赤い影(レッドシャドウ)
カイル宰相の一家が別荘へと戻った頃には、すでに夜も更けていた。
重厚な扉が閉じられ、外の喧騒が完全に遮断される。
その静寂を破ったのは――バリンスだった。
「なんであんな簡単に引き下がったんです、父上!」
抑えていた苛立ちが、堰を切ったように溢れ出す。
「宰相たるもの、あのような村の庶民どもに――
“貴族とは何か”を見せつけるべきだったでしょう!」
言葉は止まらない。
「それに……セラフィスに対する態度だ!
あまりにも弱気すぎる!」
拳を握りしめ、父を睨みつける。
「貴族裁判にでもかけてしまえば、どうとでもなるはずだ!
あのような無礼、見逃す理由がない!」
静まり返った室内。
その中心で――カイルは、椅子に腰掛けたまま動かない。
しばしの沈黙。
そして、ゆっくりと視線を上げた。
「……バリンス」
低く、短く呼ぶ。
それだけで――空気が変わった。
バリンスの言葉が、ぴたりと止まる。
カイルはゆっくりと視線を上げる。
「貴族裁判、か……」
わずかに、口元が歪む。
「できるものなら、やってみるといい」
その声音には、皮肉すら感じられなかった。
ただの事実の提示。
「……どういう意味ですか」
苛立ちを押し殺しながら、バリンスが問い返す。
カイルは視線を外し、静かに言った。
「魔導士団には、表と裏がある」
その一言に、空気がわずかに張り詰める。
「表――グリーンライト。これはお前も知っているな」
「……はい」
「だが、もう一つあるのだ」
間を置く。
「帝国評議会の人間しか知らぬ部隊だ」
バリンスの眉がひそめられる。
「……何です、それは」
カイルは、ゆっくりとその名を口にした。
「レッドシャドウ――“赤い影”」
その瞬間、空気が冷えた。
リーパルの表情がわずかに強張る。
「その構成員は、たった七人だ」
カイルは一度言葉を切り、ゆっくりと二人を見渡した。
わずかに、間を置く。
「ファーリン連続通り魔事件」
「ブルーム人体発火事件」
「帝都の切り裂きジャック」
「黒霧毒殺事件」
「エリュース聖堂爆破事件」
「アーカット幻惑連続殺人事件」
淡々と並べられる名前。
だが――その一つ一つが、常識の外側にある“災厄”だった。
「……お前たちも、耳にしたことくらいはあるだろう」
一拍。
「構成員は――その犯人たちだ」
空気が、凍りつく。
「ち、父上……」
リーパルの声が、かすかに震える。
「その者たちは……極刑になったはずでは……」
カイルは、わずかに首を横に振った。
「表向きはな」
短い否定。
「皆、魔術力は一級品だった」
カイルの声は低い。
「だが、その力に呑み込まれた」
「理性を失い――」
「人の死を“愉しむ”ようになった、歪んだ者たちだ」
重い沈黙が落ちる。
「……捕らえることすら、容易ではなかった」
その言葉の重みが、静かに広がる。
「ラプロスとグレッグ――あの二人が捜査に加わり、
ようやく捕まえることができたのだ」
「やっとだ……。あれだけの犠牲を出した末にな……」
カイルの拳に、わずかに力が入る。
「極刑にすべきだと、皆が言っていたのだ」
静かに言葉を落とす。
「当然だ。あのような連中を生かしておく理由など、どこにもない」
わずかに間を置く。
「――しかし」
空気が、ぴたりと張り詰めた。
「それに反対した者がいる」
バリンスとリーパルの視線が、自然と父へと集まる。
カイルは、ゆっくりとその名を口にした。
「セラフィスだ」
その瞬間。
部屋の温度が、わずかに下がったように感じられた。
「……魔導士団長が?」
リーパルの声が、かすかに揺れる。
カイルは小さく頷いた。
「表の顔ではない」
低く、はっきりと。
「――裏の顔だ」
沈黙。
「セラフィスは多重人格者だ」
「普段のおどけた振る舞いは、“仮面”にすぎん」
「本性が表に出たとき――」
わずかに、言葉を切る。
「……“最恐”のセラフィスとなる」
その一言が、重く落ちる。
リーパルが息を呑む音が、やけに大きく響いた。
「あやつが前に出てきた時点で――」
カイルの声は変わらない。
だが、その奥にわずかな緊張が滲んでいた。
「誰一人、反対などできん」
断言。
「評議会であろうと、騎士団であろうと……例外はない」
バリンスの背に、冷たいものが走る。
「……それほど、なのですか」
絞り出すような問い。
カイルは、ほんのわずかに目を伏せた。
そして。
静かに告げる。
「犯罪者の六名など――比較にもならん」
一拍。
「そのレッドシャドウの頂点に立つのが――セラフィスだ」
空気が凍りつく。
「奴らが“歪んだ人間”だとすれば」
「セラフィスのそれは――“悪魔”だ」
ゆっくりと視線を上げる。
「人の命など、蟻を踏み潰すのと同じ感覚で扱う」
「躊躇も、罪悪感も、何もない」
淡々とした口調。
だからこそ、恐ろしい。
「それが……あやつの裏の顔だ」
沈黙。
誰も、言葉を発せない。
「一瞬だけだ。裏の顔が出たのだ」
「……だから私は、引いた」
最後に、ただそれだけを告げる。
言い訳でも、弁明でもない。
“当然の判断”として。
その重みだけが――
静かに、部屋を支配していた。
やがて。
「……あいつが……?」
バリンスの声は、もはや先ほどまでの勢いを失っていた。
カイルは、ただ静かに頷く。
「そうだ」
そして、最後に。
ゆっくりと、言葉を落とした。
「お前が“貴族裁判にかければどうにでもなる”と言った相手はな」
「帝国が“制御するために存在させている災厄”の頂点だ」
――その事実だけが、部屋に残った。




