四章 戦わざるもの、戦うべき時(前編)
律はママに〝ママ〟以外の顔があることに気づき始め、少し寂しかった。
ママは世界の全てであり自分と一緒の人間だと思っていたから。
──でも違う、ママにはママの友達がいるし、おれとは違うことを考えて生きてる。
律は思う──おれの友達はママの友達じゃない。ママにとっては息子の友達なんだ。
大人が聞くと、なんて当たり前のことを言うのだろうと思われるかもしれないと律は思った。しかし、律にとっては天地をひっくり返すほどの大発見だった。
おれの友達はママの友達にはなれない。じゃあ、誰かがママの友達になってあげるんだろう。
ママは〝仲がいい子〟がいなくても平気なんだろうか。
2LDKのアパートのような居住区。律は母子支援施設で母と暮らしていた。ここで寝起きを共にしている。
父は「過労死」してしまったらしいけど、律にはそれがどういうことか分からなかった。
小学校に入学する前に彼岸に渡った父。律は自分とよくお話ししてくれたその父を今でも思い出す。市民プールで一緒に泳いだし。幼稚園児の時に父に持たされたお弁当もよく覚えている。
ヒーローの顔を模った揚げマッシュポテト。ケチャップを耳飾りのようにちょこんと付けてくれていたので、お弁当箱の蓋を開けたら、いつも真っ先にケチャップのトマトとスパイスの香りが飛び込んできた。
父とはよく特撮戦隊ドラマを一緒に観た。その時父が頭を撫でながら、
「律、戦う相手はよく選ばんといかん。逆に戦う必要のない相手とは絶対に戦ったらダメだ。今はわからんかもしれんけど、よく覚えておいて」
と、律の目をまっすぐ見て穏やかな声、しかし真剣な顔でいつも言い聞かせていた。
「戦うことは勇気のいることだ、でも戦わないって決めて、それをやり遂げることはもっと難しい。律、戦わん自分も大切に思ってあげて。優しさは最大の武器なんよ」
律は正直に言うと、本当に難しくてまだその言葉をよく分かっていなかったが、父の射抜くような目につられて、しっかりと頷いていた。
テレビでは必殺技を撃たれた怪獣が爆発している。花火よりも、もっと大きな橙の火花と沢山の白い煙がもうもうと上がっていた。それは、やがて画面いっぱいに広がり、記憶の中の映像を白一色に変えてしまった。
父と一緒に住んでいたマンションに、オレンジの柔らかい光が白いレースカーテンを染める。律が窓を開けると、パープーという豆腐屋さんのラッパが鳴った。ベランダの下を覗くと、小学生のグループがわいわいと、マンション内の公園で遊んでいた。ビュンビュンと縄跳びの律が響く。
後ろからママの「身を乗り出さんよー」という声が聞こえたので、振り返って返事をした。
仕事を終えた父を探したが、まだその姿はなさそうだ。律は一旦、ベランダの窓を閉めると手を洗い、冷凍室からソーダアイスを取り出す。
ひんやりとした冷気が漏れてしまわないように、素早くアイスを取り出すと、白い煙のように冷気が立ち上がった。
律は、アイスを齧ると、頭の中にがキーンという音が響く。「ふふふ」と笑いながらまた慎重に齧っていると、
玄関の鍵を開ける音が聞こえてきた。
しかし、母からはすぐに迎えに行ってはいけないと言われている。「悪いこと」を考えている大人が、偽物の鍵で開けているかもしれないからと。律はそっと、インターフォンを覗くと、自分のよく知った父の顔が見えたので、ほっと、一安心した。
リビングに入って来た父は、律の顔を見るなり顔を綻ばせ「ただいま」と言った。律も弾ける笑顔で「おかえり」と答えた。
律は明日も、父と市民プールに行く約束をしていた。
「パパ、忘れとらん? 明日プールだからね、早く帰ってきてくれた? 一緒に準備しよう!」
「そうやね、えっとゴーグルと……浮き輪は持ってっていいとこやっけ? お弁当も作ろうな。よし、その前にご飯作ろっか」
パパはそう答えると、「着替えてくる」と言い残して脱衣所に向かった。
それから三人で夕食を作った。そして三人でお弁当を作って、川の字になって寝た。律の好きな揚げマッシュポテトは明日の朝、ケチャップで仕上げのメイクをしてもらえる。
どこかの国では、お化粧とは戦うためのおまじないだと、律は少し難しい本で読んだ気がする。
その夜、律は夢を見た。パパもママも律もみんなイルカで。律がどれほど一生懸命泳ごうが、パパとママには追いつかない。
置いて行かれた……そう思ったイルカの律は鳴き声を上げ、水面が波打つ。
そうすると、息が苦しくなったと思ったら目が覚めた。律は、すごく寂しい夢だと思った。
律は悲しくなってまた目を閉じた。すごく楽しみだったはずなのに、いじけるような気持ちになった。再び襲う眠気は非常に気持ちが良くて、すぐに次の楽しい夢を見られると思った。
いつもより遅く布団から出ると、パパは会社に行っていた。約束を破ったのかと律は当然のように腹が立った。帰ってきたらパパにしがみついて沢山泣いてやろうと思った。
でも、パパは帰って来なかった。
律はこんなことになるなら、あの日はやく起きてもっと父に甘えておけばよかったと、どうしようもなく思ってしまう。
「なんで、約束破るん」
と、わあわあ泣いていっぱい困らせて……そう出来なかったのが「損だ」と、思う自分が──嫌だった。
小学校に入ってもママはずっと律には変わらずに接していた。いや、律にはなんとなく分かっていた。変わらずに接してくれるようにママが頑張っていることを。律はママをどうにか元気づけたいと思ったが、どうすればいいか分からなかった。せめてワガママを言わないようにすることしか出来ない。
そんな頃、ママが楽しそうに笑った時が一度だけあったことを覚えている。三月なのに妙に暑かったあの日。
律はママが運転する車で一緒にスーパーマーケットへ向かった。
「せっかくの休みなんに、こんなとこしか連れていけんでごめんね」
と、ママはバツの悪そうに笑った。律はママに謝ってほしくないと思いながらも、そんなことで駄々をこねるのはよくないと思い微笑みを返した。
その律の笑顔にママがまた、寂しそうな表情を滲ませるのが分かって、律はどうしようもなくなる。
律は時々苦しかった、ママの子供としてもっと無邪気に接していいのではないかと悩むから。しかし、それ以上にママを困らせたくなくて、自分の中の「聞き分けのいい自分」が律のワガママを我慢させる。
律はその聞き分けのいい自分の背中に押されて何も言えずにじっとしてしまう。
その度にこの人の「子ども」を演じてあげられなくて、律はとても申し訳ない気持ちになった。
乗り慣れた車なのに酔ってしまいそうで、律は思わず窓の外を見る。電柱からは黒い電線がこの町を張り巡っているようだ。律はテレビで観た綱渡りのショーを思い出す。
その奥では、誰かの家の前で引かれた側溝の線。その上で桜の花びらがひらひら舞って遊んでいた。こんなにあったかいから桜も自分の出番だと間違えてしまったんだろうかと、律は思う。
律は、町には沢山の線が引いてあると気がついた。もっと探そうと体を捩るが、車の狭い窓からでは立ち並んだ家屋が邪魔をして、遠くの景色が見えなかった。ジュニアシートのベルトがお腹に食い込む……これも線だ。
律は春の空気が好きだった。灰色の町にピンクの雪が降るこの光景が。でも今日はなんだか暑い、ママが律の手を引くがお互いの体温で掌が汗ばむ。
夕暮れ前のスーパーマーケットは、どんどん人間を吸い込む。ガラスの自動ドアが開くと、アリの巣みたいに人が出たり入ったりする。
律は父と見た昆虫のDVDを思い出していた。その中では、目の前と同じようにアリがぽっかりと空いた穴に吸い込まれていった。
律は急に走り出したりしない……とは自分で思っているのだが、ママは決して手を離さなかった。
ママは器用に片手でカートを操作する。律は早くそのカートを引いてみたいと思った。カートの小さな車輪がカラコロと鳴っている。
その音とリズムを合わせるように、有線から律の好きな曲が流れてきた。思わず耳を傾けていると、ママは当然のようにお菓子のコーナーへ向かう。
「好きなの買うていいよ、五〇〇円までね」
そういうと、ママは大きく笑った。律はありがたかったが、お菓子を食べる気分ではなかったので困った。かといって「いらない」と言ったらママをガッカリさせてしまう。律はさっきジュニアシートの締め付けたお腹が再び痛くなるのを感じた。
「んーん、お菓子よりジュースがいい」
律は少し、語気を強めてこう駄々をこねてみた……上手く出来ているだろうか。
ママはほんの一瞬、目を見開くとジュースのコーナーへ向い、箱ごとカート下部の大荷物用のラックに積んだ。
びっくりした律の目を見ながら、ママがにっこり笑うので、律は微笑み返しながらも胸がずきりと痛んだ。
──さっきの桜、枝からこぼれ落ちた花びらも、こうやって外の温度に合わせていたのかな。
買い物が終わる合図、レジでピッとバーコードを通す音を聞くとホッとする。律はサッカー台でお新香パックなどをポリ袋に詰める係をした。この時は自分にも役割がちゃんとあるように思えて、たまらなく嬉しいのだ。
律が袋詰めしたチルド食品を、ママは手際良くマイバッグに詰めると、またカートに荷物を詰め駐車場へ向かう。
自動ドアが開くと、むわっとした空気が襲いかかりそうだったので、律は身を固くした。
しかし、うっすら茜に染まった空が吐き出す風は、だいぶ暑さを和らげていた。とはいえまだなんだか生ぬるくて、律が腕で額の汗を拭うと同時に。
律は特撮ヒーローの番組で、怪獣が建物を踏み潰す音がしたんじゃないかと思った。
駐車場内を走る〝線〟が牙を向いた。排水溝の網フェンスが破れ、あんなに軽快な音を立てていた車輪がどっぷりとはまっていた。
「ああ、最悪や!」
ママが声を上げた。片手でカートを操作して引き上げようとするも、変なふうにガッチリはまってしまったせいか、なかなか上がらない。律がカートを持とうと提案するが、ママは律の手を離したがらなかった。
──ママ、信じてよ、おれ急に走り出したりせんのやって。
律は必死でこの言葉を飲み込む。
ママは片手でカートを、もう片手で律の手を握ったままパニックを起こしていた。
どうすることもできない律は涙の粒を目の端に浮かべそうになる。こんなとき、こんなときどうすればいいのか、どうして自分は分からないのか悔しくなってくる。
律が丸い雫を落としそうになったその時、
今まで聞いたことないくらいの優しい声がこうママに語りかけた。さっき風に乗って遊んでいた花びらみたいにふわりとした声。
「大丈夫ですか? お手伝いしますね」
後になって知る、律の小学校一年生に上がったときの担任の先生。
律は直感で「この人はママの友達になってくれる人や」と、思ってひどく安心したことを覚えている。
──先生と……弓美さんと初めてこのスーパーのフードコートでお喋りしたママの顔は忘れない。
ママが久しぶりに心から楽しそうに話をしていた。それは、律にとっても嬉しいことだった。
律の一番の友達は飛行機好き同士がきっかけで仲良くなった。律が一年生の時のある日、朝の集団登校中に樋口陸のランドセルに、クジラみたい黒い飛行機。スターフライヤーのキーホルダーをつけていたからだ。
律はわくわくしながらも、登校中はおしゃべりをしたら車が危ないので、校門をくぐるまで陸に話しかけるのを我慢した。
校門をくぐり、一列で縮こまったていた児童たちが、解放されたように、しかしはぐれすぎないように、わっと少し広がって歩く。
その時、教室に着くまでの間、律はやっと陸に話しかけられると嬉しくなり、彼に駆け寄る。
「樋口くん、飛行機好きなん? おれも好きなん! パパと北九州空港に見にいったことあるんよ」
陸の横まで小走りで近づき、肩に手を置きながらこう話しかけた。
「うわあっ」
陸は体をビクッと跳ねさせ、律に驚いた顔を向ける。立ち止まってしまった。
「あ、ごめんおどろかして」
律も彼のその様子に驚いてしまい、しょんぼりと一緒に足を止める。しばらく陸はグラウンドの砂粒をじっと見つめていたが、ややあってこう喋り出した。
「うん、飛行機好き。かっこいいから。空飛んでみたいって昔から思っとったん」
下を向いたままではあるが、陸は警戒を少しといた顔でこう答えた。心なしか頬も緩んでいる気がした。
「じゃあ、パイロットになりたいん?」
目を輝かせて、律はこう陸に尋ねた。
「うん……でも親がなれんっち。おれ、あたま悪いから。『陸って名前のお前が身の程しらずにもパイロットを目指すな』っち」
陸は力のない声でこう言った。
律はなんだか嫌な気持ちになった。どうしてそんなに人を傷つけるような言い方をするんだろう……。
「でもさ、陸がないとそもそも飛行機は離陸できんやん。着陸もできんよ。だから陸は飛行機を飛ばせるための『エンの下の力持ち』やん」
励ましたい、というよりは律は本当にそう思ったので、陸に伝えた。
「うん……うん、そうやね。ありがとう律くん。おれ……やっぱり飛行機動かす仕事したい」
立ち止まって下を向いたまま、ほんの少し微笑みを浮かべて陸はこうこたえた。
びゅうと風が吹いて、グラウンドの砂煙が上がったので二人は慌てて昇降口へと向かった。
いつか大きくなったら、一緒に羽田空港にいろんな飛行機を見に行こうと言った。
飛行機は、国内線だったら、県境、国際線ならいくつかの国境線を越えてゆく。
死んでしまった人は、おほしさまになったり、お空に行くというけれど、パパのいるところに少しは近づけるのかな……律はそう思った。
律はまたイルカになった夢を見た、今度は知らない海を泳いでいた。
半透明の、ゼリーみたいなクラゲを蹴り飛ばしたり鼻で突いたりして遊んだ。
海藻も尾びれで巻き取ったりした。ドレスのトレーンのように自分についてくる、ひらひらしたそれは水の抵抗を受けて、尾びれに重みを感じさせる。
「イルカは神聖性の動物」
そう思われがちだからこそ、こうやってやんちゃに遊ぶのが面白かった。
でも、イルカの律は気がついた。クラゲさんだって生きていたことを。亡骸を抱きしめてクラゲたちのパパやママが泣いていたので、律は急に申し訳ない気持ちになる。
今度は、海藻さんのママやパパがやってきたら、
「食べるために『しゅうかく』していただけなんです」と、律は言ってしまおうと思った。
……ごめんなさい、お腹が空いていたから食べたくて、尾びれに巻きつけてお家に持って帰ろうと思って……お腹が、空いてただけなんです。
律はぐるぐると謝罪、いいや言い訳の言葉を何度も頭の中で繰り返し練習する。
そうでなければ、胸がいたんで仕方なかったから。律は自分が傷つけた海藻さんたちの悲しみに──向き合うのが怖かった。
律は目が覚めると、エンエンと声を上げて泣いていた。
ママは学校を休むように言ってくれたけど、律にとってそれも、罪悪感でいっぱいだった。
次の朝起きると、律はまぶたがまだ腫れぼったく感じた。でも、学校にに行かなきゃママが心配すると思って、明るく笑って朝ごはんを食べようと思った。
「おはよう」
キッチンの引き戸を開けると、ママはいつも律より早く起きていた。挨拶を返しながらも、律はいつかママより早く起きて、ママの分のトーストを焼いてあげたいと思った。ママがいつもしてくれるように。
トースターからは小麦の焼ける香ばしい香りが立ち上り、律は今日も自分の夢……いや、目標を達成できなかったことを思い知る。
律は洗面所に走ると手を洗って、歯と顔も洗うとパジャマを洗濯カゴに入れた。持ってきていた服に着替える。キッチンでもう一度手を洗うと、冷蔵庫からミルクを出して二人分コップに注いだ。
このグレーの冷蔵庫はちょっと古い。ネーさんというおじいちゃん、この家にいる頃からずっと一緒の友達だった。
「おはようネーさん」
律が挨拶すると、ブウウン……とネーさんは返事をした。パッキンの音が続けてパタンと小気味よく響く。
「律、ありがと! ママの分バニラシロップも入れとってくれる?」
ママはキッチンのコンロで火の番をしていた。
フライパンからは卵とベーコンが程よく焦げるにおい。湯気に乗ってちょっと油っぽいそれは、律の食欲を一気に加速させた。
「うん! ママ、おれもバニラシロップ入れていい?」
律は、ダイニングテーブルの上に置いてある、ちょっとしたスチール製のスパイスラックからシロップ、食器棚のカトラリーが入れてある引き出しからスプーンを出しながら尋ねた。
「もちろん、入れ過ぎには注意ね! ママはスプーン二杯、入れ過ぎたら甘〜ったるくなるけんねえ、甘ったるお化けが出て不味くさせちゃうよー」
ママが少し白目をむいて「甘ったるおばけ」の真似──もっとも、律はそのお化けを見たことがないので、似ているかどうかはわからないが──をしたので、律は噴き出してそのままお腹を抱えて笑い出した。
「ああ、ごめん。ツボっちゃった? ベーコンエッグ出来たよ。いただきますしよか」
ママは少し、申し訳なさそうに笑うと律を席へと促した。
いただきますを言って朝食の時間になると、ママはシナモンの瓶をトントンと指で弾きミルクと、パンの上に塗ったリンゴジャムに乗せた。
律も真似する。アップルパイのような味になるので、ママはご飯が美味しくなる食べ方をたくさん知っているんだなあ、といつもすごいなという気持ちになる
「律、着替えとおけど今日は学校行けるん? 無理はせんでいいよ」
ママがトーストを齧り、ミルクを一口と飲むとこう律に尋ねた。
「うん、今日は大丈夫。あんね、陸と約束しとん。一緒に図書室で飛行機の本見ようって」
律は、出来るだけ明るく笑うように努めてそう答えた。そして、それは嘘ではなかったから。陸と一緒に昼休み、図書室へ行くことが本当に楽しみだった。
「そう」
ママは、ふっと柔らかく笑った。律はさらに大丈夫だと伝えようと、力こぶを作る。
「なんのアピールよ、気をつけて行ってくるんよ」
と、ママは噴き出したけど、心配そうな顔がどうしても隠しきれていなかった。
一年生の二学期になると律のクラスでは席替えがあった。最初は出席番号で並んでいたこのクラス。
律の名前の初めの名前は「む」なので、窓際から二列目だった。
先生の机がよく見えるこの席、書画カメラや書類ケースが置いてあるその席は「大人の仕事場」という感じがして、律はカッコよく思っていた。
引き出しには先生しか使わない朱色の墨汁もあって、その引き出しが開く時はワクワクした。
しかし今、席替えを終えた自分の席は後ろから二番目。教卓の前の列。プリントを配る時に後ろを向くと、掲示板いっぱいに元気な習字が見える席だった。
律は教室に到着する。お道具箱に今日の分の教科書とノートを詰めると、ランドセルをロッカーにしまってまた席に着く。
九月になっても教室は相変わらず暑かった。先に登校していた他の児童たちの中で何人かは、ぐったりと机に伏せているものもいた。
律は、下敷きをうちわがわりに使おうと思い、お道具箱を引き出そうとした時、隣の席の井上珠緒の持ち物が目に入った。布製のペンケースに縫い付けられている、白とベージュ。バイカラーの糸製の花には見覚えがあったから。
「井上さん、かわいいね! そ、」
「わたし、かわいいって言われるの嫌いやけ」
律が思わず珠緒に声をかけると、彼女は律を睨みつけて反射的に言葉が飛び出したようだ。
その顔はテレビで見た、人間を警戒している保護動物。律はそんなことを思い出した。
「勘違いさせてたらごめん。そのペンケースについとったアップリケがかわいかったけん。ママも作ってくれるんよ、えと、ドイリーとか。かわいいよね」
律が、出来るだけ声を抑えてこう弁明すると。珠緒は一瞬だけ目を丸くした。その後、恥ずかしそうに首をもたげると、
「早とちりしてごめん、うん、ウチもママが作ってくれた手作りなん。学校で守ってくれるようにって、お守り」
こう答える。その後、律にゆっくり顔を向けると、少しずつ表情を柔らかくさせ、
「ていうか、律くんって男の子やのにレース編み可愛いとか言うの?」
と、少し不思議そうにこう尋ねた。
「男子がレース編み可愛いって言ったらいけんの?」
律も律でキョトンとした顔をする。その顔を見た珠緒は小さく笑い、
「ごめん、ごめん。そうだよね、なんで逆にダメなんて思ったんやろ」
と、また笑った。
「ママもね、忙しいからあんまり出来んのやけど。おれもときどき道具借りて編んどると」
律の言葉に珠緒は「へーっ」と、感心すると、しばらくレース編みの話で盛り上がる。
レース糸が、一目一目丁寧に編み込まれてゆくように、ふたりはしばらく一生懸命言葉を交わした。
「そうだ! 図書室って『アミズ』置いとるやろか。今日は陸と約束があるけん、今度井上さん一緒に図書室で探してみない? 持って帰ったらママが喜ぶかも……」
律はハッと何か思いついたような顔をして珠緒に提案をした。
「いいね、それ名案。行こう行こう! ママ喜んでくれるかな。キッズ用のレース編みの本があったら、きっとママは初めて見るから」
珠緒もハッと息を呑んで、律の名案に乗った。
「うん、あんね今日の昼休みは陸と飛行機の本を探しに行くんよ」
「そうなんや、村上くんは飛行機も好きなんやね」
「そうだ! 飛行機のもちーふ。キッズ用の編み図やったら載っとおかもしれんやんね」
律が、また「思いついた」といわんばかりの顔でこう言うと、ふたりはクスクス笑いあった。
昼休みになると律は窓際の陸の席へ向かった。陸は窓から入る涼風(とはいえまだ少しぬるい)をそよそよ浴びて眠そうにしていた。
「陸、図書室行こう」
律がゆっくり声をかけると、陸はのそのそと律の方へ顔を向け、机の上を片付け始めた。
図書室は独特のにおいがする。律はそれを、家の本棚のにおいとも少し違うような気がしていた。
無垢材でできた本棚は部屋の印象を明るくさせ、お日様の光をたっぷりと食べているみたいだ。ピンクのカーペットや水色のイスを鮮やかに浮かび上がらせる。
丸くカーブを描く本棚には、絵本が顔を見せて並んでいた。その横を通って、司書さんに教えてもらった「乗り物」のコーナーへ律と陸は向かった。
見慣れたフォルムを本の表紙に確認すると、興奮した様子で陸が駆け寄るので律は「図書館で走ったら危ない」と注意した。
本棚からそっと本を取り出すと、ゆっくりとページをめくる。棚の前に座り込みそうになったので、いったん開いたページに指を挟んだまま近くのテーブルに移動する。
本を机の上で広げると、流線形の機体がずらっと並んでいた。律は、なんだか飛行機とイルカって形が似てるな、と気づいた。飛行機は空を、イルカは海を渡って行くからだろうか。
控えめに入る窓からの光は、しかし埃をきらきらと光らせる。律は冗談ではなく、飛行機を初めて見た時こんなふうにキラキラ祝福されたように光って見えた。ガラス越しに、遠くからしか見えなかったけれど、それでも。
国境線を越えて、人々を運ぶ乗り物。やっとの思いで故郷に帰る人。ワクワクと計画を胸に秘め、旅行へ行く人。様々な人を目的地へと平等に連れて行く。
律にとってはそれはヒーローのように思えた。
「ねえ、陸。どれが好き?」
律と陸は頭をごっつんこしそうなほど寄せ合って、同じページを見ていた。色んな飛行機がページ狭しと自己紹介をしているようだ。
「うん、全部好きやけど。ジャンボジェット、二階建って大きくてかっこいい」
陸が手を大きく広げながら答えたので、
「わかるー! 二階建てかっこいい! ねえ、陸は一階と二階のどっちに乗ってみたい?」
律も、大きく頷いて笑顔を浮かべ、質問してみた。
「うーん、どっちも乗ってみたい。階段登って二階にも行ってみたいし……一階の席もどんなんか見て見たい。うーん、でもやっぱ階段登ってみたいかも 律は?」
陸が腕を組んで、首を傾げながら考えた後に、律にも質問してみたようだ。
「あ! おれも階段登ってみたい! 探検みたいやん」
律が目線を本に再び移したその時。図書室の入り口の方で、大きな声でが聞こえてきた。
「村上くーん、助けて。村上くん、ここおる?」
珠緒の声だった、酷く泣いている。両隣にはには心配そうに寄り添う伊藤咲良と、井上碧が身を固く寄せ合っていた。
司書さんが慌てて駆け寄る、膝を折って三人の顔を交互に見ると「どうしたの?」と尋ねた。
陸は大きな泣き声に少々怯えているようだ。
「陸、ごめんここで待ってて。呼ばれたから行ってくるね」
律は、そっと陸の肩に手を置くと、彼は静かに何度か頷いた。
「井上さん、なんかあったん?」
律は、周囲に気をつけながら出来るだけ早足で珠緒の元へ向かった。
珠緒はしゃくりをあげてパニックを起こしているみたいだったので、律は「大丈夫やけんね」と声をかけ続けた。
やがて落ち着いた珠緒は、ポツポツと何があったのか話し始めた。
「あんね、お昼休みにね……みんなとおしゃべりしてたら多田くんが『井上ー』って呼んどったん。わたし、『なに』って返事したら、『お前やねえー、ブスの井上の方っ』って、碧ちゃんに言ったん」
まだ少ししゃくりをあげながら珠緒は話続ける。
「やけんわたし、思わず『碧ちゃんはブスやない! わたしの気を引きたくてそんなこと言うなら本当にやめて』って言ったん。そしたら、多田くん怒って、なんて言っとおか分からんくなったから、碧ちゃんの手を引いて教室出しょうとしたん。咲良ちゃんも心配してついてきてくれた。余計なこと言ったんならごめんねって碧ちゃんに行ったら、怒ってくれてありがとうって言ってくれたん」
珠緒がここまで話すと、嗚咽を漏らし始めてしまった。
「あんねリーダー、ウチらの戦隊、まだ組んだばかりやけど。律に助けてもらおって、図書室来ちゃった。迷惑やった?」
碧がおずおずと律にこう尋ねた。
この仲良しのふたりは咲良がイラストを描いて、碧が色を塗るユニットだった。そのイラストを見た律が「戦隊のエンブレムみたい」と、目を輝かせたことで、ふたりは律の戦隊に興味を持ち。入隊した。エンブレムのデザインを任されてみたかったのだ。
「んーん。リーダーはメンバーを、世界のみんなを守るためにおるけんね。大丈夫! 井上さん、まだ悲しい気持ちになってる?」
律は、珠緒の方に向き直ると再び声をかけた。
「うん、なんで多田くんてそんなに乱暴なことしか言えんの? 嫌い。最初はかわいいって言ってわたしのゴキゲンを取ろうとしてたんに、急に今度はブスって言うし。大きな怖い声出す、なんでそんなことするん、多田くん嫌い、嫌いになのになんで話しかけてくるん?」
珠緒はすっかり混乱しきっているようで、言葉にまとまりがなくなってきた。
不意に、四人の輪の真ん中にテッシュ箱がにゅっと差し出された。陸が司書さんに借りてきたようだ。
珠緒と、碧、そして咲良は「ありがとう」と、声を合わせると、テッシュで鼻を噛んだ。
律には分からなかった、どうして井上さんたちに酷いことを言うんだろう。
男子だけで、どこかに集まった時、体育の授業の前だったかな……。誰かが多田くん……優人は珠緒が好きだと、律は聞いたことがあったような気がした。
それじゃあ、 仲良くなりたいのかな? でも、そんなの仲良くなるための態度とは逆だよ。今度は律が混乱して来た。
珠緒たちが落ち着いたので、教室に戻ることにした。その道すがら珠緒も律の戦隊に入りたいと希望した。自分も戦いたいと。
律は父から教わった「戦わないと決めた方が難しい」という言葉を新メンバー全員に、通過儀礼のように言い聞かせて、納得したものだけ入隊してもらった。珠緒はゆっくり頷いて、まっすぐ律の目を見たので、律もゆっくり頷き返した。
教室に帰ったら、なんだかいつもと違ったピリっとした空気が流れた。
優人が、律をニヤニヤ見ていたが、目は嫌なほどギラギラしていた。
早々に優人は口を開く。
「律、女ばかりと遊んで、女たらしじゃん」
優人はその言葉の意味を知って使っているのだろうかと思った。少なくとも律にはよく分からなかった。
「多田くん、多田くんも戦隊に入りたい……一緒に遊びたいん? じゃあおれ達の戦隊に入る? メンバーの定員はないよ」
律は、説得するように優人に優しく声をかけた。優人は一瞬で顔を赤くし、律との距離を一気に詰めた。
律の顔にくっつくんじゃないかというほど近くで律を睨みつけると、
「うるせー、生意気言うなちゃ。知ってか? お前の母ちゃんはお前が邪魔なんだよ」
犬の唸り声のような声で優人はこう言う。
律は、すごく悲しくなって、自分でも気づかないうちに大きな咆哮を上げていた、そして対面の腕に掴み掛かると無我夢中で優人の袖を引っ張った。遠くで「やめて」と声がする。
その声に気を取られていたら、律は優人に強く振り解かれたらしく、教室の床に激しく叩きつけられた。
あまりの痛さに意識が遠のく。
パパ……パパ。おれね、クラスのみんなとは戦わんって決めとったん。だって、せっかく同じクラスになれたんやもん。助け合わんといけんと思ってった。
でも本当に、戦わない方がずっと難しい。戦わないこともひょっとしたらあるイミ戦いやないかと思うんよ。
パパ、パパ……難しいね。もっと教えてほしかった。
律は、ゆっくりと教室内の喧騒が聞こえなくなってくる。




