血の洗礼の前夜
塔の一室。
石造りの壁に囲まれた空間は、訓練場とは違う静けさを持っていた。
窓の外には、夕暮れに沈む森。
赤く染まった光が、室内の影を長く引き延ばしている。
「はい、今日はここまで」
セラフィスが軽く手を叩く。
その一言で、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
「明日からが本番よ。今日は基礎だけ、ちゃんと頭に入れておきなさい」
その言葉に、イヴァンス達は小さく頷く。
だが――
誰一人として、気を抜いてはいなかった。
「じゃあまず、サーチの復習からいこうか~」
ジャックが机の上に腰を乗せながら、軽い調子で言う。
「プラーサちゃん、さっきの“鼓動”のやつ。あれ、もう一回やってみよっか」
「……はい」
プラーサは目を閉じる。
静かに、呼吸を整える。
「焦らなくていいよ~。むしろ焦ると全部外すからね」
軽い口調。
だが、その内容は的確だった。
「“見つける”んじゃなくて、“違和感を削る”。覚えてる?」
「……はい」
鼓動。
遠くで、近くで、重なり合うように響く。
だが――
(多い……)
明らかに数が合わない。
「それ、ぼくちゃんがちょっと混ぜてるからね~」
にやり、と笑うジャック。
「でもさ、それでも“本物”は一つしかないでしょ?」
プラーサの眉がわずかに寄る。
(違和感……違和感……)
音を追うな。
リズムを見るな。
――“違和感の無い場所”を見ろ。
「……そこ」
ゆっくりと指を差す。
部屋の隅。
誰もいないはずの壁際。
「正解~♪」
ぱちん、と指が鳴る。
その瞬間、何もなかったはずの場所に、ジャックが現れた。
「いいねいいね~、さっきより精度上がってるじゃん」
軽く手を叩く。
「その感覚、絶対忘れないでね~。明日死ぬほど使っちゃうんだから。
ひひひ……」
さらりと言う。
プラーサの喉が、わずかに鳴った。
――明日。
その言葉の重みを、全員が理解している。
「次、イヴァンス、ベラミカ、セーニャ」
スランザが短く呼ぶ。
「“スリープ”だな」
「分かってるわよ」
軽く返すが、その表情は真剣だった。
「頭の近くでかける、でしょ?」
「それだけじゃねぇ」
スランザは一歩近づく。
「“詠唱しようとするな”」
低く、言い切る。
「詠唱しようとした瞬間、気配が出る」
ベラミカの目が、わずかに細まる。
「……精神感応させるってこと?」
「そう、頭の中で発動するんだ」
スランザは淡々と続ける。
「声に出すな。形にするな。
“やる”と思った瞬間に、もう終わらせろ」
短い言葉。
だが、その一つ一つが重い。
「詠唱は“準備”だ。準備してる時点で遅ぇ」
イヴァンスが小さく息を吐く。
「……つまり、相手の所に着いた時点で詠唱が終わるような感じか」
低く呟く。
「まあ、それでもいい」
スランザは頷く。
「でもな――」
わずかに目を細める。
「瞬間に発動できるレベルだったら、そんな必要もねーだろ?」
短く、言い切る。
ベラミカが小さく舌打ちした。
「結局そこに行き着くわけね……」
「当たり前だ」
スランザは一歩、間合いを詰める。
「詠唱してる時点で遅ぇ。
詠唱を“短くする”んじゃねぇ、“無くせ”」
空気が張り詰める。
その中で。
セーニャが静かに口を開いた。
「……スリープの魔術力を極限まで引き上げるってことですね」
確認するように。
だが、その目は既に理解している。
「その通りだ」
スランザは即答した。
「甘くはねーぞ」
低く、重い声。
ベラミカが舌打ちする。
「簡単に言うわね……」
「簡単じゃねぇ。だから練習すんだろ」
一瞬の沈黙。
その時、くすくす、と笑い声が響いた。
「いいねいいね~♪」
ジャックが壁にもたれながら、楽しそうに見ている。
「でもさ~、それだとまだ“戦闘”なんだよね~」
ひらひらと手を振る。
「今回やるのは“捕まえる”でしょ?」
にやり、と笑う。
「だったらさ~、もっと“逃がさない動き”しないとバットなんだよね~」
セーニャが静かに問い返す。
「……どういう意味ですか?」
「簡単だよ~」
ジャックは指を一本立てる。
「“選択肢を消す”の」
空気が、少しだけ冷えた。
「避ける、逃げる、反撃する――
その全部を潰してから近づくんだよね~」
ゆっくりと、ナイフを取り出す。
刃先が、夕焼けを反射する。
「相手が恐怖してる顔を見ながら、このナイフを――ひひひ……」
「こら、ジャック。殺しちゃダメでしょ?」
セラフィスが呆れたように声をかける。
「あ、ごめんよ~、セラッち。ぼくちゃんこういう性格だからさ~。
許してよね~」
悪びれもなく笑う。
「今日はここまでにしましょうか」
セラフィスが手を叩く。
「ちゃんと休みなさい。明日は容赦しないと思うわよ。
レッドシャドウの皆のことだから」
くすり、と笑う。
「でも大丈夫。死なないようにはフォローするから、ね?」
軽い口調。
だが、その裏にあるものは明白だった。
――容赦はしない。
部屋を出ると、外はすでに夜だった。
昼間とは違う、冷えた空気。
魔約の塔の周囲は静まり返り、音を飲み込んでいる。
その静けさの中で――
誰もが、同じことを考えていた。
明日。
本当の意味での“血の洗礼”が始まる。




