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三章 グラデーション

 終業式と同じ日にバザーは行われた。

 グラウンドにはテントが並べられ、かき氷や雑貨類の出店をしていた。教師の有志がホットプレートでフランクフルトを焼いている。燻製肉独特の香ばしさは「食べたい」欲を刺激した。

 風に乗ってソーセージの絶妙に焦げた空気が充満する中、PTAはテキパキと仕事をこなしている。

 夏の日差しがテントの影を一層黒く落とし、テントの中だけ夜みたいだ。

 弓美は自分のクラスの保護者に顔を出した。その中に紗智子(さちこ)がいる。かき氷を削っていた。


 ──金曜夜市の後、朝になって佐智子と(おと)を母子支援まで送ったらまた、教師と保護者の関係に戻ってしまった。約束も果たさずに。

 律の様子を窺っても、特に変わった様子は表面上見せなかった。しかしそれこそがまた……弓美(ゆみ)の心を痛ませた。

 傷ついていない訳がないのだ、ただ……我慢させてしまっているだけ。


「先生!」

 紗智子が声を掛けた。彼女もまたいつもと同じ笑顔を弓美に向ける。弓美は「はい」と返事をすると、紗智子からのバザー運営上についての質問に答えた。

 その横ですみれが、下を向いて作業をしている。黙々と作業をこなすことで、周囲との壁を作っているようにも思えた。

 弓美はすみれに「お疲れ様です」と、声をかけると、彼女は引き攣った笑顔で顔をあげ会釈をした。弓美は少し眉尻を下げながらも会釈を返し、静かにテントから離れた。


 次に弓美は体育館へと足を運んだ。そこではでは主に衣類と、玩具などの娯楽用品を売っていた。

 体育館の両端に長机が置かれて、実に様々なものが置かれている。リバーシやチェスなどのボードゲーム。日本刀のおもちゃ。

 児童用学校机より少し縦幅と横幅が大きいアメジストドームの結晶などもあった。

 ブルーシートが敷かれている部分は靴を脱ぎ上がるスペースになっており、山積みになったワゴンセールのような衣服が並んでいた。家庭科室のトルソーがマネキンのように着こなしのモデルを務めていた。

 ふと、長机に置かれた飛行機の模型を眺める律と、その友達である樋口陸(ひぐちりく)の姿があった。ふたりで頭がくっついてしまうくらい前のめりで、おなじものを凝視していた。


「ふたりは本当に飛行機が好きなんやね」

 弓美は思わず声を掛けてしまう。

 「うわっ」

 陸が驚いて声を上げてしまった。

「あ、ごめんごめん。びっくりしちゃったね」

 弓美は謝ると、陸はゆっくり振り返り、下を向いてしまったが微かに首を振っている。

「あ、先生! 見てドリームライナーの模型あったん!」

 すっかり興奮した様子の律が模型を小さく指差した。陸はきょろきょろと落ち着かないようだ。

村上(むらかみ)くんは飛行機の整備士になりたいんやったよね」

 弓美は律が以前提出した作文を思い出した。大きな字で『ひこうきにいたいところがないか しんぱいするおいしゃさんになりたい』と、枠いっぱいの力強い字で書かれていた。

 陸は再び下を向くとじっと固まってしまった。

 弓美は以前、校内委員会で「支援が必要な可能性のある児童」として陸の名前を出したことを思い出していた。

 授業を上の空で集中できない様子と、異様に多い「忘れ物」の部分が特に懸念されていた。特別支援コーディネーターは首を傾げながら「もう少し様子を見ましょう」と言っていたが……。

「陸! お小遣いもらった? おれさっきもらったんやけどこれ買おうかな? きっとこういうの『ほりだしもの』っていうんよ。ゲームでそう言っとったもん」

 律が値札のプラカードに鼻がくっつきそうなほどじっと見つめながらこう言うと、

「……うん、おれももらった。好きなもん買っていいって、さっき。律はドリームライナーにするん? おれは何にしようか」

 陸もつられてプラカードを覗き込む。肩と肩が触れそうなほどに身を寄せ合っている。

 弓美は微笑み踵を返すと、背中の賑やかな声にまた微笑んだ。


 体育館を見渡して、弓美は何か異常──トラブル等が起きてないかをチェックする。長机とブルーシートには人だかりができ、わくわくした顔は各々の「ほりだしもの」をじっくりと探しているようだ。

 ゆっくりとステージ右横に目をやると、人けのない一角があることに気づく。

 パーティションで日差しを防ぎ、展示物の色褪せを対策しているそこには、児童の描いた絵画を展示していた。

 校内優秀賞をもらった作品には「校長賞」と、金色のリボンが飾られていた。

 オレンジから黄色、グラデーションのチューリップ。それは弓美のクラスの児童が描いたものだった。花びらの先端には反射光の水色が縁取る。

 今年春の図画の時間、クラスの花瓶に差してあった花を見ながら書いたものだ。

 その絵をぼーっと見上げた児童、井上碧(いのうえあおい)はパーティションから漏れた日差しをリボンのように飾り、細かい繊維の埃をキラキラと纏っているようだ。


「これ、春に描いた絵やね。キレイに塗れとるね」

 弓美は碧の横にそっと近づくと、少し膝を折りこう声をかけた。耳の下まで伸びたボブヘアを揺らしながら、声のした方へ振り向くと、碧は人懐っこく笑う。光を浴びた髪がチョコレート色に淡くゆらめく。

「校長先生が好きな絵やって、さっき声かけてくれたん。クラスのみんなは変な色って言っとたんに……大人は変わっとおね」

 少し照れながら碧が口を開いた。

「変なんやないよ。校長先生は本当に井上さんの絵が好きなんよ。先生もそう思うよ、だってキレイやもん」

 相変わらず照れたように体をひねる碧に目線を合わせながら、弓美はこの授業が行われた光景を思い出していた。



 教室の中央、教卓に飾った花瓶には一輪のチューリップが咲いていた。学校の花壇から各クラスにもらったものだ。

 机と椅子を後ろに下げて、教卓を囲うように児童が座り、画板と画用紙を抱えた児童が座っていた。利き手のそば、床の上に置かれたクレヨンは一年生から続けて使っているものなので、箱はところどころくすみ、クレヨンの油がこびりついている。


 チューリップはまだ蕾が少し膨らんだ程度で、ランタンのように黄色い炎を灯しているようだ。

 多くの児童はその色を写し取るように、きいろのクレヨンを画用紙に勢いよく走らせている。ただ、ひとり碧は違った。

 まずはお椀の底のように、紫色で茎との境目を丸く彩る。隣の児童はその様子をめざとく見つけ、

「なんで紫なんか使うと?」

と、ギョッとした様子で尋ねていた。

 碧はそれには答えずクレヨンを持ち替える。チューリップの花びらをグラスに見立てると、シロップが底に沈んだようなオレンジを紫の上に置いた。夕焼け空を切り取ったカーブミラーのようだ。

 隣の児童はすっかり混乱して「きゃあ」と叫ぶ。


 弓美は少し早足で碧の元へ向かう。ワイングラスの持ち手のような形で添えられた茎も、縦に三分割したように真ん中がおうどいろ、両端は黄色いクレヨンを軽く擦るように動かして、あまりクレヨンの色が乗りすぎないように力を抑えているようだ。

 児童たちは何人か立ち上がり碧を取り囲み、パニックで泣いている子も現れ始めた。

 やがて満足したように碧がクレヨンを置き、顔を上げるとやっと教室の空気に気がついたようで、ハッとしたような表情を浮かべた。

「碧ちゃんなんでそんな怖いことするん? なんでそんな変な色で塗るん? 変よ!」

 しゃくり上げながら碧の顔を覗き込んで、隣の児童はこんな風に詰め寄った。

「怖いん? これ……変なん? だってこう見えるから描いたん」

 碧は弁明しながらもつられて泣きそうに、くしゃっと顔を歪める。


 弓美は慌てて、

「変なんやないよ、みんな。こっちに注目してね」

 と、教室中を見渡しながら大きな声でかつ穏やかに呼びかけた。出来るだけ一人ひとりの児童と目を合わせる。

 碧の肩にそっと手を置くと、彼女が弓美の方を見つめるので微笑み返す。


 弓美は学級文庫まで小走りで進み、自然風景の写真集を取り出すと、

「みんな〝川〟って何色やと思う?」

 そうみんなに呼びかけた。

「水色ー!」

 クラスで一番活発な児童が大きな声で答えると、同じようにいくつか声が上がった。同調するように元気な声、語尾にクエスチョンマークがつくような戸惑いがちな声、さまざまだ。

 弓美はひとつニコリと微笑みを浮かべると、渓流の写真のページを開き、児童の視線が集まる消失点の位置に掲げた。弓美の胸の前でまっすぐ突き出すような位置だ。

 青空の下には木々が茂り、画面の真ん中を割るように飛沫をあげ、ごつごつとした岩の隙間を縫い、川が走り抜けていた。

「この写真をよく見て? 川はほんとうは何色に見えるかな?」

 一旦、写真を体の方に引き寄せ、片手に本を持ち替えて指でその部分をなぞる。

「あっ……! あー! グレーかもしれん」

 例の活発な児童が目をまん丸に開いてこう叫んだ。「大きな発見をした」そんな声だ。

「まって、違うよ茶色だよ」

「ねえ、白いところもあるよ」

 児童たちが立ち上がり、写真を食い入るように観察を始めた。弓美は再び本を前に突き出すと、

「それは全部正解よ。見えた色が川の色なん」

 こう言った。

「少し難しい話やけど、川の表面はお日様の光を受けたらその光を『反射』して白く光るところもあるんよ。お日様の光が当たってるところ」

 そこまで説明すると、少し間を開けて児童の観察する時間を設ける。

「そして、茶色く見えるところは土の色が透けてるんかもしれんし、影になってるところはグレーかもしれん」

 身を寄せ合って、キョロキョロと動く四〇余りの瞳。泣いていた児童も顔を綻ばせていた。

「光の反射、ちょっと難しい言葉やけど、お日様がどう当たるかで見える色は変わるんよ。まったくおんなじ場所に立つことはできないよね? だから光の当たり方も見る人によって違うやろ? だから人間はまったく同じ色を見ることはできんのよ。つまり、見てる色っていうのは一人ひとりちがうと。みんなも、よーく観察して見えた通りにチューリップに色を足してみない?」


 弓美はインクルーシブ教育の講習で、視覚バリアフリーのことについて学んだ。

 人間の目には杆体(かんたい)錐体(すいたい)と呼ばれる視細胞があり、その錐体の感度により1型視覚から4型視覚まで分けられる。

 色の変化で、例えば赤い色と黄緑色で塗り分けて解説するような教材であると、その違いが分からずに勉強で置いていかれる可能性があるのだ。

 しかし、碧の場合は逆だろう。色を通常より多く見分けるのだ。二年生に上がって初のスケッチ、つまりは対象物を観察しながら初めて絵を描いたので、それが顕著に発露した。

 弓美は研修を受けてから、4型視覚の児童を実際にみるのは初めてだった。

「びっくりしたー! 碧ちゃんて変な色を使うけん『宇宙人』かと思ったよ」

 誰かがふざけてこう声を上げた。

「人のことを宇宙人とか言ったらいけないよ。傷ついてしまうやろ」

 声の主の方に顔を向けると、弓美はしっかりと諌めた。

「……はーい」

 その児童はそう言って下を向いてしまったが、小さな声でごめんなさいと言った。

 弓美は頷いて見せると、再び碧の元へ歩み寄る。

 碧はクレヨンを握りしめ、画用紙に何か描き足しているようだった。

 水色で花びらを縁取る。これで完成だというような満足げな顔でクレヨンをケースに収めた時、碧はまた不安そうにした。

「井上さん、キレイな『リムライト』やね」

 弓美は感心した様子で頷きながら碧に声をかけた。

「りむ……らいと?」

 聞き慣れない言葉に、葵はきょとんとした顔を斜め後ろの弓美に見せた。

「うん、光の当たったところをそう言うんよ。井上さんの光は今、こんな風に見えとるんやね」

 弓美がそう言って微笑むと、碧は安心したように笑った。



 ──宇宙人。

 わたしの古い知り合いにもそう呼ばれていた人がいるな、とぼんやり弓美は考えた。

 彼は特に嫌がっているそぶりは見せなかったが。

 本当はどう思っていたか、今となっては訊くこともできない。

 わたしがそうする道を閉ざしたんよ──。


 黒板に顔を向けると、スクリーンのように〝彼〟の顔を映し出そうとするが、その光を必死で遮る。

 その顔を見てしまっては、いけない。見る資格がない。映写機の前にそっとシャッターを降ろす。

 代わりに、鏡写しの自分の顔を見る。赤く泣き腫らしていた。



「……せんせえ」

 碧の声を聞くと、その風景は体育館の展示スペースだった。

 弓美は現実に戻ると、

「どうしたん?」

 と、聞き返す。碧は眉尻も口角も下げ、じっとつま先を見つめていた。

 弓美は彼女の様子をもっと窺おうと体を捻ろうとしたその時、

「なんで、学校で絵を描くの? 絵を描かんやったら、わたし変って言われることもなかったんに」

 碧が搾り出すようにこう言った。


 弓美は何も言うことができず、しばらく目をぱちぱちさせていると、

「井上さんは……絵を描くことがキライ?」

 やっと引き攣りながらも笑顔を浮かべ、ゆっくりと問かけた。碧は後手に手を組んで、ゆらゆら風見鶏のように揺れていた。

 大人は咲良の色彩感覚を「才能」と言うだろう。しかし、本人にとってはそうであると思わないかもしれない。そんな簡単なことにどうして気づかなかったのだろう。

 ……浮かれていた。よく大人の言う「宝石の原石を見つけたというジャッジ」弓美は無意識にそれに加担しようとしてなかったか、我が身を振り返ってゾッとする。それが、途轍もなく恥ずかしく思えた。


「んーん、色を塗るのは好き。あんね、咲良(さくら)ちゃんのイラストに色塗って『がっさく』するん。それは楽しい、でもクラスの前で色を塗るのはキライ。バカにするみんな嫌いになった……」

 一気に捲し立てると、碧は下を向いた。

 弓美はこんな時でも、「そうか、井上さんは伊藤さんと一緒に絵を描いて楽しいと思っているんだ」と、嬉しくなってしまう。

「そっか。本当に難しいことなんやけどね大人でも……。でもね、井上さんの色塗りを変って言う人より、好きって言ってくれる人、伊藤さんの言葉の方を信じてほしいんよ、伊藤さんのことは好き?」

「うん、咲良ちゃん大好き! 咲良ちゃんのイラストも大好き!」

 碧はパッと弾けるような笑い顔を見せたので、弓美は安堵の胸を撫で下ろした。


「碧ー! そこに碧の好きそうな白Tあったんて! どう?」

 律がパタパタと足音を立てながら碧の元に駆け寄ってきた。陸も一緒だ。

 弓美と碧が振り返ると、律がTシャツを広げて持っている。掲示板のすぐ横で行われといるワゴンセールから持ってきたのだろう。

「あっ! 本当だ。これすごいかわいいグラデーションだ。ありがとうリーダー!」

 碧は顔を綻ばせて、芝居がかかったように警官式の敬礼をした。

「村上くん……このみんなのリーダーなん?」

 掲示板の前でまあるく固まった小学生に、弓美は少し膝を曲げて語り掛ける。

「うん、おれら戦隊組んどると!」

 律が体を捻ってカフェオレ色のランドセルの側面を見せると、エンブレムのようなものをアクリルキーホルダーにしてぶら下げていた。この独特でカラフルな色使いは碧が塗ったものだろう。

 続けて、陸と碧も誇らしげに体を捻ると、お揃いのキーホルダーがぶら下がっていた。

「へえ、かっこいいエンブレムやね」

 弓美は感心して頷いてしまった。

「うん、でもなんと戦うかは考え中。でも、そのうち世界を救うかもね」

 律ははにかんだようにニッと笑うと、碧にTシャツをわたし、会計を済ますとパタパタと軽い足音を立てながら、グラウンドに降りたって行った。


 律はドリームライナーの箱をしっかりと、陸と碧も大切な「ほりだしもの」をそれぞれ抱きしめて、灼熱の空の下に飛び出す。

 そこでまたパーティションの向こうから律が、

「残りのメンバーもいつか紹介するけ、もちろんみんながいいって言ったらやけど」

 と、大きな声で呼びかけた。

「そう、楽しみにしとるね、あ、走っちゃダメやけね。ぶつかって危ないけん」

 弓美はそう言って、絵が飾ってあるパーティションの影から、眩しそうに目を細めて笑った。

 やがて子どもたちの、力強い足音が遠ざかると、光を照り返すグラウンドに溶けてゆくかのように駆けていった。


 宇宙人と呼ばれた碧。そして……(まこと)。彼が宇宙人だというならわたしは亮の宇宙に住んでみたいと思った。

 そっと、目を閉じると、この体育館の喧騒も夢みたいだと思った。

 体に伝う汗が夢と現の境目に溶けたドロドロの皮膚のように思う。


 ──眠っている時に亮に会う時、夢に「好きな人が」出てくるのは相手が自分に会いたい時だという、なんの科学的根拠のない「夢占い」を信じてしまいそうになる自分が嫌だ。

 だって会いたいのは……わたしの方に決まっているから。


 わたしは、亮にもしまた会うことがあったら、彼の顔を覚えているのだろうかと──怖くて堪らなかった。だからだと思う、夢の中で──亮の顔が見えそうになると、ブラウン管テレビがブンッと音を立てて消えるように夢から覚める。

 いつもの寝室の窓から入る淡い月明かりをぼんやり感じながら、勢いよく息を吸い込んだ後、ゲホゲホと咳き込んでしまう。

 しかし、これは罰かもしれない。話し合うこともせず亮から去った……いや、違う。

 きっと、彼はわたしのことなんて忘れている、そんな風に考えるのが──怖いなのだ。


「徳永先生」

 展示物のコーナーで目を瞑っていると、呼びかけられた。この声は教頭だろう、と弓美は思う。

 ──しまった。少しサボっているように見えても仕方ない。弓美が反省しつつも目を開けて声がする方に目をやると、予想通り教頭が立っていた。

 今日も、光沢のあるスーツをピッシリと無駄ジワもなく着て、一糸乱れず髪をワックスで纏めていた。

「ICT教育の外部委託者さんが、営業で近くに来たそうですから是非ご挨拶をと、アポ無しなので断ってもいいそうですが」

 合成音声のように抑揚のない声で教頭はこう言った。そして、正直にいうと教頭がそんなイレギュラーを受け入れることも意外だった。


「かまいませんよ、わたしの方もご挨拶しておきたいですから」

 それも、弓美の正直な気持ちだった。


 教頭に連れられ、渡り廊下を抜けると、さっきまでの喧騒が嘘のような静けさの中に蝉の声だけが騒ぐ。

 廊下も暑くて汗に溺れそうだ。

 パタパタと職員室のスリッパが吸い付くような音を立てて、見慣れた景色を進むと、焦茶の重い木製扉の前に辿り着く。校長室だ。


 ドアを開けると、ソファに半袖のワイシャツと、スラックスを履いた人物が応接用ソファーで麦茶を飲んでいた。

 弓美はその、横顔を見た時に思う。


 ──わたし、この人を知っている。


 今になって初めて分かった。

 人間というのは、姿形でその人を認識しているわけではない。

 表情の作り方や仕草、そんなことを積み重ねた総合的な印象。


 ……その人の纏う空気、その手触り。

 その感触で、ああ、この人だ……と感じていたのだと。


 応接ソファから立ち上がった男性は教頭に促されて、弓美の方へ、体を転換した。

 シャンとした立ち姿。

 

 弓美は、本当にごく自然に「好きだ」と、思っていた。



 


 


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