四章 戦わざるもの、戦う時べき時(後編)
図書室には少し酸っぱい匂いが漂う。汗かなにかが本に染み付いているからだろうかと律は考える。
今日は、十一月の昼休み。
シュンシュンと音を立てる石油ストーブは、律たち戦隊の頬を赤く染めた。
ガードで慎重に囲んだそれは、図書室の一番広いスペースに置かれ、本や児童の皮膚などの接触を慎重に避けていた。
白いドラム缶のような、ゴミ箱のような筒状の金属の中で灯油が燃える。律はその紅い熱源をじっと見ていると眠くなってくる。
戦隊メンバーは小さく体を揺さぶり、冷たくなった指先をストーブにしばらくかざすと、図鑑の本棚へと進んだ。
律、陸。そして咲良、碧、珠緒。戦隊のメンバーはこの五人で暫定した。
今日はそれぞれのメンバーカラーを決めようと「色がいっぱい見れて、選べるところ」それは、やはり図書室の図鑑だろうと、みんなで連れ立ってやって来たのだ。
「あった、色の図鑑。このご本に色がいっぱい載っとるっちことやろ?」
図鑑のコーナーで立ち止まって、いち早くみつけた碧が、そっと本を引き抜くと振り返り、碧を中心にメンバーが丸くなる。
碧が立ったままページをパラパラめくると、みんなで目を見合わせて、ストーブの横のテーブルに座り合った。
図書室の本にしてはあまり繰り返し読まれた形跡は少なく、表面に細かい傷がついていることと僅かにめくれたカバーの端が人の手に触れた記憶として佇んでいた。
律はいつも思うが、図書室にはあまり児童の姿がない……。きっとこの楽しさに気づいていないだけの子もいるような気がして、それは少しだけ勿体なく思える。
けれど、決して強制するわけにもいかずいつももどかしい思いを抱えていた。
ストーブの上でゆらゆらと揺れる透明な空気をじっと見つめていた律が、みんなの方に向き直り、
「みんな、この図鑑で好きな色探してみよおや」
ぐるりとメンバーの顔を見ながら声をひそめ、こう言った。
ひとつの本を囲み、みんなはスーパーボール掬いで好きな色のボールを探すときのように、心を躍らせたような笑顔を浮かべページを慎重にめくる。
「あっ、見てみて! ばーんと……バーントシェンナーやって、名前かっこいい!」
興奮を抑えた様子で珠緒が、その色の上で手を止めた。
世界の伝統色を紹介しているページで、青系や赤系、茶系や黄色系など、水彩パレットのように四角く規則的に区切られ、様々な色が並んでいた。
律はその色の並びを眺めていると、駅ナカで目にするちょっと豪華なお菓子屋さんを思い出す。ずらっと並べられたオペラチョコケーキは、表面を彩りながらも層を重ねている。律も一緒に背筋をピンとつい伸ばしてしまいながら、フランボワーズの赤に口の中を酸っぱくさせていた。
「じゃあ、珠緒ちゃんはバーントシェンナーにするん?」
ビターチョコレートのボブを揺らしながら碧が小首を傾げた。
「うーん、名前はかっこいんやけど、色はもっと蛍光色の緑とかがいい。試験管の中身の色やん? わたし、将来研究する人になりたいけん」
珠緒が、うーんと首を捻り、腕を組んで考え込んでいる。律は、テレビで見るような試験管の中身は確かにそんな色だな、と思った。
「あ、ねえ珠緒ちゃん、この色ちかいかも」
咲良が指を差した先には、あざやかな緑が目を引いていた。
「わあ! 咲良ちゃんありがと! こんな色、こんな色。ピー……コック……グリーンは長いから」
珠緒がパッと顔を明るくさせると、ビシッと人差し指を突き上げ、
「決まった! わたし『ピーコックレンジャー』ね!」
と、声をひそめながらも高らかに名乗りあげると、メンバーから小さな拍手が起こった。
「わたしは、やっぱり桜の色がいいかなあ。自分の名前やけ」
拍手を止めた指を再び図鑑に浮かべながら咲良が呟いた。
「ならこんな感じ?」
碧がトントンと軽くその色を突いて咲良の気を引いた。指の下には「ネールピンク」と書いてあった。人間の爪の内側のような淡い桃色だった。
「んーん、桜の花はもっと曇っとって……」
咲良は小さく首を振り、その近くにあったとある色に目を止める。
「あっ! これや。ど……ドーン……ピンク? この色がいい」
満足そうにニッと口の両端を持ち上げて、咲良はさっき珠緒がやったように人差し指を高らかに持ち上げた。
「わたしはドーンレンジャー」
咲良は誇らしげに名乗るともう一度、笑った。小さな拍手がその笑顔を追いかける。
「陸はどの色がいい?」
律が隣に座った陸をチラリと見ると、彼は下を向いていた顔をハッとあげた。
「うん、やっぱ黒がいい。飛行機の色、何個か考えたけどスターフライヤーは地元の飛行機やし。うん黒がいい」
遠慮がちに陸がポツポツ喋ると、
「黒も色々あるよ、せっかくやけスターフライヤーに一番近い色がいいんやない?」
碧が黒や紺に近い色をいくつか指差す。陸は「えっと……」と言いながら目を瞑った。
腕を組んだり、んーと唸ると陸はまた目を開けて図鑑に顔を寄せる。時々、右上に視線を送って記憶をたぐっているようだ。
「これ、これだ! み、ミッド……ナイ……ト、ブルー」
陸は何度か頷くと、探し物を見つけた時と同じ顔をした。
「ミッドナイトブルー、おれミッドナイトレンジャー」
恥ずかしそうに、腕を折りながら人差し指を持ち上げると、再び静かな拍手が祝福を告げる。
「あとは、碧ちゃんと律くんやね」
珠緒がふたりを交互に見ながらにこやかに発表を促す。
「んー……おれは後回しでいいよ。碧、好きな色ありそう?」
律も、一緒に笑顔を浮かべつつ、碧の方に顔を向け順番を譲った。
「うん、でも……あのね」
碧は体を捩ったり、下を向いたり、何かを言いにくそうにしている。
「わたしの好きな色、この中になかったん」
下を向いたまま申し訳そうに碧が言うと、残りのメンバーは「そうやったん?」と声を上げ驚いた。ポカンと空いた口や、まんまるにした目を碧に向けていた。
「あんね、この前見たお花。ママは『ガーベラ』っち言いよったんやけど。あの花はね、ピンクから水色のグラデーションで可愛かったん。グラデカラーはこん中になかったから」
シュンとした様子で碧は依然として下を向いている。その視線の先で、パタパタと脚を動かしていた。
「じゃあ、碧が名前つけたらいいんやない? その色」
咲良が隣に座る碧の顔を覗き込みながら提案すると、碧はゆっくり顔を上げ、
「ほんとうに?」
と、呟く。すると、照れた様子で目を伏せながら、
「えーっとね……ユメカワ。ユメカワレンジャー」
と、口に手を当て笑った。そして碧が体を捻るほどに人差し指を掲げると、今度は拍手の代わりに、楽しそうな笑い声がクスクスと上がり、みんなで顔を見合わせて静かに楽しい気持ちを交換した。
「じゃあ、最後は律、リーダーお願いします」
少し芝居かかったように碧が促すと、律は目を丸くした後、すぐに腕を組み項垂れた。しばらくそのままでいたが、やがてバツが悪そうにゆっくり顔を上げると、
「ごめん、まだ決まらん。ね、先に『敵』を考えようや」
と、律は〝スキップ〟をさせてもらうことにした。
えーっ! と不満げな声がポツポツ上がったが、
「咲良、お絵かき帳持ってきてくれた?」
と、律が咲良に尋ねると彼女は頷き、手提げバッグからお絵かき帳を取り出し広げた。パラパラとページをめくると、咲良のお家で飼っているわんこ、流行りの漫画のキャラクターをモチーフにしたイラストがページの中で丸まったり、ファイティングポーズを取ったりしていた。
しばらくめくると真っ白なページが現れ、咲良は「準備万端」といった顔でメンバーの顔を見渡した。
律は「うーん」と軽く唸ると、
「でも、敵ってなんやろうね? オレら何と戦うんやろう」
と、言葉を捻り出すように呟いた。
「えっ」「うーん」という声がパラパラと溢れた。メンバーはそれぞれ顔を見合わせたり、下を向いたり、はたまた視線を空に泳がせたりした。
しかし、すぐに沈黙を破るものが現れる。
「わたしは『珠緒ちゃんは可愛いからアイドルになるんやろ』って言う人! もう一万回は言われたもん」
眉間に皺を寄せ、つい声が大きくなってしまったので、珠緒は慌ててキョロキョロと辺りを見回した。
「それがわたしの敵やと思う。だってめっちゃ嫌な気持ちになるから」
眉を寄せたまま珠緒が続ける。うつろな目は繰り返される疲労を何より語っていた。
「それ、どんな人?」
咲良が頷きながら、鉛筆を握りしめ、ノートの上に持って行く。針を落とす前のレコードみたいだ。律はお気に入りのミュージックビデオで、くるくると回る黒い円盤を思い浮かべた。
「うん、えーっと分からん。今までいっぱいいたから……」
珠緒はついに頭を抱えてしまう。目を瞑って記憶を辿っているかのようだが、律にはそれが防御の姿勢に思えた。
「なら合体させてみたら?」
咲良が鉛筆の芯を微かに閃かせ、珠緒にこう声をかける。
「そうそう、ゼイタクにいこう! まとめて全部やっつけようよ!」
頷きながら碧も同調する。
「ええ、そんなんアリなん? んーと、じゃあ顔はスマイルマークにして。こんなん言う人、いっつもうっすら笑っとおけ」
珠緒もつい小さく噴き出してしまいながらも、その提案はいたく気に入ったようだった。咲良は微笑みを返して鉛筆をノートに着地させる。音楽が流れ始める瞬間だ。
「で、腕はもじゃもじゃなん。そんで……花柄のマキシスカート履いとると」
「えっ待って待って珠緒ちゃん、今描いとるけん」
想像力と創造が爆発を始めた珠緒に、咲良が笑いながらも諭すように声を掛けた。その手はスマイルマークから毛むくじゃらの手をにゅっと伸ばし、寸胴鍋のような胴体を生やすと、最後に富士山の形のロングスカートを履かせた。
そうすると、富士山の台形に、マリーゴールドを図案化したような花を散らす。花芯から楕円の花弁が伸びるオーソドックスな姿だ。
「よし描けた! ねえ、珠緒ちゃん次は?」
ニコニコと笑いながら咲良が続きを促す。
「えー、わたしばかりズルいやん。そう言う咲良ちゃんは敵、おらんと?」
珠緒が照れたように笑うと、反対に咲良はピタリと笑顔をやめた。その様子に気づいた律は、
「どうしたん?」
と、恐る恐る咲良に尋ねる。
その声に、咲良は一度ハッと体を跳ねさせるが、口をきゅっと結んで下を向いてしまった。
「なんかあったと? 咲良」
隣の碧もその様子に心配して声をかける。
「……ごめんね咲良ちゃん、わたしなんか変なこと言った?」
珠緒も対面の咲良の顔を覗き込む。しかし、あまり近くに寄ってしまわないように慌てて少し顔を遠ざけた。
「んーん、珠緒ちゃんのせいやないんよ」
下を向いたまま、咲良は口を開いた。消えてしまいそうなほどに微かな声だった。
「あんね……実は『敵』って言われた時、一番にパッと思い浮かんだ人がいるん、でも。こんなこと言ったら怒られると思って言えんかったん」
途切れ途切れに、まるで告解のように咲良は話し始めた。
「なんで? 怒らんよ。言ってみて?」
親友の碧は、宥めるように咲良の方に手を置いた。咲良の顔が碧の方を向くと、ハッとして碧はこうつけ足す。
「でも、咲良が言いたくないんなら無理に言わん方がいいんかな……」
パチリとふたりの目が合うと、しばらく沈黙が流れた。
「……絶対に怒らん?」
その沈黙から身を捩って避けるように、咲良が重い口を開く。
「怒らん」「当たり前やん」
メンバーが口々にこう誓うと、咲良は最後にじっと黙っている陸を見た。陸はその視線に応えると深く頷く。
「あんね……お兄ちゃん」
予想だにしない答えに、切り裂くような静寂が訪れた。咲良以外のメンバーはみんな、目を見開いて小さく口を開け固まってしまった。
「やっぱ、悪い子よね。お兄ちゃんは家族なんに……敵なんて」
重苦しい空気に耐えられなくなった咲良が、半笑いで慌てて口を開く。眉頭を寄せて溢れそうな涙を必死にせきとめているようだ。
律は、父を神様に取られてしまった律は、家族という言葉に敏感になっていたかもしれない。今も咲良の言う通り家族の悪口なんて許せなかった。
……家族の悪口。おれもおばあちゃんの妹……だっけ、いとこだったかもしれない。でもおれが家族の〝味方〟やと思っとった人に、嫌なことを言われたことがある。
──この子泣かんと? 薄情な子ばい。
耳にこびりついて今も離れないこの言葉。不意に思い出すたびに蝉の声と一緒に頭の中に激しく反響する。
……あたま、いたい。
律は、同時にお腹も押さえる。
パパが帰ってこなくなってから何日か経って、学校の多目的室のような部屋に、黒い服を着た人がいっぱい集まって泣いていた。律だってその意味は分かっていたが、でもそれで受け入れることが終わった訳ではなかった。
むしろ律は笑ってしまいそうだった、ドラみたいな円盤がジャンジャン鳴るので。
その時はまだ、パパが「全部嘘だった」と言って、ある日いつものようにお家のドアを開けると思ったから。
「なんで……敵なん?」
気がつくと、律の口から言葉がこぼれ落ちていた。
「……お兄ちゃんはズルいから」
ふうと息を吸うと、咲良はか細く答える。
律は目を瞑って、ふぅと息を吐く。──咲良は知らない、多分そうだと思う。
「ありがと、言ってくれて」
ゆっくり目を開くと、律はやっとのことでこう答えた。咲良は頷くと、イラストの寸胴鍋の部分にボタンを五つ書き足した。学生服の飾りボタンだ。
「あんね……ママもズルいと思う?」
それをボーッと見ていた律は、視線を動かさずにこう尋ねた。誰の目も見ることが出来なかったけど、みんなに訊きたいと、律は思った。
「なんが……ずるいん?」
珠緒が横を向いて、引き攣った笑顔で律に尋ねた。
「おれにも……約束してくれる? 誰にも言わないって」
律は机の真ん中の方へ、身をかがめながらほとんど息のようにおずおずと言葉を並べる。
メンバー全員が、コクっと首肯した。
律が「信じるよ」と、念押ししてから。しばらく下を向く。やがて意を決したように顔を上げると、みんなは小さく輪を描くように上半身を乗り出した。
「あんね、ママは……徳永先生と、おれが小学生になる前、仲良く喋っとったんスーパーで。きっとお友達になりたいん。でもママに聞いたらそれは『ズルいこと』やからダメなことなんやって」
珠緒が「ええっ」と小さく息を飲む音が聞こえた。
「どう思う? 正直に……。先生とおれのママが仲良くしとったら、嫌?」
律はゆっくりとみんなを見渡す。目があった者から順に逸らされてしまう。
「……いや……かもしれん。ズルいって思うかも。えこひいきやって思うかもしれん」
最後に目があった、右隣の珠緒が、それと同時に答えた。
咲良と碧が一緒になって珠緒の方を見る。二人とも目をまん丸にさせていた。
「わたしも……正直に言うと『ズルい』って……でもそれ、きっと律だけやないんやと思う。同じクラスの誰でも、お母さんと先生が仲良くしとったら……なんか嫌な気持ちになるかも」
碧と目を見合わせて頷くと、咲良も声を上ずらせながら答えた。
「……ありがと、みんな。そうやね。うん、そうだと思う」
律がいくつか頷くと、確認の声かけのように繰り返す。何かを諦めたような声だ。
「でも、かわいそうと……思う。我慢するのは辛いと、思う」
ずっと黙っていた陸が、おずおずと意見を述べる。律は今度は左隣の陸を見て、眉間を持ち上げるように眉を寄せた。
すると、また律は下を向いて、
「うん、ママ。かわいそうと思う。おれら仲良くしちゃダメって言われることないけん、なんで大人にはそんなことが起きるんやろうね?」
と、やっとのこと、といったていで呟いた。
「咲良、それの周りにたくさんの目、描いてもらって良か?」
律は咲良のノートをじっと見ながらこう頼んだ。鉛筆を握ったまま、ぼーっと前を見ていた咲良はハッとした表情ののち「うん」と、頷くとその鉛筆を走らせた。
木の葉の形の真ん中に黒い丸、よく見るデフォルメ形の目や、少女漫画のように厚いまつ毛とハイライトが煌びやかな目、音楽記号のフェルマータのように単純化された目、動物のような黒目がちなつぶらな目が、並ぶ。
シャッ、シャッシャと三拍子のようなワルツの黒鉛が紙を滑ってゆく。
「律も描いてみたら?」
リズムを刻みながら咲良は、律に提案した。律は「うん」と控えめに返事をすると咲良から鉛筆を受け取り、歪な線を引く。咲良のようにリズミカルには出来なかったけど、芋虫のような中心に楕円にぐるぐると線を集め、黒くさせる。
「聖書に出てくる天使みたい」
ふっと軽く笑うと、咲良が呟く。
「なんそれ?」
珠緒がひっくり返りそうな声で尋ねた。
「ネットで見たと。目玉がいっぱいある天使。漢字ばかりでなんち書いてあるかよお分からんやったけど、羽根が生えとったし、光が眩しい場所におったけ、多分天使なん」
律に鉛筆を返してもらうと、咲良は間髪入れずに白鳥の翼をモンスターに書き足す。その翼はまさに、イラスト用にデフォルメされた天使の翼だった。
「なんか、一気に怖か」
碧が口に手を当ててクスクスと笑い始める。
「なら、これで完成なんやろか。おれ、これ怖くて好き」
陸も碧につられたように笑い出す。
「ならこれで完成でいいと思う人?」
律が控えめな声量ながらもこう呼びかけると、勢いよく一斉に腕が上がる。
「ほんと? 他に描き足したいところない?」
「生産者責任」のように咲良がおずおず尋ねると、「大丈夫」と口々に声が上がった。
「じゃ、おれたちの敵、記念すべき第一号の完成」
律が、その働きを讃えるように宣言すると、また小さな拍手が響いた。
咲良が、鉛筆をそっと机に置いた。レコードから針が上がってゆく、律は繰り返しと見たMVのそのシーンに重ねた。
「じゃあ、これとどう戦おうか……剣で切りつける? 破るとか」
剣に見立てた指を、自分の絵の上で振りかざしながら「メ」の字を描くように咲良はその刃をブンブン振る。
「いやあ、咲良の絵に色塗らせてって言っとったやん! わたしまだ塗っとらんよ」
慌てて碧が抗議する。この二人はどんな時でもイラストユニットなのだ。
「あっ、ごめん碧。んーじゃあこれをプリントしてやる……とかは? 図書室のコピー機借りて」
咲良も素早く謝ると、次の提案をした。
「やっぱ、せっかく描いてくれた咲良ちゃんの絵を切ったり破ったりは……いや」
「おれも!」「……おれも」
と、残りのメンバーは続く。
「んー、困ったな。戦うってどうやったらいいんやろ。そもそも戦うって……なん?」
律が右手を頬に当て、左手で右膝を掴むとため息混じりに問いかけた。
うーんと、方々から唸り声が上がり、みんな同じポーズになってしまう。律がため息をつきながら図書室の時計を見ると、昼休みが終わる予鈴の時間に針が届きそうだった。
「やば、昼休み終わる。とりあえず教室戻ろっか」
と、律が声をかけると、咲良は頷き手提げカバンにノートをしまい始めた。他のメンバーも立ち上がり、机の上と、座っていた椅子を整える。
図書室から教室まで帰る道、メンバーは楽しそうにおしゃべりしていた。廊下を塞いでしまわないように気をつけながら。
先生は学校で学ぶためのマナーを教えてくれるけれど、時々忘れそうになってしまう。
例えば……例えば「暴力をしてはいけない」
これは、もっと小さな頃から何度も聞かされたなのに、あの日の律が改めてしっかりと言い聞かせられたことだった。
優人の袖を引っ張ったあの日──。律は軽い脳震盪を起こしていたらしく、病院に運び込まれた。と言っても目が覚めた時は、病院の点滴がぼうっと見えたので、その間のことを律は覚えていないが。
いつもと肌触りの違う枕と布団に寝かされていた。
「律……」
次に、耳元にママの声が聞こえた。ずっと律のことを見ていてくれたらしく、身を乗り出して、目を合わせれくれる。
律は、罪悪感がぶわっと立ち上り、頭の中が熱くなった。その熱が頬からこぼれ落ちたかのように熱い。
「……ごめんなさい。ママ。ごめん」
言葉と一緒に律の目から雨粒のように涙が溢れる。
「なんで? なんで謝ると、律?」
ママは、決して声を荒げたりせず、律の手をさすった。
「……友達に、酷いことしたから」
律はしゃくりを上げる。
「どうして酷いことしたと思うと?」
「……多田くんが……ねえ、ママ。ママはおれのことが邪魔なん?多田くんがそう言っとたん? 本当なん?」
そこまで言うと、律はもう堰が切れてしまい、涙が溢れ出して止まらなかった。しゃっくあげるたびに、息が止まってしまいそうなほど苦しかった。
「それは辛かったね……律、なんがあっても律は大事で大好きよ。それは信じてくれる?」
ママが、律に繋がれている色々な管をうまく避けながら、頭を撫でた。律は頬をベシャベシャに濡らしたまま頷く。
「ありがと律、でもね暴力だけは何があっても絶対にしちゃいけん。人はお話ができるやろ? だからお話しないかん。でも……お話しても、嫌なことを言ってきたりしてきたなら。律の方が逃げないけん。逃げることはズルいことやないんよ。律のことを守ってくれることやからね」
ママがここまで言うと、律は目を閉じて再び嗚咽を漏らす。目を閉じる前に、ママからそっと下がった場所に徳永先生がいてくれたのを見た気がした。
──それはママの友達やから、それともおれの先生として?
律は、あの日泣きながら痺れた頭でぼんやり考えていたが……今日、その答えが分かってしまった。
ママも先生も、マナーが守れる大人なんや………。
律はメンバーが教室に入る姿を見届けてながら、しんがりを務めることにした。
教室の中に入ったら優人が律を睨みつける事は分かっていたし、そしてそれはその通りになった。
窓際の机に腰掛けて、一段高いところから、出入り口に立つ律目三角にした目をじいっと向けていた。
逃げることはズルいことではない、と教えてもらった。でも、律はもう少し、優人のことを──諦めたくなかった。
優人とはもっとお話ができる気がしたから。
もちろん、珠緒や咲良、碧は優人を一生と言っても過言ではないほど、許す事はできないだろう。だから、戦隊に入れることはできない。
──これはおれの自己満足で終わるかもしれんな。パパ、戦わない勇気ってここでも使っていいんやろか、おれ、やっぱり優人を敵やと思いたくないんよ。
「みんな!」
律が声をかけると、それぞれの席に着こうとしていた戦隊メンバーが振り返る。とはいえ、まだだんご状に固まってはいたが。
「おれ、色。決まったスカイブルー。空の色っち意味なんよこの色。おれ、スカイレンジャー!」
遅れてきた名乗りに、メンバーが嬉しそうに笑い静かに手を叩く。
イルカは国境線を跨いで泳ぐ、幾つもの線を越えて行く。
その中で、クラゲさんや海藻たちに酷いこともするけれど、いつか空まで越えてきっとパパのいる星へ……。
律は、自分の席につくと、窓の空へと腕を伸ばした。




