未完の言葉
囲炉裏の火が、静かに揺れていた。
ぱち、と小さく薪が弾ける。
村長の家の居間は、外の冷え込みとは対照的に、柔らかな暖かさに満ちていた。
外では風が吹いているはずなのに、その音はここまでは届かない。
まるで、この空間だけが切り離されているかのようだった。
温もりに包まれているはずなのに、どこか現実感が薄い。
「それで? 本当に今日出るの?」
腕を組んだまま、ベラミカがやや不満げに言う。
「もう一日くらいゆっくりしても罰は当たらないと思うんだけど?」
「王都への帰還日程は既に決まってるからね~。遅らせられないのよね~」
プラーサが軽く肩をすくめながら返す。
だが――
「……とはいえ」
小さく、息を吐いた。
その吐息は白くはならないのに、どこか冷たさを含んでいるようだった。
「本音を言えば、もう少し滞在したいけどね」
その声音は、いつもの飄々とした調子を保っている。
けれど、ほんのわずかにだけ、本心が滲んでいた。
言葉にしなければ、流せたかもしれない未練。
「でしょ? 珍しく気が合うじゃない」
ベラミカがにやりと笑う。
プラーサは苦笑を浮かべて、視線を囲炉裏へ落とした。
揺れる火を見つめながら、ほんの一瞬だけ黙る。
「馬車の手配もあるし、護衛の配置も既に組まれてるから。
ここで予定を崩せば、ほかの人にも迷惑かけるからね」
理屈としては正しい。
むしろ、それ以外の選択肢がないことも分かっている。
だからこそ、言葉は軽くなる。
「ま、仕方ないっか」
そう言って、区切りをつけるように肩の力を抜いた。
――未練は、残したまま。
「……」
そのやり取りの横でセーニャは、黙ったままだった。
囲炉裏の火を見つめている。
けれど――見ているのは、そこではない。
揺れているのは炎ではなく、もっと別のもの。
意識が、少しだけ過去に引き戻されている。
「セーニャ?」
クラリスが、そっと呼びかける。
反応が、少し遅れた。
「……え?」
顔を上げる。
だが、その目はどこか遠い。
焦点が、ほんのわずかにずれている。
現実に戻りきっていない。
「どうしたの? さっきからずっと静かだけど」
「……ううん。何でもないです」
そう言って、セーニャは小さく首を振る。
自然な仕草。
けれど、その返答はあまりにも軽かった。
まるで、言葉だけでごまかそうとしているかのように。
「なんか、巫女舞のあの騒動からずっと上の空って言うか」
ベラミカがじっと様子を観察しながら言う。
「う、うん。ちょっと気になることがあって」
言いながら、セーニャは視線を落とした。
指先が、わずかに膝の上で動く。
落ち着かないように、触れては離し、また触れて。
無意識に、同じ動きを繰り返している。
「気になること?」
クラリスが、柔らかく問い返す。
責めるでもなく、ただ言葉を受け止めるための声。
少しの沈黙。
囲炉裏の火が、静かに揺れる。
その揺らめきが、時間の流れまで曖昧にしていく。
「……あの時」
セーニャはぽつりと呟いた。
「巫女舞の後、騒動になったでしょ?」
「ああ、セーニャとバリンスの間にイヴァンスが立ち塞がった時ね」
ベラミカがすぐに思い出す。
「あの時イヴァンス君が何か叫んだんです。
『俺の……』って、でもその後が聞き取れなくて」
「え?」
みんなの視線がセーニャに集まる。
「それって、もしかして?」
プラーサが思わず声を上げる。
その声音には、わずかな警戒が混じっていた。
「いやいやいや、ちょっと待って。それってつまり――」
ベラミカが腕を組み直し、考え込む。
「“俺の”の後に何が続くのよ。
“俺の護衛対象”とか? いやそれなら普通に言うか……」
「“俺の仲間だぞ”の可能性もあるしな~」
プラーサが淡々と補足する。
可能性を並べるように、理詰めで。
「でも、それなら引っかからないか」
クラリスが静かに言った。
そして、まっすぐセーニャを見る。
「セーニャ、その時の感覚ってどうだったの?」
問いは優しい。
けれど、核心に触れている。
セーニャは少しだけ息を呑んだ。
胸に、そっと手を当てる。
そこに残っているものを確かめるように。
「なんでか、ずっと残ってるんです」
消えない。
離れない。
時間が経っているはずなのに、薄れない。
まるで、そこだけが切り取られて残っているみたいに。
触れれば、すぐに思い出せてしまう。
「……告白されたみたいに」
その一言で、空気がわずかに変わった。
ベラミカが言葉を失い、
プラーサの目が細くなり、
クラリスだけが静かに受け止める。
誰もすぐには否定しなかった。
できなかった、と言った方が近い。
「確認する?」
クラリスの声は、穏やかだった。
急かすでもなく、逃がすでもなく。
ただ、そこにある選択肢をそっと差し出すように。
セーニャは、ゆっくりと首を横に振る。
「まだ、私にはそこまでの勇気はありません」
声は小さい。
けれど、その中にある感情ははっきりしていた。
揺れてはいるが、曖昧ではない。
「もう少し……もう少しだけ、友達として接していたいんです」
視線が落ちる。
膝の上で、両手がぎゅっと組まれる。
指先に、力がこもる。
「もし違って……離れてしまうのは、辛いです」
言い終えたあと、顔は上げられなかった。
囲炉裏の火だけが、静かに揺れている。
その沈黙は、重くはない。
けれど、確かに意味を持っていた。
「……そっか」
クラリスは小さく頷いた。
否定も、肯定もせず。
ただ、その気持ちを受け止めるように。
「大丈夫よ、セーニャ」
クラリスは小さく微笑んだ。
その声は柔らかく、けれど不思議と芯がある。
「気持ちの整理がついたら、いつでも私に言って。
ちゃんと確認してあげるから、ね?」
ほんの少しだけ、間を置く。
セーニャが顔を上げるのを待つように。
そして――
「……それにね」
少しだけ声の調子を変えた。
どこか、照れたような響きが混じる。
「実は、私――帝都に移住しようと思ってるの」
「……え?」
セーニャの目が、はっきりと見開かれる。
ベラミカも「は?」と声を漏らし、
プラーサが一瞬だけ言葉を失った。
空気が一度、完全に切り替わる。
「ちょっと待って、それ初耳なんだけど」
ベラミカが身を乗り出す。
「急すぎない!?」
「ふふ、ごめん。ちゃんと話すつもりだったんだけど……タイミングがね」
クラリスは少し困ったように笑う。
けれど、その笑みの奥には迷いがなかった。
「ニコラさんがね、帝都のお店の手伝いしないかって誘ってくれてて」
「あー……あの人か」
ベラミカが納得したように頷く。
「確かに、人手足りなそうだったもんね」
「うん。それでパパも了承してくれてるから」
クラリスはゆっくりと続ける。
一つ一つ、言葉を確かめるように。
その表情には、不安よりも決意の方が強く滲んでいた。
「今度の四月くらいを予定してるの」
静かな宣言。
囲炉裏の火が、ぱちりと弾ける。
まるで、その言葉に応じるように。
「だから――」
クラリスは、少しだけいたずらっぽく笑った。
空気を軽くするように。
「いつでも女子会できるわよ?」
その一言で、張りつめていた空気がふっと緩む。
ほんの少しだけ、場の温度が戻る。
「だから、無理に急がなくていいの」
優しく、言い聞かせるように。
「ちゃんと向き合う準備ができたときでいい」
セーニャは、少しだけ息を吸った。
胸の奥にあった重さが、ほんの少し軽くなる。
完全ではない。
けれど、確かに変わった。
「ありがとうございます。クラリスさん」
セーニャは、ようやく少しだけ顔を上げた。
ほんのわずかに、安心したように。
けれど――
胸の奥に残る言葉は、消えないままだった。
――『俺の……』
その続きは、まだ、見えない。




