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勿論願ったところで気絶が出来るわけでも、ましてや第三者の介入なんてあるはずもなかった。
第一、願った事が全て叶っていれば、少なくとも私は此処には居ないだろうし。
結局私が出来る事は限られていて、しかもそれは使い古されている手法で──現実逃避だけだった。
このカオスな空間を、私の全力をかけて無視する。
うん、出来る、出来る筈だ。そう信じよう──。
いまだゴンゴンと響き聞こえる音をBGMに、私は固く決意すると共に自己暗示をかけた。
そこまでしないと、全く逸らされる事がない上にこれでもかというほど眼力の入った司くんの視線から逃げる事など到底出来そうになかったから。
人生経験では私の方が遙かに豊富な筈なのに、私では到底出せそうにない眼力……。
もう、本当なんなのこの子? こんな少年のような外見の──その前に美がつく少年だけど──高校生に気圧されるなんて……。
とにかく、ゴーゴンに睨まれたかのように石化しているんじゃない? と、思わず疑ってしまうほど固まっている身体を叱咤激励して、動かそうとしたのだけれど。
「ねぇ? 誰にそんな事言われたの?」
不意打ちといいますか、絶対こっちの動きを読んでいたよね? と思うほど的確に話しかけてきたよ。
無視しちゃいけないだろうか? 私の平穏を守る為にはこのまま聞こえない振りが一番なんだけど。
「ねぇ? 麻那聞こえてるよね? 一体誰がそんな事を言ったのかな?」
聞こえない振り作戦はどうやら使えないようです。
ゆっくりはっきりとした声で、私を怯えさせてはいけないと思っているのか笑顔を浮かべてはいるんだけど……。
──眼が全く笑っておりません!
逆に恐怖だから。恐怖以外の何者でもないから! 冷気をそこはかとなく発してるから! 本人はそんな事に全然気付いていないんだろうけど……。
もし気付いていてやっているのだったら……。
ううっ! 想像に鳥肌が立ってきた。
これ以上その事を考えるのはやめよう。この考えの辿り着く先は、私にとって間違いなく望ましくないものだと思うから。
とりあえず、現状を打破する事に思考を切り替えよう、うん。
「どうしたの麻那? うーん……。もしかして唇がくっついて離れないのかな? だから、喋られないんだね? 困ったなぁ……。どうすれば麻那はいつものように喋れるようになるのかなぁ?
あっ! いい方法を思いついたよ! 大丈夫、安心してね。僕がちゃんと喋れるようにしてあげるから」
いきなりよく分からない事を言い出した司くん。しかもその言葉、なんていうか全然困っているように聞こえませんけど? 逆に嬉々としたものを感じるのですが?
喋れないのは、君の雰囲気があまりにもですね……。なんて事を言えれば状況は少しはマシになっていたのだろうか?
笑んでいない眼に怪しい光が浮かんだと思ったら、その顔が段々と近づいてきて……。
このパターンは間違いなくアレだろうと、瞬時に気付いた後の私の行動を褒めてあげたい。うん。
──その時間は一秒あるかないか。
そう度々やられてたまるものか! と、渾身の力を込めて握り拳を作り、その右腕を前へと突き出した─
─そう、司くんのお腹へと目掛けて。
お腹なら、それ程ダメージを受ける事もないだろうと思って──なんて事ではなく、ただあの顔を殴る勇気がなかっただけの話。
こういう時、美形は得かもしれない。顔を殴るのに躊躇しちゃうからね。
なんて事を頭の片隅で考えながら、拳が司くんのお腹に当たった瞬間、腕を右へと素早く回転させる。
女性の力では、ただ殴るだけではダメージを与えられないと分かっているから、申し訳ないけど抉らせてもらいました。
よく言うじゃない『抉るように殴るべし、殴るべし!』ってね、多分……。
それなりに効果はあったようで、もう目の前というところまで迫っていた司くんの顔は一気に離れ、尚且つ身体をくの字に曲げている。
火事場のなんとかで、何時も以上に力が発揮されたのかな、もしかして。
「あいたたた……。酷いよ、麻那。行き成り殴るなんて。しかもグー。女の子がグーだなんて……」
私なりに結構やったと思ったのに、司くんの表情や声音からはあまり痛そうに感じないのが癪に障る。さっきのくの字はなんだったのだろうか。しかも最後の方なんてどうでもいい事言ってるし。
「人の話をちゃんと聞かないからそういう目に遭うのよ。自業自得でしょ」
正当性は私にある。と、ぴしゃりと言い放ったんだけどやっぱりというか予想通り、納得しないのよね……。
「そんな……。僕は何時も麻那の話はちゃんと聞いてるよ? 僕が麻那の話をちゃんと聞かないだなんて、そんな事あるわけないよ」
「……はあ。もう、いい」
「え?」
「だから、もういいって言ったの! とりあえずあなた、半日は私の前に顔を見せないでくれる?」
これ以上は付き合いきれないとばかりに言い放った。
名前を呼ばないのは、その方が私の気持ちを表せると思ったから。
「どうして……?」
困惑を浮かべた司くんに、やはりこれ以上言葉を重ねたとしても分かってもらえないのだと気付いた。
どうしてなんて、私の台詞よ……。
なんとも言えない感情を、内心で溜息を吐く事で押し込む。
私はそれ以上司くんに言葉をかける事をせず、無言でベッドから降りるとドアへと向かって歩き出した。
「麻那っ!」
悲痛な叫びを耳が捉えても私はけして振り返らなかった。
振り返る事はしなかったけれど、立ち止まる。でもそれは司くんの為じゃない。
──目の前でゴロゴロと転がっているミイラもどきの所為で。
このまま進んでいたら、間違いなくぶつかる。
別にぶつかるぐらいなら問題ない。双方共に痛みは伴うだろうけどそれぐらいなら別に気にしない。でも、私が踏んづけてしまったら?
痛いのは踏まれたミイラもどきだけど、私は踏んでしまったという罪悪感を持つことになる。
ミイラもどきも好きで転がっているのではないと思うのだけど、だからって踏まれたいとは思っていないだろう──特殊な性癖を持っているなら別として。
そんなわけで、必然的に立ち止まったわけだけどあまり長い間突っ立っているわけにもいかない。
この状態を司くんに勘違いされても困る。──果てしなく困る。
「ちょっと、今転がっているミイラのあなた。申し訳ないけど、私がドアから出て行くまで動かないで欲しいの……。 勿論、私が出て行った後はまた同じように転がってもらっても大丈夫だから」
ミイラもどきは暫し考えるように動きを緩め──しかし、まるで嫌だと言うかのようにまた転がりだした。しかも、激しく。
一体何がしたいのよ、このミイラもどきは。話しでもてくれればいいのに……。いや、ミイラだから話す事はできないのかな、もしかして。
うーん……。
気にはなるけど、今はミイラの生態なんかを気にするよりも、この場から逃げる事が最優先事項よ。意識を切り替えなければ。
どうすれば通してくれるんだろう……。
こういう人物?は、私の周囲に居なかったから──居ても困るけど。対応の仕方が分からないのよね。
だからと言って、あまり考えてる時間はないし……。
──結果。気にしない事にしました。
うんうん。
こっちは一応忠告したわけだし──踏むとは宣言していなかった気もするけど、普通に考えたら分かる事よね?
その忠告を無視するという事は、交渉は決裂。なら私に踏まれたとしても文句は一切ないはず。
相手も了承済みだと言う事だし、気兼ねなく踏ませて、……間違えた──進ませてもらおう。
私は躊躇う事無く大きく一歩を踏み出した。
ぎゅむっ!
何かを踏んづけたけど気にしない。気にせず次の一歩を踏み出す。
ぎゅむっ! ぐりっ!
「えっと、麻那? さすがにそれはちょっと……。かわいそうだと思うんだけど……」
何故か司くんから非難の声が上がりました。
だからといって私は立ち止まる事はせず、ドアの目前までそのまま進んだ。そしてそこで初めて反論する。
「でも、元を正せば司くんの所為なんだよ」
そもそも司くんがあんな暴挙に出なければ、ミイラも私に踏まれる事はなかったのだ。
「うー……。確かにそのミイラを作ったのは僕だけど……」
って、結局は司くんが一番悪いんじゃないっ!
ミイラを作らなければ、私に踏まれる事はなかったのに……?
えっ!?
司くんミイラなんて作れるの!? 何その特技!? ミイラ作る人なんて始めて聞いたよ!?
驚きのあまりそのまま振り返りそうになったけど、なんとか寸前で思いとどまった。
今、私は怒っているわけで、そう易々と司くんと会話をするわけにもいかない。──さっきのは勿論、ノーカウント。
顔を見たくないって言ったばかりで顔を見て会話するなんて、それでは私が真剣に怒っているという事が伝わらない気がする。
気にはなるけど、それはまたの機会にでも聞けばいいだろうし。
だから違う言葉を口にする。
「そのミイラを司くんが作ったのなら、責任もって私が部屋に戻る前に何処かの場所に移動させておいてね。さすがにミイラと一緒に寝る事は出来ないから。
じゃあ、よろしくね」
私はそれだけを告げると、返事を聞く事もせずドアを開けて部屋の外へと出た。
部屋の外は、普通の一戸建てのお家と変わらない何の変哲もないフローリングの廊下。
見覚えは勿論ない。
まぁ、そうだろうとは思っていたけどね。
このままここに突っ立っていても仕方ないし、とりあえず階下へと行こうかな。
その方が、司くんもミイラの移動がし易いだろうし、第一顔を会わせる回数も間違いなく減らせるだろうしね。