未来へ続く恋
少し長くなりました。すみません。
林田さんが転勤したので、逢坂主任が私を送る必要は無くなったのに、まだ続いている。
逢坂主任とふたりだけで仕事以外で車に乗るなんて、最初のうちは緊張してあまり話ができなかった。
でも、逢坂主任が、以前お付き合いしていた女性に鬱陶しいとフラれてから彼女いない歴6年とか、映画や読書好きとか、暇なときは市民図書館にいるとか、体育会系の見た目と違うことがわかった。
その似たような趣味には親近感を持った。
逢坂主任が、最近DVDを借りてよく観ているのは、かなり昔の古典映画の名作らしい。
「【アラビアのロレンス】は映画音楽と広大な砂漠のシーンが感動的だったぞ。それから【ベン・ハー】って知ってるか? 馬車みたいな戦車の戦闘シーンが凄いんだこれが! CGとかじゃないんだぞ!」
「はあ、そうですか」
そう熱く語られても、私は観たことがなかったので、気の抜けた返事しかできなかった。
読書が好きという逢坂主任の、愛読書は【宮本武蔵】だった。
「武蔵はな、飛んでいる蠅を箸で掴めるほど動体視力と反射神経が抜群に良かったんだぞ!」
「う……」
残業で空腹に耐えかねて、ふたりで牛丼屋さんでご飯を食べているときには言わないで欲しかった。
「有名な一乗寺下り松の決闘に死を覚悟して向かう武蔵の心情が、何度読んでも感動するんだ!」
「危ないです! 手を離さないでください!」
お願いですから話に夢中になって、車のハンドルから両手を離すのやめて~!!
「おまえも読書が好きだって言ってたな。これ、貸してやるから読んでみろ」
「はい……。よ、読んでみます」
ある日、とうとう【宮本武蔵】の文庫本全巻8冊が目の前に積まれた。
♢♢♢♢♢♢
季節は夏を迎えようとしていた。
逢坂主任は、相変わらず頻繁に私を仕事帰りに送ってくれて、
「じゃあな、おやすみ。また明日」と、同じことを言って帰って行く。
何度か、送ってもらわなくても大丈夫ですと言ったのに、首を縦には振ってもらえなかった。
本当にもう大丈夫なのに。
自分がすごく大切にされているような錯覚に陥ってしまう。
逢坂主任にとっては、手のかかる部下の面倒をみるという仕事のひとつを忠実にこなしているだけなんだろうと思う。
確かにひとりの部屋に帰ってくると、林田さんはどうしているだろうかと、ふと思い出してしまう時もあった。
でも、そんな時は逢坂主任に押し付けられた【宮本武蔵】を読むことにしていた。
少し読み始めると、面白くて、ストーリーに没頭できた。
仕事で疲れているので、だんだんと眠くなる。
そして何も考えずに眠ることができた。
そして、【宮本武蔵】を全巻読み切った。
ずっと逢坂主任に甘えるわけにもいかない。
返そうと思っていながらずっとバッグの中に、お守りのように入れたままだったハンカチ。
送ってもらうのも、ハンカチと本を返して最後にしよう。
寂しいと感じている心に蓋をした。
今日こそはきちんとはっきり言おう。
今までのお礼もしっかり言わなくちゃ。
私は会社を辞めたりしないし、もう大丈夫ですから、と。
「あの、もう今日で送っていただくのは最後で大丈夫です。平気ですから。今まで、本当にありがとうございました!」
アパート近くになったあたりで、私はそう切り出した。
「林田のこと、忘れられたのか?」
運転席の逢坂主任は、こちらを見ないで別のことを私にたずねてきた。
「はい。あまり思い出さなくなりましたし、会いたいとは思わなくなりました」
「そうか……」
車の中は、沈黙が訪れた。
車がアパートの前に着いたのに、今日は珍しく、逢坂主任が別れの挨拶をすぐに言ってこない。
今日で最後だから、何か私に言いたいことでもあるのかな。
ただ帰ってもらったら悪いかな。そうだ、ハンカチと本を返すついでに、
「あの、逢坂主任。私の部屋で冷たいものでも飲んで行かれますか? 母が作って送ってくれたおいしい梅ジュースがあるんです。甘すぎないで、程よい酸味もあって、梅は疲れが取れる効果もありますし……」
そう言いながら、逢坂主任のほうを見ると、不機嫌そうに眉間に皺を寄せている。
どうしたんだろう。
「え!? いや、うん。じゃあ、玄関先で一杯だけ貰おうか」
逢坂主任がさっと車から降りたので、私も慌てて降りた。
アパートの外階段を上がって、部屋の前に着いた。
逢坂主任は何も言わずに私の後ろからついてきた。
無表情で怖い顔をしているように見える。
どうして?
夜なのに、外は生ぬるい暑さだった。
私の部屋も暑いだろうし、このまま帰ってもらったほうが良かったかな。
玄関ドアを開けると、ムッとする空気に押される。
「すみません。すぐ冷たいジュースを持ってきます」
私は靴を脱いで、電気をつけて、部屋にあがるとエアコンをつけた。
「津嶋」
「はい」
振り向くと、玄関に突っ立ったままの逢坂主任がこちらをじっと見ている。
「林田もこんなふうに部屋に入れたのか?」
硬い声だった。
「まさか。林田さんは私の部屋に入ったこと無いですよ。入りたいとも言われませんでしたし、言われても私は……」
もし、入りたいと言われていたら、断れなかったかもしれない。
「部屋に入った男の人は、主任が初めてですから」
私がそう言い切ると、目つきが少し和らいだような気がした。
「まあいい。だが、男を部屋に誘うなら、覚悟して誘うことだ」
和らいだのは一瞬で、すぐに真剣な目が私に向けられる。
そうだ、その通りだ。林田さんが手の早い人なら、とっくに私は……。
「はい。気を付けます」
私は俯いた。
「違うだろうが」
「はい?」
私、何か違うことを言いましたか?
逢坂主任の大きな溜息が聞こえてきたが、それには気付かないふりをした。
「全く気が付いてないんだな。男を部屋に誘うなら覚悟しろと言ったろう? 男は期待する」
「はい。ですから、気を付けますってお答えしました。逢坂主任は上司ですし、信じてますし、だって、遊びでは社員に手を出さないって……」
って、え? 何かが変?
「そうじゃなくてだな、信じてくれるのは上司としては嬉しいことだが、男としては複雑だ。おまえはまるでわかってない」
なんだか顔に熱が集まってくる。
え? まさかだよね。
私はその場で固まった。
そして顔が無性に熱い。
「そうだ。その反応は素直で良い。状況がわかったか? おまえは本気の俺に捕って食われるかもしれない危険な状況なんだ」
「あ、、、の、、、」
え~!? どういうこと!? どう言えば、どういう態度を取れば良いの!?
「安心しろ。今日の所はジュースで我慢するから」
「ふぅ……」
私はまだ訳が分からないなりに、そっと溜息を漏らしたが、そういうんでもない。
さりげなく今日の所はって言った!!!
息が苦しい! 本当に本気なの? それともただからかってるだけ?
「正しい反応だ」
お、逢坂主任がなんでか嬉しそうに笑ってる!
「主任! か、からかってたんですか!? 今ジュースを持ってきますから、そこから絶対に動かないで下さい!」
私は少しムッとして、でもおぼつかない足取りで数歩で着いてしまう冷蔵庫に向かった。
母の作った梅シロップを計量カップにいつもの分量入れ、3倍の水を加える。
マドラーでかき混ぜて、氷を入れたグラスに注いだ。
そしてまたマドラーでグラスの中をかき混ぜる。
ちらりと逢坂主任の方に視線を向けると、今度は真顔でじっと私の手元を見ているようだ。
別に、毒は入れてませんって。そんなにこっちを凝視しなくても……。
トレーにグラスを載せて運んだ。
「どうぞ、お待たせしました」
ジュースを出すだけなのに、なぜかやたらと緊張した。
「ありがたくいただく。そんなにカチコチになるなよ。こっちまでおかしな気分になる」
「!?」
お、おかしなこと言いだしたのは、逢坂主任ですから!
逢坂主任は氷の音をカラカラとたてながら、梅ジュースを一気に飲み干した。
「これ、すげーうまかった。ごちそうさま!」
その豪快な飲みっぷりを、私はただ気が抜けたように見ていた。
差し出した状態のままで持っていたトレーに、すぐグラスが戻された。
「は、はい。美味しかったなら良かったです」
これで、主任は今日は帰ってくれるんだよね。
私はもう頭の中が一杯一杯で、パンクしそうだった。
トレーを下駄箱の上に置いた。
「津嶋、おまえに俺を意識させるようなことは言ったが、まだ俺の気持ちは言ってない」
「!!」
そうだ、好きとも何とも言われてないのに、私、過剰反応してた?
やっぱりからかわれただけ?
そうだよね、曲がったことが嫌いな逢坂主任が不倫の恋をしていた私を好きになるなんて絶対あり得ない。
なんで、がっかりしてるんだろう、私……。
「もし俺が別の支店に転勤になったら、おまえはどう思う?」
「え!? 主任、転勤するんですか!!?」
転勤と聞いて、胸がドキッとした。
逢坂主任が転勤? 私の上司じゃなくなる? いなくなる?
頭の中がグラグラし始めた。
そんな……嫌だ。
真っ先に頭に浮かんだのは、なぜか嫌だという思いだった。
「嫌です!」
私は声を荒げてしまった。なんだか胸に湧いてくる思いは止まらなかった。
「嫌です! 嫌っ!!」
私は逢坂主任の腕を掴んで必死に嫌だと訴えていた。
「おい、落ち着け。例えばの話だ」
見上げた逢坂主任が、すごく嬉しそうに微笑んでいる。
こんなに優しい顔もできる人なんだ。
ううん、前から知っていた気がする。
「例えばの話なんですか? なんだ、驚かせないでください」
私はすぐに落ち着いたが、逢坂主任の腕をぎっちり掴んでいたことに気が付き焦った。
「す、すみません!」
離した途端、逢坂主任に手を掴まれた。
「!」
「会社の子には遊びでは手を出さないって言ったが、本気なら手を出すってことだ。おまえに手を出してもいいか?」
今まで聞いたことが無いような、逢坂主任の柔らかな声に脳の神経が麻痺する。
「?」
私は何を言われたんだろう?
手を出して良いか? ってつまり……。
「鈍すぎる」
逢坂主任にボソッと呟かれた。
「いくら部下だからって、毎日のように家まで送って、電話してやるほど俺は部下思いじゃないし、暇でもない。俺にとっておまえが特別だからだ。わかるか?」
「!?」
私はきっと間の抜けた変な顔をしていると思う。
「最後まで言わないとわからないようだな。津嶋奈由が本気で好きだ。だから手を出す!」
いつもの逢坂主任の声音だった。
「!!……」
私が声を出す間もなく、私の手は引かれて身体は逢坂主任の腕の中に納まっていた。
胸に湧いてくる思いの正体がわかった。
私は逢坂主任に惹かれていたんだ。
この人には好きって言っても良いんだ。
自分の気持ちに正直になっても良いし、なんのセーブもいらない。
私の心を全部傾けて好きになって良いんだ。
「私、主任が転勤になるなら、ついていきますから!!」
「お、おう。いや、だから、例えばだって。でもついてきてくれるなら嬉しいよ」
逢坂主任の腕の中は、安心できた。
「俺が今までどれだけ我慢してたと思ってる? おまえの心が落ち着くのをずっと待ってたんだ」
なんだか、腕の拘束がきつくなってきている気がする。少し苦しい。
「私のどこが良いんですか? 私はいけないことをしていたんですよ。主任は曲がったことが嫌いじゃないですか」
「そうなんだけどな。おまえが入社して来て、俺の部下の一人になってから今まで一緒にいて、おまえのことを嫌だと思ったことが一度もない。仕事の覚えが悪くても、ミスしても、言い訳しても、間違ったことをしても……俺にはいちいち可愛く見えたんだよ。おまえが!! 俺の本能がなんかうずいたっていうか、俺がずっと守ってやりたいって思った。人を好きになるって、具体的にこいつのここが良いから好きになったっていう奴もいるが、俺は違う。俺の本能がおまえを気に入ったんだ」
逢坂主任はそう言って、私が息ができないほどさらに強く抱きしめてくる。
私は身体を預けたまま、人生で初めて告白されたことに酔ってしまって、頭の中がぼーっとしていた。
「返事」
「はい? 何の返事ですか?」
「何度も言わせるな」
す、好きだって言われたんだった!
「はい、私も主任のこと好きです。たぶん……」
好きって、言っちゃった!
「そうか、これで堂々とおまえに触ることができるな」
堂々とって、なんですか? って、え?
いきなり今度は両肩を掴まれて、驚く間もなく唇に噛みつかれた……ような感触だった。
い、痛いです! よ、余裕なさすぎですって。
落ち着いてください! 主任!
確かジュースで我慢するって言ってましたよね!?
「あうっ」
く、首筋も噛まれた!? 吸血鬼ですか!?
目が回る!
私がふらふらになっていることに気が付いて!!
「おい、津嶋? 悪かったっ!! 嬉しくてつい……」と謝られた。
そんなに飢えて、いえ、嬉しかったなら、許してあげます。
でも、あなたのその手はなんですか!!
「主任! いくらなんでもあちこち私のこと触りすぎですっ! 私、触っていいって言ってないですけど! 手を出すって、触ることじゃないと思うんです!」
「同じだ」
「う……」
断言された。
「まあ、ここまでだ」
力が抜けた。
「今日の所は」
え!? そのフレーズ、二度目ですよね。信じられない……。
エアコンの心地良い涼風が、火照った私たちを優しく包んでくれていた。
♢♢♢♢♢♢
その後、私は総務課へ異動になった。
そして左手の薬指には逢坂遼平さんから貰った婚約指輪がある。
それから季節が巡り、みんなの頑張りもあり、会社はなんとか危機を乗り越えていた。
嬉しいことに、新年になって、更新されなかった契約社員の鈴木さんが正社員として戻ってきてくれた。
そして、3月下旬。また桜の季節を迎えていた。
「遼平さん、明日のお休みは、お花見に行きませんか?」
乗り合わせた会社のエレベーターの中でふたりきりになったので、私が誘うと、遼平さんは少し嫌そうな顔をした。
「花見は嫌いになった。思い出したくもない。だって自分の女が別の男といちゃついてたんだぜ」
私はあっという間に抱きすくめられた。
「遼平さん、ここ会社です! あの時はまだ遼平さんとお付き合いしていなかったんですから……」
遼平さんの顔が近い。息が荒い!
「だ、だめですって。監視カメラに映っちゃいますよ!?」
「かまわない、映ってるのはどうせ俺の背中だけだ」
遼平さんは、実は過ぎたことにも気にするタイプだったりする。
もう私の心の中は、遼平さんで一杯なのだから、何も心配すること無いのに。
確かに、何かの拍子に穏やかで優しかった林田さんのことを想い出すと、今でも胸の奥に甘酸っぱい想いがよみがえる。
遼平さんには内緒だけど、林田さんは私のファーストキスの相手だし、きっと記憶から完全に消えることはない。
でも、あの恋心は私の胸の中で、もう上書きされてしまっている。
今は、私のそばにいて、ぎゅっとしてくれる少し焼きもちやきで過保護な遼平さんが私の恋人で婚約者。
あの日、暗い水に足を踏み入れる手前で引っ張ってくれた。
はっきり間違ったことをしていると叱ってくれた。
堂々と好きと口にできるし、言おうと思えば愛してると、誰の目も気にせず言える関係。
誰からも後ろ指をさされない、祝福される、そんな関係の方がずっと良いに決まっている。
「日和台公園の桜が満開だそうですよ。見たいです」
「日和台公園?」
「はい、あの公園は高台で見晴らしも良いですし、明日はお天気も良いそうです。遼平さんと行きたいです!」
「……しかたがないな」
遼平さんがだいぶ柔和になった笑顔を私に見せてくれる。
「私、お弁当を作りますね。ふたりでお花見するのが、楽しみです!!」
夜桜ではなく、明るい日差しの中の満開の桜が見たい。
この先、未来へ続く私たちの恋、そして愛に彩られた想い出は、心の中に、これからもたくさん保存されていく。
不倫の恋に悩まれているかたへ、作者なりのメッセージをほんの少しですが、この作品で綴らせていただきました。現実はもっとお辛いと思います。どうぞ乗り越えられますように。
この作品を最後まで読んで下さったみなさま、本当にありがとうございました。
銘尾 友朗さま、素敵な企画に参加できて嬉しく思っております。
心から感謝いたします。




