
「寝てる間」
「怖いわ!」
護符が、びり、と震えた。
部屋の空気が張りつめる。
刹那の笑みは柔らかい。
だが、その奥にある執着だけは、冗談ではなかった。
正人だけだ。
この男の前でだけ、自分は人間に戻れる。
この男と、四隅を護符で閉ざした空間にいる時だけ。
それ以外では。
彼女はただのフィギュアになる。
声も出せず。
動けず。
呼吸もなく。
暗い箱の中に閉じ込められ、時間だけが積もる地獄。
売られ、飾られ、値札を貼られ、誰かの気まぐれで捨てられるだけの“物”。
もう、二度と戻りたくない。
あの無音の闇へ。
だから刹那は決めている。
成川 正人だけは失わない。
誰にも渡さない。
たとえ本人が嫌がっても。
この男は、私のものだ。
「……刹那?」
正人の声で、彼女は我に返る。
「どうした。急に黙って」
「別に」
刹那は微笑み、そっと正人の胸に額を預けた。
「少し、確認しただけ」
「何を?」
「……ここにいるってこと」
正人の鼓動が、耳元で鳴っている。
それだけで、安心した。
生きている。
逃げていない。
今日も自分の元へ帰ってきた。
それだけで。
泣きそうになるほど嬉しかった。
☆ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。
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