第47話 天地の媒介
「准えるなら……僕にだよ。『境界者』としての……ね」
蒼夜の目がゆっくりと目が閉じられ、力を無くした手が地に落ちた。
「白間……」
強張った表情で、塔夜が僕へと目を向ける。
僕は、静かに首を横に振った。
塔夜は、愕然とした様子で地に両手をついた。
だがそれは、呪いが返る事を恐れている訳ではないだろう。
蒼夜が留められない事に、情の無さを感じて気落ちしている訳でもない。
ただただ、兄が目の前で力を無くしていく事に辛さを感じている。
「……兄……」
目を開けてくれと叫び声をあげたい気持ちは、身に沁みる程に分かっている。
その思いを声に出来ない程に苦しい事も。
一度、声に出してしまったら、もう……止められなくなる。
戻りはしないと分かっているだけに、それは不毛である事も。
蒼夜の胸に沈み込んだ呪いが再び動き始める。体を覆い尽くすように大きく広がり、収まり切れずに地に這い伸びる。
当然、蒼夜の近くにいる僕たちが踏む地にも、それは広がっていた。
ずっと地に仰向けになっている麻緋は、それを背中で感じている事だろう。
麻緋の体勢が変わる事はない事に、何かしらの思いを浮かべている事が分かる。
麻緋の深い溜息がそれを物語っていた。
「……境界者、か」
蒼夜が口にした言葉を、天を仰ぎながら麻緋は静かに呟いた。
塔夜は、辛い気持ちを砕くように歯を噛み締めると、静かに口を開く。
「麻緋……言えた義理じゃねえが……兄の気持ち……少しでもいいから分かって欲しいんだ。確かに兄のしてきた事は許される事じゃない。俺にしたってそれは同じだ。許してくれとは言わねえし、言えねえ。だけど……」
思いを吐き出す塔夜だが、無理がある事は百も承知だろう、それ以上、言葉が続けられないようだった。
塔夜は歯を噛み締め、俯くと口を噤んだ。
少しの間が開いた後、麻緋の声が流れる。
「境界者ってな……神である者が人として分けられ、天と地の境に位置するものだ。神の中では人に近く、人の中では神に近い。だから境界者は地を選ぶ。いや……天から地に落とされると言った方が正しいな。神が持っているものを奪い、力を得ていく代わりに自身が持っているものを失う。体の一部、若しくは寿命といったところだが、人として生きる中で、神のようだと崇められる存在になる者は、大抵なにかを失っている。失っているからこそ境界者なんだよ」
「……ああ、そうだな……」
麻緋の話に塔夜は、翳りを見せた表情で静かに頷いた。
受け止めるべきものだと分かってはいても、やはり情は捨て切れない。
辛い思いが顔に表れたままの塔夜に、掛ける言葉は僕にはなかった。
確かに蒼夜のした事は許す事の出来ない、身勝手とも言える行いだ。
多くの犠牲を生み、僕にしたって理性などなければ何をしたか分からない。
平気でいられる訳がない。
同じ苦しみを味わわせてやりたいと思うのも道理だ。
だが……。
『それでも正しい理由があって犯した罪だと、それなら許せる事だとっ……! それは正しい事だったと断言出来るようになるのか!!』
同じ事をしたら、同じに染まるだけだ。
『どうやったって、それは正しい事だったと断言出来るようにはならねえよ』
……そうだよな、麻緋。
感情に任せて一線を越える事は……やはり出来ない。
憎しみも悲しみも消える事はない、癒える事はない。
例え殺しても、殺し切れない。
憎しみをぶつけ合うよりも、その悲しみを、辛さや胸の痛みを、自身のした事がどれ程のものであったかを痛感しなければ、同じ葛藤を繰り返す事だろう。
「だから『天才』は」
言いながら麻緋は、ゆっくりと体を起こし始めた。
地に這い伸びた呪いの痣が、麻緋の体に引っ張られるように動く。
ああ……そうだ。麻緋は言っていた。
『俺自身が呪術回路だからだよ』
麻緋が立ち上がると、呪いが地から引き剥がされる。
自信に満ちた麻緋の表情。ニヤリと浮かべる、思惑めいた笑みに、僕は少し呆れて苦笑する。
やっぱり麻緋だな。
「奪う事なく、力を持っている」
麻緋が大きく腕を振ると、その動きに呪いがついていき、天に網が張り巡らされるように広がった。
カッと光が弾け、僕は目を細めた。
光が和らぐと麻緋の背後に姿が見える。
……まさか……天帝……。
いや。降りてなど来ないだろう。
天帝の力そのものが麻緋の力だ。
ゆっくりとした足取りで蒼夜に近づいて来るその姿は、いつしか見慣れた姿だった。
蒼夜の前で両膝をつき、顔を覗き込むように見ると、顔にそっと手を触れる。
「……桜花」
成介さんも来ているのかと、辺りを見回したが成介さんの姿は見当たらない。
「成介様は来ておりませんが、わたくしは成介様の命を受けてここに来ております。それに……」
桜花はクスリと静かに笑みを見せると、蒼夜をじっと見つめながら、こう言葉を続けた。
……そういう事か。
「わたくしは、守られている事と仕わされている事の違いにお気づきにならない、本当の『生贄』を野放しにする気はありませんので」