血の洗礼④
森の中。
わずかな風が、葉を揺らす。
擦れ合う音。
枝の軋み。
遠くで落ちる、かすかな木の実の気配。
だが――
その一つ一つが、今はすべて“情報”だった。
「では、始めましょう」
ボルックスの声が、静かに響く。
イヴァンスたちは、半円を描くように立っている。
視線は自然と、森の奥へ。
「まず前提として」
ボルックスは一歩、前へ出る。
足音は、ほとんどしない。
落ち葉すら、鳴らさない。
「森は“隠れる場所”ではありません」
一拍。
「“誘導する場所”です」
その言葉に、ベラミカの眉がわずかに動く。
「誘導……?」
「はい」
ボルックスは近くの木へと歩み寄る。
その幹に、軽く手を触れる。
ざらり、とした樹皮の感触。
「この木」
軽く叩く。
乾いた音が、小さく響いた。
その音すら、周囲の空気に溶け込んでいく。
「これ一つで、攻撃の方向は制限されます」
振り返る。
「背にすれば、後方からの攻撃は消える。
横に置けば、死角が生まれる」
一歩、位置を変える。
ほんの半歩。
だが、それだけで見える景色が変わる。
視界の抜け。
影の落ち方。
相手の侵入経路。
すべてが、微妙に変化する。
「つまり――」
視線が鋭くなる。
「“自分で安全地帯を作れる”のです」
イヴァンスが小さく頷く。
「……確かに」
理屈としては理解できる。
だが――
ボルックスは、静かに首を横に振った。
「それだけでは不十分です」
空気が、わずかに重くなる。
「守るだけでは、いずれ詰みます」
一歩。
さらに踏み込む。
その距離の詰め方すら、無駄がない。
「重要なのは――相手を動かすこと」
その言葉と同時に。
ボルックスの姿が、ふっと消えた。
「っ!?」
視界から、消える。
完全に。
気配も、足音も、何も残さない。
次の瞬間。
イヴァンスの横。
わずかに視界の外。
「ここです」
気付いた時には、そこにいる。
「……っ、速い……!」
イヴァンスが振り向く。
だが、もう遅い。
振り向くという行為そのものが、“後手”。
その位置取り自体が、“遅れ”の証明だった。
「今の私は、木を利用して視線から消えました」
ボルックスは淡々と説明を続ける。
まるで、呼吸でもするかのように自然に。
「では逆に」
一歩、後退する。
「皆様を“開けた場所”に誘導した場合」
視線を森の奥へと流す。
木の少ない、わずかに開けた空間。
逃げやすく見えて、実は最も危険な場所。
「どうなりますか?」
プラーサが答える。
「……四方から来られる」
「その通りです」
ボルックスが頷く。
「森において最も危険なのは、“囲まれること”」
一拍。
「だからこそ、相手をそこへ誘導する」
ベラミカが舌打ちする。
「嫌な戦い方ね……」
「戦場とはそういうものです」
即答。
一切の迷いも、躊躇もない。
その現実だけが、そこにある。
その時。
ジャックが木の上から声を落とす。
「あとさ~」
楽しそうに笑う。
「上、完全に忘れてるよね~?」
ぞわり、と。
全員の視線が上へ向く。
枝。
葉。
影。
そこに“あるはずのもの”を、今まで見ていなかった。
見えているのに、認識していない。
その事実に、遅れて寒気が走る。
「森ってさ~、“三次元”なんだよね~」
くすくす、と笑う。
「地面だけ見てるとさ~」
一拍。
「こうなるんだよね~」
次の瞬間。
ドサッ!!
イヴァンスのすぐ後ろに、何かが落ちた。
反射的に振り向く。
「っ……!」
ダントムだった。
無言。
気配もなく。
ただ、そこに立っている。
存在そのものが、圧になる。
空気が、押し潰されるように重い。
「……いつの間に……」
低く呟くイヴァンス。
ダントムは答えない。
ただ――
一歩、踏み出す。
ズン、と地面が沈む。
それだけで、足元から震えが伝わる。
逃げ場を塞ぐ“重さ”。
「上からの攻撃は、“奇襲”ではありません」
ボルックスが静かに続ける。
「“常に存在する前提”です」
セーニャが小さく息を吐く。
「……つまり、上下も含めて配置……」
「その通りです」
ボルックスが頷く。
「そしてもう一つ」
視線が細められる。
「“意識の誘導”」
その瞬間。
ふっと、右側から気配が漏れた。
わざとらしく。
明確に。
“気付かせるための気配”。
「……っ!」
プラーサが反応する。
サーチがそちらへ向く。
意識が、引っ張られる。
“分かっていても”、反応してしまう。
だが――
「遅い」
背後。
スランザの声。
「うわっ!」
プラーサが反射的に振り向く。
だが、その動きすら“後手”。
振り向いた時には、すでに終わっている。
「一方向に意識を集中させた時点で終わりだ」
冷たく言い切る。
「“見せる気配”と“本命”を分ける」
ジャックが笑う。
「これ、基本だからね~?」
セーニャが目を細める。
「……囮……」
「そうとも言えますね」
リータンが静かに補足する。
「ただし、“囮と悟らせぬこと”が肝要にございます」
森が、静まり返る。
理解は、できる。理屈も、繋がる。
頭では、分かっている。
だが――
(できるかどうかは、別……)
その現実が、重くのしかかる。
誰もが、同じ結論に辿り着いていた。
その空気の中で。
セラフィスが、楽しそうに手を叩いた。
「いいわね~」
にこり、と笑う。
「じゃあ――」
一拍。
ほんの少しだけ、声が弾む。
「今の全部、使ってみましょうか」
その言葉に。
空気が、一瞬で張り詰める。
理解した直後。
整理する暇もなく。
即、実戦。
逃げる時間も。
考える時間も。
与えられない。
「さっきよりは、マシになるでしょ?」
軽い口調。
だが――逃げ道はない。
「さあ」
ジャックが、にやりと笑う。
「“分かってる”んだからさ~」
一拍。
その笑みが、わずかに深くなる。
「少しは楽しませてよね?」
森が、息を潜める。
風が止まる。音が消える。
葉の揺れすら、止まったように感じる。
気配が、薄れる。
いや――
違う。
“薄れた”のではない。
“消された”。
認識できないレベルまで、削ぎ落とされた。
そして――
気配が、薄れる。
――いや。
“消された”。
そして――
次の瞬間。
気配が、完全に消えた。
――どこにも、いない。




