納得
夕方、海斗は帰宅した。
駅から徒歩で数分の自宅に両親と一緒に住んでいる。帰り道、北風に煽られて髪がくしゃくしゃになってしまった。
「ただいま」
玄関で髪の毛を整えてから靴を脱ぐ。
台所に行くと母が夕飯の支度をしていた。
「あら、お帰り。早いのね」
母が面食らった顔をしていた。
「うん。部活が休みだったんだ」
海斗は新聞部の顧問をしている。ただ部活に顔を出して彼らがしている事を見ているだけだ。
「休みなんてあるの?」
母が初耳だと言うようにきょとんとする。
「あったみたい」
他人事のように言うと母は苦笑した。
「海斗、着替えたらすぐに手伝って」
「うん……」
歯切れの悪い返事をしてから、海斗は部屋に戻るのをためらった。
母にも転勤の話を説明しないといけない。
「母さん」
「何?」
台所ではカレーの匂いがしていた。
秋月家では月に二度はカレーである。母がカレー好きだから文句は言えない。
「海斗、味見して」
「うん」
そばに寄り、味見する。
「これなら伊吹もおいしいって言うね」
そう言ってからハッとした。
そうだ。夕飯はいらないんだ。うっかり忘れるところだった。
「あ、あのさ、伊吹、今夜は夕飯いらないって、友達の所に泊まるみたい」
「あら、明かりついていたわよ、隣」
「え?」
泊まりに行くって言っていたのに。予定が変わったのだろうか。
「海斗、早く着替えて、それから伊吹ちゃんを呼んできて」
「分かった」
海斗は頷くと、階段を上がって自分の部屋に入った。
転勤の話は伊吹に話を通してからだ。もし、うっかり食事中に母が転勤の話をするとややこしくなる。やっぱり先に伊吹に説明しなくてはならない。
海斗はカバンを置いてスーツを脱ぐと、セーターとジーンズに履き替えた。
台所に戻り、夕食の準備を手早くしてしまうと、隣に行って来るね、と声をかけて家を出た。
伊吹の家は数メートル。門を開けて玄関前に立つと、ドアノブに手をかけた。回すと確かに開いている。伊吹の靴もあった。
海斗はいつものように無断で入り、伊吹の部屋を見上げた。
階段を上がり、勝手知った様子で廊下を歩いた。
この広い家には伊吹以外、誰もいない。
伊吹の母親と父親は会社経営をしていて多忙なため、めったに姿を見た事はなかった。
会うとしたら、朝早くに顔を合わせて挨拶をする程度だ。
「ねえ、伊吹、ご飯だよ」
海斗は言いながらドアを開けようとした。すると、
「開けるな!」
突然、中から伊吹の鋭い声がしてびくっとした。
「やだっ。誰よっ」
女の子の尖った悲鳴のような声もする。
海斗は全身冷たくなり慌ててドアを閉めた。
「ご、ごめんっ」
ドアの外から謝り、すぐに階段を駆け降りた。
やってしまった。
転がるように自宅へ帰った。
自分の部屋に入り、そのまま床に座り込む。
「うわわ…」
今何が起きたんだろう。
中の様子はちらっとも見なかったが、とんでもないことしちゃったのだ。
心臓がドキドキしている。
「やばい、どうしよう…」
転勤の話どころじゃない。
「伊吹に殺される…」
勝手にのぞいてしまったことを、数日間、責められるのだ。
海斗は大きく肩を落とすと、頭を垂れた。
「転勤したらこんな事もなくなるのかな……」
呟いたら、今頃悲しくなってきた。
泣きそうになる。
惨めな気持ちで自分を笑った。
だが、決めたのだ。
自分は教師になると決めた時、伊吹の事を諦めた。
隣に住んでいる少年の事が好きだった学生時代。
そばにいても心は通じない。
だから、好きにならないと決めたのだ。
「よしっ」
大丈夫。
いつものように自分を励まして、海斗は部屋を出た。