1話 同じ夜に立つ
深夜二時。
店内の音は、ほとんど止まっている。
冷蔵ケースの低い唸りと、時折鳴る電子音。
それ以外は、何もない。
相川恒一はレジの中で、無駄にきれいな床をぼんやりと見ていた。
客は来ない。
来ても、同じような顔だ。
同じ時間に、同じものを買って、同じように帰っていく。
変わらないということは、楽だ。
考えなくていいから。
レジの横に置かれた廃棄のパンを一つ取る。
期限は一時間前に切れている。
味は変わらない。
袋を開ける音だけが、やけに大きく響いた。
——こんなもんか。
何に対して思ったのか、自分でもわからない。
ただ、何も起きない夜が、今日もそのまま過ぎていくはずだった。
ドアのセンサーが鳴る。
自動ドアが開く音。
風が一瞬だけ店内に入り、すぐに止む。
「いらっしゃいませ」
反射的に声を出してから、恒一は顔を上げる。
見慣れない顔だった。
若い。
——というより、若すぎる気がした。
女の子は店内をゆっくり見回してから、まっすぐレジに近づいてくる。
「今日から入ります。渦間です」
差し出された紙。
シフト表のコピーと、簡単なメモ。
恒一はそれを受け取り、ざっと目を通す。
「……聞いてない」
「店長には伝えてあります」
間を置かずに返ってくる。
声は柔らかい。
けれど妙に迷いがない。
恒一は少しだけ視線を上げて、彼女の顔を見る。
笑っている。
作ったような笑顔ではない。
でも、どこか引っかかる。
「まあ、いいけど」
そう言って、レジの外に出る。
「レジ打ち、やったことある?」
「あります」
「じゃあ、そこ立って」
指示すると、彼女はすぐに動いた。
動きに無駄がない。
初日特有のぎこちなさが、ほとんどない。
レジの前に立ち、ボタンの位置を一通り確認する。
その仕草が、やけに自然だった。
「……名前、なんだっけ」
「渦間日向です」
「歳は?」
一瞬だけ、間が空いた。
ほんの一秒もない、短い沈黙。
「高校生です」
即答だった。
そのタイミングが、逆に引っかかる。
——まあいいか。
恒一はそれ以上聞かなかった。
興味がないわけじゃない。
ただ、踏み込む理由がない。
最初の客が来る。
中年の男。
缶ビールとタバコ。
「……番号」
「えっと、何番ですか?」
「……二十七」
日向はすぐに画面を操作する。
迷いはない。
スキャンの手つきも安定している。
釣り銭も正確。
「ありがとうございました」
客が出ていく。
その一連の流れを見て、恒一はわずかに眉を動かした。
——慣れてる。
初めてじゃない。
少なくとも「ちょっとやったことがある」程度じゃない。
「前、どこでやってたの」
「色々です」
「色々?」
「はい」
それ以上は続かなかった。
会話を切るのがうまい。
自然に、違和感なく。
時間が進む。
三時。四時。
客はさらに減る。
日向は淡々と作業をこなす。
品出し、前出し、清掃。
どれも正確で、早い。
——変だな。
恒一はそう思う。
理由は説明できない。
ただ、「ちょうどよすぎる」と感じる。
新人にしてはできすぎている。
ベテランにしては、無駄がなさすぎる。
まるで——
そこにいるために、最適化されているみたいに。
「夜、好きなんですか?」
突然、日向が聞いた。
商品棚の前。
同じ方向を向いたままの会話。
「別に」
「じゃあ、なんでここにいるんですか?」
少しだけ考えてから、答える。
「楽だから」
「何がですか?」
「何も起きないことが」
沈黙。
ほんの少しの間。
日向は、ふっと笑った。
「それ、嘘ですよ」
恒一は何も言わない。
言い返す言葉はある。
でも、口にするほどの意味もない。
五時前。
外がわずかに白み始める。
夜が終わる時間。
日向はバックヤードに入り、しばらく戻ってこなかった。
長い。
そう感じた頃、ようやく扉が開く。
「すみません、ちょっと電話してました」
「……そう」
その時、恒一は一瞬だけ違和感を覚える。
何に対してかは、わからない。
ただ——
“さっきと何かが違う”。
その後は何も起きなかった。
シフトが終わり、店の外に出る。
朝の空気は冷たい。
日向は少し前を歩いていた。
「お疲れ様です」
振り返って言う。
「ああ」
「また、明日も入ります」
「……そう」
彼女は軽く手を振って、角を曲がって消える。
一人になる。
静かな朝。
何も変わらないはずの風景。
——なのに。
胸の奥に、わずかな引っかかりが残る。
理由はない。
説明もできない。
ただ、確かに思う。
あいつは、何かを隠している。
そして——
自分は、それに気づいてしまっている。
それが、どれほど面倒なことかも知らずに。




