ケジメの決意
翌朝。
蓮が出勤してきた瞬間、
オフィスの空気が微妙にざわついた。
「え、あれ……?星野さん……?」
「なんか、顔……やばくない?」
社員たちの視線が一斉に集まる。
普段なら爽やかなオーラ全開の御曹司・星野蓮。
だが今朝の彼は、目の下に濃いクマ、
髪も寝癖のまま、覇気ゼロのゾンビ顔だった。
イケメンの面影などどこにもなく、ただの廃人と化していた。
(……やばい。完全に顔に出てる……)
本人も自覚していたが、気力が湧かない。
そんななか、優里が心配そうに立ち上がった。
「星野さん、ちょっと」
彼女は蓮の腕を軽く引っ張り、
周囲の視線から逃れるように非常階段へ向かった。
冷たい外気が入り込む階段の踊り場に出ると、
優里は蓮をまっすぐに見据えた。
「どうしたの? この間から変だよね」
その問いに、蓮は視線を逸らしたまま唇を噛んだ。
「俺……俺さ、本当は……見せかけだけで中身のない御曹司だったんだ」
蓮はかすれた声で続ける。
「でも……優里のおかげで……ここまで成長できた。正直、夢みさせてもらったよ。……まじで感謝してもしきれねぇ」
その表情は限界まで張りつめた糸が切れたようで、
今にも崩れそうだった。
そして次の瞬間……。
「……ちょっと!」
優里が声を上げる間もなく、
蓮は彼女を強く抱きしめていた。
「嫌だろうけど…… 同僚の情けだと思って…… 少しだけ耐えてくれ。 もうやらねぇから……今だけ、わがまま言わせてくれ……」
優里の肩に顔を埋め、声を震わせながら抱きしめる。
その腕には、最後の理性を守ろうとする必死さと、
離れたくないという未練が絡み合っていた。
(……最初で最後の、抱きしめだ)
蓮は心のなかでそう言い聞かせるように、
優里の温もりを全身に刻み込もうとした。
胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
彼は、これが人妻(と、誤解している)である優里と結ばれる、
最初で最後の瞬間だと確信していた。
涙で潤んだ目のまま優里の肩に顔を埋め、
彼の切実な想いと悲劇的な勘違いが最高潮に達した瞬間だった。
そんな彼に、冷たい声が降ってくる。
「……心情に浸ってるところ悪いんだけど」
「なんだよ……ムード台無しじゃねぇか……」
蓮は涙を浮かべながら、思わず情けない声を返す。
優里の冷徹な現実主義は、
彼のロマンスを容赦なく打ち砕く。
優里は小さくため息をついて、ふと蓮を見た。
「……今日の夜、時間あったりする?」
「……えっ?」
蓮の心臓が跳ねる。
抱きしめていた腕の力が一瞬緩む。
「優也が食事でもどうかって……。 嫌だったら……」
優里の淡々とした口調は、蓮の耳には全く届かない。
(……な、なぬっ!?)
蓮の脳内に稲妻が走った。
(これはまさか……ついにきたか!?優里を巡っての修羅場ぁぁぁ!!!)
即座に脳内スクリーンが起動。
高級レストランのテーブル席、
優里を挟んで蓮と優也が火花を散らし……
「優里は俺のだ!」
「いや、俺の妻だ!」
ナイフとフォークで決闘が始まる。
(くぅぅぅぅっ……!映画かよ!)
その一方で、目の前の優里は至極冷静だった。
「……べつに取って食ったりしないよ」
現実に戻された蓮は、迷うことなく……
「いく!」
秒速で答えた。
「……はっや」
優里はドン引きの表情を隠しもせず、
じとっと蓮を見やった。
(ちょ、ちょっと待て……完全に反射で答えちまった……!いや、でも!)
蓮は心のなかで自分に言い聞かせる。
(少しでもいい。少しでも優里と一緒にいられるなら……それだけで俺は満足だ。幸せ者だ……!)
拳を握りしめ、
勝手に「愛に生きる男モード」に突入していた。
「わかった、じゃあまたね」
優里は冷ややかな視線を蓮から外し、
非常階段をおりていった。
その背中には、先ほどの抱擁や、
秒速で「行く」と答えた蓮のことなど、
微塵も気にしていないというクールさが漂っていた。
蓮は優里の姿が見えなくなるまで見送る。
そして、顔を緩ませ、
恍惚とした表情で優里の言葉を反芻した。
「またね……」
彼は完全に立ち直っていた。
つい数分前まで人妻への叶わぬ恋に大泣きし、
悲劇のヒーローを気取っていた御曹司の姿は、そこにはなかった。
「かわいいぃぃいいい!!!」
彼は階段の手すりに寄りかかり、
全身から喜びのオーラを放出した。
修羅場の招待も、人妻という絶望的な誤解も、
優里の「またね」という日常的な一言の前では、
全てが輝かしいイベントへと変換されたのだ。
(ダメだな、俺は……。人妻相手に、何考えてんだよ……。でも……、でもさぁ……かわいすぎんだよ……!)
自覚はあった。
理性もプライドも
全てが優里の前では無力だということも理解していた。
しかし、その自覚さえも、
優里への愛を肯定する糧となっていた。
蓮は今夜の修羅場(夕食会)に向けて、
既に気分は最高潮だった。
夜、定時。
優里が軽く微笑んだ。
「いこっか」
その笑顔は、昼間の冷たい声とは違い、
柔らかく、包み込むようで。
蓮の胸は一気に爆発寸前になる。
「あ、ああ……!」
浮かれる声が裏返りそうになるのを必死に抑えた。
(やっべぇ……。これ、普通にやばくね? 誰かに見られたら完全にアウトだろ……。でも、でもさ、これは仕事の延長! あくまで食事会!……だよな!?)
蓮の頭のなかでは
すでにドラマ仕立ての映像が展開される。
会社を出た瞬間、街灯に照らされる二人。
隣を歩く優里の横顔を盗み見ては、
胸の奥がじんわり熱くなる。
「何? なんかニヤついてるけど」
優里が首をかしげる。
「えっ!? あ、いや……その……」
(やべ、顔に出てた!?)
蓮は慌てて表情を引き締め、とっさに誤魔化す。
「お腹減ったな~って」
だが心のなかでは……
(違うんだよ……。 俺はただ、こうして隣を歩けるだけで……満腹なんだ……!)
蓮はその横顔を盗み見ながら、
胸の奥でそっと呟いた。
(これで最後……。 最後だから……。 少しだけ、隣に居させてくれ……)
彼の足取りは浮ついていたが、
その奥底には、切なくも強い決意が渦巻いていた。
幸せで、でも苦しくて、
どうしようもない気持ちを抱えたまま、
蓮は優里と肩を並べて夜の街を歩いていった。
この夜の終わりに、
自分の愛にけじめをつける覚悟を決めながら。
銀座の街並みは、
夜の帳とともに一層きらびやかに輝いていた。
ネオン、ガラスの反射、ショーウィンドウの灯り
どれもが舞台装置のように二人を包み込む。
「うわぁ……銀座って、やっぱすげぇな」
蓮は浮き足立ち、
少年のように周囲をきょろきょろと見回していた。
隣を歩く優里は、落ち着いた表情で何かを探している。
「……あ、いたいた」
優里が不意に笑顔を見せて手を振った。
その視線の先には、スーツ姿の男性。
街灯の下で軽く手を上げ、こちらに歩み寄ってくる。
「……お兄ちゃん!」
優里が、柔らかく微笑みながらその男に駆け寄った。
「……ん?は? いま……なんて?」
蓮はポカンと口を開けたまま、足が止まる。
(……お兄ちゃん!? 俺の聞き間違いか? それとも……バカな俺の妄想か!? いやいやいや、絶対違う! このタイミングでそんな漫画みたいな展開あるか!?)
しかし、現実は残酷で、容赦なかった。
「やぁ、蓮さん」
その男は優里に似た目元で柔らかく笑みを浮かべた。
「改めまして、優里の“兄”の、桜庭優也です」
一瞬、時が止まった。
蓮の思考も止まった。
「……えっ、ま、まじで?」
声が裏返る。
「け、結婚してたんじゃ……」
「……は? 結婚?」
優里が冷え冷えとした声で振り返った。
蓮の背筋が凍りつく。
(あ、やっべ……完全に口に出てた……!!)
「ち、違うんだ! その……ほら、俺が勝手に勘違いして……」
言い訳を並べようとするが、
優里の目は完全に氷点下。
優里の冷え冷えとした声と、
優也の爽やかな笑顔が、
蓮のすべての妄想を一瞬で粉砕した。
蓮の頭のなかで、
これまでの壮大な
「人妻との不倫ドラマ」が秒速で巻き戻されていく。
昨夜の大泣き → 無意味
優也への嫉妬 → 無意味
「生まれてからずっと一緒」 → 兄妹だから当然
「ガソリン代」の屈辱 → 兄の優しさ
蓮の顔面蒼白だった色が、一瞬で熱狂的な赤に変わった。
彼のゾンビのように死んでいた瞳に、
一気に生命の光が宿る。
「え、ちょ、ちょっと待ってください! お兄さん!? 優里の、お兄さん!? え、じゃあ、結婚してない!? 優里は、人妻じゃない!?」
優里と優也は完全にドン引きの表情で蓮を見つめる。
「……は? 」
人妻じゃない。
その単純すぎる事実が、蓮の心臓を貫いた。
これまでの地獄のような絶望、秘密の保持、
そして最後の抱擁が、
すべて無意味な「自作自演のドラマ」だったという
衝撃的な悟りと共に、
抑圧されていた喜びが制御不能になった。
蓮の口から、歓喜の絶叫がほとばしる。
「うわぁあああああああ!!!!」
彼は天を仰ぎ、銀座のネオンに向かって両手を突き上げた。
「神さまぁあぁ!!!! 結婚してない! 優里は俺のもとへ来てくれる可能性が残ってるぅぅ!!」
優里と優也は、
銀座の夜の光景とはあまりにもかけ離れた
御曹司の狂乱を無言で見つめるしかなかった。
蓮は体中の血が沸騰するような高揚感に包まれ、
これまでのすべての苦しみが、
この瞬間のためだったとさえ思い込んでいた。
「……で、結婚? 誰と?」
優里の冷たい声が、
銀座のネオンよりも鋭く蓮の胸を突いた。
「ち、ちがっ……! その、なんか……すごく家庭的で、落ち着いて見えたから、俺が勝手に……!」
蓮は両手をブンブン振って必死に否定する。
だが目の下のクマと泣き腫らした顔のせいで説得力ゼロ。
「勝手に人妻扱いとか、どういう神経してんの?」
優里の冷たい眼差し。
ズガーン!と効果音が鳴り響くように、
蓮のHPがごっそり削られた。
「ちょ、ちょっと待って! 本当に違うんだって! 俺はただ、君の優しさに……その……」
言い訳タイム終了。
優也が横からなだめるように笑い、
蓮の肩をポンと叩いた。
「蓮さんって、すごく真っ直ぐなんだね。 妹のこと、そんなふうに思ってくれてたなんて……ちょっと嬉しいよ」
「え、ほんとですか!? 優也さん……!」
(あ、やっぱりこの人いい人だ……! 俺が勝てるわけねぇ……! 優里の兄ってだけじゃなくて、心の広さまで桁違いだ……!)
蓮の脳内スクリーンでは、
すでに優也が「理想の義兄ランキング」で
全国1位を獲得していた。
そして、その隣に立つ優里。
(……あぁぁ、やっぱ可愛い……。 いや、可愛いだけじゃない、気配りできるし、しっかりしてるし、もう完璧すぎんだろ……。 こんな人が俺と笑って話してくれただけで、奇跡だよな……!)
気づけば、蓮はブツブツと呟いていた。
「……あんなに可愛い人が奥さんなら……どれだけ幸せだったか……いや、顔だけじゃなく……性格だって……」
「ちょっと」
低い声。
氷のように冷たい優里のツッコミ。
「えっ……!? で、出てた!? 声に出てた!?」
「うん。まるっと全部」
ズガーン!
蓮は膝から崩れ落ちた。
「いやぁ、蓮さんってほんと面白い人ですね」
優也はニコニコしながら楽しそうに言った。
(え、待って……これ、俺、完全に兄妹のオモチャにされてる……!?)
「まあまあ、優里。星野さん、本当に面白い人だから。ほら、せっかく待ち合わせしたんだ。じゃあ三人でご飯でも食べに行こうか?」
その何気ない一言が、蓮の意識を瞬時に引き戻した。
「えっ、さ、三人で!?」
(……修羅場ぁ!?)
蓮の顔色がみるみる青ざめる。
「人妻」の誤解は解けたものの、
今度は「妹に本気な男」として
兄の公開尋問を受けるという新たな地獄が待っている!
蓮の脳内では超特大の妄想スクリーンが再起動した。
脳内妄想:兄の試練
(妄想シーン:高級料亭の個室)
優也:「蓮さん。 僕の妹、優里は誰にも渡さないよ」
蓮:「ぐっ…! わ、わかっています! しかし、優里への愛は…!」
優也:「愛? 星野グループの御曹司が、どれほどの覚悟で言っているのかな? 君の遊びに、僕の妹は付き合えない」
蓮:「遊びじゃない! 結婚させてくれ!」
優也:「ふふ、面白い。 まずは君の全財産をここに置いていくことだね」
(くぅぅぅぅっ! やはり試練だ! 妹は渡さない!という兄の魂の叫びだ!)
蓮は冷や汗を流しながら、
優也の優しげな笑顔の裏に潜む
「妹を懸けた闘い」を完全に想像していた。
蓮が恐怖と決意の表情を七変化させていると、
優里が心底うんざりした表情で蓮を静止した。
「……うるさい」
「えっ、俺まだ声出してなかったよな!?」
蓮は愕然。
(まさか…心の声まで読めるのか!?エスパーか!?)
優也はそんな蓮を見て吹き出した。
「ははっ、いやぁ、面白いなぁ蓮さん。じゃあ決まりですね、ご飯行きましょう」
「ちょっ、決まりって!?修羅場決定!?え、俺、死ぬ!?」
「いいから行くよ」
優里は容赦なく蓮の袖を引っ張る。
「うわっ、えっ、なんで!?なんで俺が一番イヤイヤしてるのにっ!?誰か止めろぉぉぉ!!」
ネオンきらめく銀座の街。
三人の奇妙な夕食会が、今まさに幕を開けようとしていた。
銀座の街は夜のきらびやかな光で彩られ、
ブランドショップのショーウィンドウが
まるで宝石の箱のように輝いていた。
行き交う人々の笑い声と車の音が混じるなか、
三人は肩を並べて歩いていた。
「いやぁ、まさか優里が職場でお世話になってる人が、こんなに気さくな方だとは!」
優也がにこやかに笑いながら、蓮の肩を軽くポンと叩く。
「そ、そんな、滅相もないっす!」
(お、俺、肩組まれてる!?家族公認!?)
ここから妄想が走り出す。
(蓮くん、君なら妹を任せられるよ)
(優也さんっ……!兄貴ィィィィ!!)
脳内で男泣きしながらガッチリと握手を交わす蓮。
その背景にはなぜか桜吹雪が舞っている。
だが、次の瞬間にはシーンが切り替わる。
(妹に近づくな、蓮!お前なんかに渡すもんか!)
優也がヤクザ映画さながらに襟首をつかみ上げる。
「ひぃぃっ!」と現実の蓮が小さく声を漏らしてしまう。
「蓮さん?どうしました?」
優也が首をかしげる。
「な、なんでもないっす!」と必死に笑顔を取り繕う蓮。
横で優里が冷ややかに一言。
「……あんた、歩きながら変な声出さないで」
グサッ。
冷たい視線が突き刺さる。
(ああ、やっぱり俺はこの兄妹に殺される運命なんだ……!)
蓮は勝手に涙ぐみ、
銀座の街灯を「人生最後の灯」とか思い込む。
それでも足は三人で同じ方向に進んでいく。
優也が楽しそうに
「この近くに、美味しいイタリアンがあるんだ」と提案するたびに、
蓮の頭のなかは修羅場シナリオで満ちていった。
「ほんとうにうるさい」
現実の優里が低い声で突っ込み、
蓮は一瞬で妄想から現実に引き戻される。
「は、はいぃぃ……」
肩をすぼめて縮こまる蓮。
銀座の光はきらめいているのに、
彼の心のなかは修羅場の火花が散り続けていた。
蓮、優里、優也の三人が案内されたのは、
銀座の喧騒から隔離されたような
落ち着いた雰囲気のレストランだった。
テーブル席に着くと、
優里は慣れた様子でメニューを開き、
蓮は優也の鋭い視線を恐れながらも、警戒を怠らなかった。
優也は、そんな蓮の緊張など意に介さない様子で、
気さくに話しかけてきた。
「いやぁ、まさか財閥の御曹司様とこうして食事することになるとはね。蓮さん、見た目通りのすごい御曹司なんだってね。ネットで調べちゃいましたよ」
「あ、いえ、そんな……ただの跡取りで……」
(ネットで調べた!? どこまで知ってる!? 俺の優里への求愛の歴史まで知ってるのか!? 優里に全部バラしたな、この野郎!)
「優里から話は聞いてるよ。蓮さんがどれだけ妹の仕事を手伝ってくれてるか。感謝してるんだ、本当に」
優也の心からの感謝の言葉に、
蓮の心の壁が少し崩れそうになる。
優也が妹想いの兄として温かい言葉をかけるたびに、
蓮の脳内では激しい修羅場劇が展開されていた。
優也:「妹に手を出すな」(翻訳:仕事の感謝)
優也:「優里は繊細なんだ」(翻訳:優里の体調を気遣う)
蓮は冷や汗を拭いながら、
目の前の料理に集中しようとするが、
優也の些細な動作すら
「妹を懸けた試練」に見えてしまう。
蓮の心のなかの修羅場は一向に終わらないが、
テーブルの現実は、気さくな兄とクールな妹、
そしてひたすら緊張している御曹司という三者三様の、
普通の楽しい夕食会として進んでいった。
料理の皿が半分ほど空になった頃、
優里のスマートフォンが震えた。
彼女は画面を確認し、少し眉を寄せる。
「……ごめん、ちょっと出るね」
そう言って席を立ち、レストランの外へと出て行った。
残されたのは蓮と優也。
一瞬の沈黙。
気さくで場を和ませていた優也の雰囲気が、ふっと変わる。
その目には、遊びの色は一切なかった。
「……蓮さん」
低い声で呼びかけられ、蓮は思わず背筋を伸ばした。
「はいっ!」
「優里のこと、どう思ってる?」
真っ直ぐな眼差しに射抜かれ、蓮は一瞬言葉を失う。
「え、えっと……その、すごく……いい人で、明るくて、えーと……」
「答えになってないな」
優也の表情は笑っていない。
蓮の喉がカラカラに渇いた。
優也は赤ワインのグラスを指で回しながら、
静かに口を開いた。
「……優里はね、多くの人から傷つけられてきたんだ。嫉妬や、根も葉もない噂……。あの子の容姿や立場が原因で、ずいぶん苦しい思いをしてきた」
「……」
蓮は息をのむ。
「だから優里は、人をあまり信じていない。 心を閉ざすこともある。 傷を隠すために、冷たい楯を身につけた。 強がっているように見えるだろうけど、本当は脆いんだ」
「誰にも言えないまま苦しむのが、あの子の弱さでもある。」
「……蓮さん、君はそれでもあの子を受け入れられるのか?」
蓮の胸がギュッと締めつけられる。
妄想ばかりしていた自分が、急にちっぽけに思えた。
「……俺は……」
言葉が震える。
(そんなの、受け入れるに決まってる……!)
だが、声に出そうとした瞬間、
喉が詰まって言葉にならない。
優也はじっと蓮を見つめていた。
その眼差しは、妹を想う兄のもの。
軽口も気さくさも消え、
ただ真剣な気迫だけが漂っていた。
……その時。
「お待たせ」
優里が何事もなかったかのように戻ってきた。
一瞬で張り詰めていた空気が霧散し、
蓮は慌てて笑顔を作る。
「お、おかえり!」
優里は訝しげに二人を見やりながらも、
椅子に腰を下ろした。
(……優里……俺は……)
「……俺は」
蓮の喉から、熱くて重い言葉がこぼれそうになる。
妄想も、勘違いも、全部関係なく。
ただ本心だけが胸を突き破って出てこようとしていた。
優也の真剣な眼差し、優里の抱える痛み。
全てを知った今、誤魔化しは効かない。
優里はスマートフォンをカバンにしまい、
平然とグラスの水を口に含む。
一瞬の間に、さっきまでの緊張感も告白の気配も、
全部なかったことにされてしまった。
(……俺、言おうとしたのに)
胸の奥で渦巻いていた想いが、行き場を失って逆流する。
熱く、苦しく、切ない。
声が震えそうになるのを必死で抑える。
(俺がどれだけ勇気を振り絞っても……優里にとっては、なんでもない時間なんだよな)
隣で微笑む彼女と、正面で気さくに振る舞う優也。
二人の自然な空気感に、
自分だけが余計な熱を抱えている気がして、息が詰まる。
「……俺は」
小さく呟いたが、優里の耳には届かない。
届いてはいけない、と自分に言い聞かせるように、
声はすぐに喉の奥で消えた。
優里はグラスを置き、優也と楽しそうに話し始めた。
蓮の心だけは、深く沈んでいった。
彼は優里との間に存在する、
見えないほどの深い溝を、ただ一人で痛感していた。
(……もう、これで終わりにしよう)
胸の奥で、誰にも届かない声が鳴り響いた。
優里が目の前で笑っている。
その姿が眩しくて、苦しい。
隣に座れることさえ奇跡のように思えたのに、欲を出してしまった。
だけど、蓮にとっては、
それさえも特別で、切なかった。
(優里にとって俺はただの同僚。それ以上でも、それ以下でもない。俺が勝手に舞い上がって、勝手に勘違いして……もう、終わりにしないと)
水を飲み干し、グラスの冷たさで熱を抑え込む。
優也の軽やかな会話に、優里の淡々とした相槌。
二人の自然な空気に割って入る余地なんて、
最初からなかった。
(でも、少しの間でも夢を見られたのは、本当に幸せだった。優里と過ごす時間が、俺を変えてくれた。……それで十分だろ)
胸の奥に張り裂けそうな痛みを抱えながらも、
蓮は笑顔を作った。
それは精一杯の、最後の意地。
「……楽しいな」
声が震えそうになるのを抑えて、そう言った。
「……そう?」
優里が少し首をかしげる。
「うん。ほんとに」
(これでいい。これで終わりにする。優里の笑顔を胸に刻んで、俺は前に進むんだ)
決意は固い。
でも、その裏で、涙が喉の奥にじわじわ溜まっていく。
誰にも見せられない、弱さと未練。
蓮は箸を取り、無理やり食事に集中するふりをした。
これ以上心を乱せば、
優里の前で取り返しのつかない言葉をこぼしてしまう。
(終わりだ。今日で……)
心のなかでそう繰り返しながら、
蓮は最後の夢を、静かに手放そうとしていた。
食事を終え、銀座の駅に向かう帰り道。
桜庭優也は満足そうな笑みを浮かべながら、
優里と蓮のわずかに前を歩いていた。
「いやー、美味かった。今日は楽しかったよ、蓮さん」
「あ、はい! ありがとうございます!」
(優也さん……! 俺に優里を託す気か!? 最後の試練だ!)
優也は優里を見てから、蓮にわざとニヤッと笑いかけた。
その笑みは、蓮には「あとは頼んだぞ」という
無言のメッセージに見えた。
「じゃあね、優里。俺、先に帰るわ」
「……は? 同じ家なのに?」
優里は心底理解できないといった様子で首をかしげた。
「空気読め!」
優也は、蓮にだけ聞こえるような声で
「あとは頑張れ」と囁き、
颯爽と別の方向へ去っていった。
優里は眉根を寄せ、
兄の行動の意味を必死で理解しようとしている。
そんな優里の隣で、
蓮の頭のなかは最高潮にヒートアップしていた。
(な、なんだと!? 優也さんが、気を遣ってくれた!? 俺に優里と二人きりになる、最後のチャンスを与えてくれたんだ! 別れを告げる、最後の舞台を整えてくれた!)
蓮の心のなかでは、優也の悪質な遊び心が、
すべて自分のための「最高の別れの演出」として美化されていた。
蓮は背筋を伸ばし、深く息を吸い込んだ。
優里はまだ兄の奇行に戸惑っている。
「まったく、あいつ……」
優里の困惑した声が、蓮にとっての別れの合図となった。
(これで本当に終わりだ。 優也さんの優しさを無駄にはしない……俺は、身を引く!)
蓮の胸の奥では、痛みと決意が混ざり合っていた。
彼は優里に最後の言葉を伝えるため、声を振り絞った。
これが、優里とケジメをつける最初で最後のチャンスだ。
「あの……優里」
「なに?」
蓮は深く息を吸い込んだ。
喉がカラカラに渇き、心臓は警鐘を鳴らしている。
しかし、決意は固い。
「俺、優里のことが……好きでした」
でした。
過去形にすることで、愛を終わらせたという覚悟と、
優里への配慮を表現したつもりだった。
これで全てが丸く収まるはずだ。
しかし、優里の反応は蓮の予想を遥かに超えていた。
「……でした?」
優里は何の感情も込めず、
ただオウム返しのように蓮の言葉を繰り返した。
その吞気で平然とした態度が、
蓮の張りつめた糸を簡単に引きちぎった。
(ちょ、待てよ!? なんでそんな冷静なんだよ!? この場で過去形にすることで、俺がどれだけ苦悩したか察しろよ!)
蓮の「ケジメの決意」は
優里の無邪気な一言によって秒速で瓦解した。
「いや、違います! 好きです! 現在進行形で好きです!」
「でした」から「です!」へ、一瞬で言葉が逆流。
蓮は大声で叫び、その場で自己崩壊した。
彼の顔は真っ赤になり、涙腺が緩む。
「……はぁ?」
優里は心底呆れた様子で蓮を見上げた。
その目には氷点下の温度が宿っている。
蓮の頭のなかで警鐘が鳴り響く。
(やっちまった! 全然諦められる気配ねぇじゃん!!! 「でした」でかっこよく終わるはずが、「です!」で全力再スタートとか、俺バカァァァ!)
銀座の夜、人目をはばからず、
愛を終わらせるつもりが新たな愛を叫んでしまった御曹司。
彼の決意の固さなど、
優里への愛情の前では砂上の楼閣だった。
蓮は優里の冷たい視線に全身を貫かれながら、
自分の意志の弱さに絶望したのだった。




