第20話 光明
肺の底まで凍りつくような冷え切った空気と、鼻の奥を突く古びた石材とカビの匂い。
手に持ったランタン型の魔道具の青白い光が揺れるたびに、湿って苔むした壁には僕たち二人の影が巨大な怪物のように伸びては縮み、意思を持って不気味に蠢いているように見えた。
「……コナトスさん。さっきから、足音が多い気がしませんか?」
見えない何かに背中を撫でられているような不安に駆られ、僕は何度も暗闇の背後を振り返る。魔道具の光が、僕の乱れた鼓動に呼応するように頼りなく明滅した。
「気にするな。この広さだ、自分たちの音が反響してるだけだろ。」
前を歩くコナトスさんが、振り返りもせずにぶっきらぼうに答える。しかし、その手はすでに黒い鞘に収まった刀の柄に深くかけられ、指先はいつでも抜剣できるよう、微かに、かつ鋭く動いていた。
彼の研ぎ澄まされた感覚は、とっくに暗闇の奥の「殺意」を捉えているのだ。
その時だった。
通路の奥、光の届かない漆黒の向こう側から「カチリ」と、硬質な指の骨が噛み合うような、ぞっとする乾いた音が響いた。
「来るぞ。」
コナトスの短く鋭い声と同時に、闇のヴェールを突き破るようにして、三体の巨大な影が躍り出た。肉を持たず、黄ばんだ骨だけで構成された兵士「スケルトン・ウォーリア」だ。
虚ろな眼窩の奥に生前の執念だけを青白い炎として燃やし、錆びついて刃こぼれした長剣を振りかざして、骨が砕けそうな凄まじい速さで突進してくる。
コナトスさんは躊躇うことなく踏み込んだ。
一体目の大振りの一撃を、刀の峰で最小限の動きで受け流す。金属同士が甲高く鳴った直後、その流れるような勢いのまま下から斬り上げ、スケルトンの太い肋骨をいとも容易く粉々に両断した。
しかし、残りの二体がコナトスを無視し、隙だらけの僕を獲物と定めて左右から挟み込むように回り込んでくる。
「行ったぞ!!」
「了解です!」
恐怖はあった。だが、身体は不思議と強張らなかった。僕は脳内に、絶対零度の「凍土」を明確にイメージした。
詠唱はいらない。声帯を震わせるというまどろっこしい手順を飛ばし、頭の中で思い描いた事象が、直接世界に書き込まれるような奇妙な全能感。
瞬時に周囲の空気が熱を奪われ、左側から迫るスケルトンの両足を、分厚い氷柱が地面ごと縫い付けた。氷の結晶が、枯れ枝のような足首の骨をメキメキと噛み砕く鈍い音が響く。
そして右側、骨の兵士が頭上高く剣を振り下ろすその瞬間に向けて、僕は左手をかざした。
次は「氷の矢」だ。
手のひらから生み出された鋭利な氷の矢は、空気を切り裂く高音を上げ、寸分の狂いもなくスケルトンの右の眼窩を射抜いた。頭蓋の中で燃えていた魂の灯火がパッと吹き消され、糸の切れた操り人形のように、骨の塊がガラガラと音を立てて崩れ落ちる。
「よし、あとは――」
足を縫い止めていた一体に止めを刺そうと視線を向けたが、そこにはすでに、音もなく踏み込んだコナトスさんが肉薄していた。
銀閃。無駄の一切ない、冷酷なまでに美しい太刀筋。カランカランと乾いた音を立てて、最後の頭蓋骨が大理石の床を転がっていった。
「……やはり詠唱がいらないというのは、実戦において絶大な利点だな。スケルトン・ウォーリア三体を相手にこれだけ危なげないなら、この先も問題ないだろう。」
コナトスは、刀身に付着した見えない塵を指先で弾き飛ばすように払い、チャキ、と音もなく鞘に収めた。
「そろそろ第二層だ。守護者の間に出るはずだが……俺たちが敵意を見せなければ戦うことはないから安心しろ。適当に挨拶でもして通り過ぎるぞ。」
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「……おい。第二層の守護者も、出て来ないぞ。」
「……ですね。何というか……静かすぎます。」
この階層は「暗影の代理者ウィータ」という、スライムのような姿をした守護者が支配していると聞いていた。
しかし、広大な紫の石材で造られた神殿には、僕たちの足音と衣擦れの音だけが空虚に響き渡り、主の気配は微塵も感じられない。
「……誰かに倒されちゃった、とかですかね?」
「そんなポンポン守護者が倒されてたまるか! 第三層までの守護者は、何百年単位で生き続けている化物達だぞ!」
コナトスが苛立ったように声を荒げる。無理もない、彼のこれまでの攻略者としての常識が、全く通用しない事態なのだ。
「二週間前までは確実に目撃情報が出ていた。本当に何が起こってるんだ。……まさか、これもあんたじゃないだろうな?」
「ち、違いますよ! 色の付いた魔石なんて、あの赤いの一つしか持ってないですし!」
僕は必死に首を振る。実際、記憶のない僕にそんな大それたことができるとは思えない……多分。いや、少しだけ自信がない自分が怖い。
「………まあいい。ここで一度休憩を取るぞ。守護者の階層はモンスターが出ない。休むには丁度いい場所だ。」
コナトスは大理石の床にどかっと腰を下ろすと、腰の袋から小さな携帯型の砥石を取り出し、刀の刃を当てて静かに研ぎ始めた。シュッ、シュッ、という規則正しく冷たい音が、主を失った神殿の静寂に溶けていく。
……そういえば、彼の武器は実に独特だ。両刃の剣が主流のこの世界において、片刃の曲線美を持つ「日本刀」。その研ぎ澄まされた機能美に、僕はひどく興味を惹かれた。
「コナトスさん。その剣、すごく珍しい形ですよね。何かこだわりがあるんですか?」
砥石を滑らせる彼の手が、僅かにピタリと止まった。
「ああ、これか。これは爺さ……師匠の影響で使い始めたものだ。」
「師匠、ですか。攻略者って、みんなギルドで独学で這い上がっていくものだと思ってました。」
「俺はそもそも、ダンジョン攻略による名声や金が目的で潜っているわけじゃないからな。」
「それじゃあ…何が目的で?」
攻略を目的としない攻略者。ならば、彼は何を求めて、こんな死と隣り合わせの闇の深淵に身を置いているのか。
「強くなるためだ。……どうしても、俺が倒さなきゃならない人がいる。」
その声には、深い谷底から響くような、血を吐くような重い決意が込められていた。研ぎ澄まされた刀身が、魔道具の青い光を反射して、コナトスの金色の瞳を鋭く照らし出す。
「……あんたの面倒を手伝っているのも、そうすればゴレムさんが直々に稽古をつけてやるって言ってきたからだ。俺にとっては、願ってもない条件だったんでな。」
ゴレムさん……。守護者である彼が、一介の攻略者にそこまで持ちかけるなんて。
それにしても、コナトスさんが命を懸けてまで「倒したい人」とは、一体どんな人物なのだろうか。何もない僕とは違う、確固たる理由で刃を振るう彼の姿が、少しだけ眩しく、そしてひどく危うく見えた。
「……少し、話しすぎたな。あんたもしっかり休んでおけ。ここからが本番だ。」
彼は言葉を切り、再び黙々と研磨を再開した。その横顔は、まるで抜かれたばかりの日本刀のように鋭く、触れれば切れそうなほど張り詰めていた。
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そこから第三層への道程は、驚くほどスムーズだった。
天井の暗がりから音もなく忍び寄る「ジャイアントスパイダー」や、通路の石像のふりをして背後を狙う「ガーゴイル」といった狡猾な魔物たちを、僕の無詠唱魔術による牽制と、コナトスの神速の剣が次々と退けていく。戦闘を重ねるごとに、僕たちの間には言葉のない奇妙な連携が生まれつつあった。
そして今、僕たちはついに、目的である第三層の守護者の間――その巨大な両開きの扉の前に立っていた。
「ようやく、着きましたね。」
「ああ……。なあ、まさかとは思うが、この階層の守護者もすでに消えてて『不在でした』なんてオチはないよな?」
「ちょっと、怖いこと言わないでくださいよ!」
ここまできて空振りは流石に心が折れる。僕はすがるような祈る気持ちで、重厚な扉を両手で押し開けた。
ギギギ、と重い音を立てて開かれた先の空間は、これまでの神殿と同じ造りだったが、その色彩と空気感は一変していた。
地下深くであるはずなのに、眩いばかりの黄金色と、温かみのある黄色を基調とした豪奢な装飾。高い天井の巨大なクリスタルからは、本物の太陽光のような柔らかな光が降り注ぎ、肌を優しく撫でるような温風すら吹いている。
(……それにしても、神殿のデザインがどこも似てるな。もしや、ダンジョンの創造主の手抜き……?)
そんな不敬な考えがよぎった瞬間、中央に設えられた祭壇から、空間を揺るがすほどの巨大な一条の光が噴き上がった。
「ここに呼ばれたということは……初めてこの階層に足を踏み入れた者がいるのですね。」
黄金の光の中から響いてきたのは、喜怒哀楽の感情をすべて削ぎ落としたような、ひどく透明で中性的な声だった。
眩い光の柱がゆっくりと収束し、そこに一人の人影を形作っていく。
「ダンジョンの守護者が一人、燐光の代行者アカリと申します。」
現れたのは、精巧なガラス細工のように儚く、それでいて直視できないほど神々しい美しさを纏った、白装束の少女だった。長い髪が宙に揺れ、こちらを見下ろす瞳は、僕の魂の底まですべてを見透かすような冷徹な光を放っている。
ついに、僕の記憶の鍵を握るかもしれない「燐光の代行者」との対面だった。




