【きっと大丈夫】①
部屋は静まり返っていて、どこからか線香の香りが漂ってくる。
子供の頃の記憶はほとんどないから、ここに来るのも初めてのようだ。
応対してくれたのは祖父。何も言わず俺を客間に案内し、出て行った。それからずっと待たされている。
無意識のうちに拳を握った。緊張、してるわけじゃないと思う。
お守りを取り出し、拳の代わりに握る。それだけで少し落ち着いた。
澄み切った蒼色が、今日の空のようだった。
母は、そこを自由に流れる彩雲のようだった。
きっと空から見守ってくれている。
だから、大丈夫。
「待たせたな」
客間に入ってきたのは、がたいのいい男。
「……親父」
お守りをしまい、居住まいを正した。
「仕事は?」
「今日は昼からだ。それまでなら時間はある。それで、話というのは?」
息を呑む。心の準備は万端であったが、いざ目の前にすると身体が強張る。
だが、どうせ後には引けないのだから、意思を固め、ぐっと視線を上げた。
――……
今日も鮮やかな蒼色の空。
人影のない渡り廊下を、ビュウと一陣の風が吹き抜けた。
思わず腕をさすった。ざわざわと枝葉も落ち着きがない。
風当たりは厳しいけれど。
「……頑張れ、郁人くん」
祈るように呟いて、胸の前で手を握った。
――……
「スキルス胃がん」
「え……」
「スキルス胃がん。胃がんの中でも転移を起こしやすいため治療が難しく、きわめて進行の速い病気だ。今年初めの時点で、母さんは余命半年だった」
「知ってたのか?」
「これでもいっぱしの医者だからな。母さんは俺の病院には来なかったが、経過を聞いていれば何となく予想はつく。
……告知日を過ぎたからもしや、と思ったが、1か月しかもたなかったか……」
ひそかに唇を噛み締めた。父は知っていた。なのに言わなかった。
母が余命を宣告されていたと聞かされたのは、ついこの間だ。
なぜこんなに大事なことを言わないのだろう。両親揃って、俺を子供扱いしている。
「お前も苦労したな。……事情はわかった。最初の話だが……郁人、お前と一緒に暮らすことはできない」
「……理由は」
「隼斗が、お前に会いたくないと言っている」
兄が? それは面白い話だ。
「そう怖い顔をするな。アイツはアイツでちょうど状況が悪い」
「どういうことだ」
「色々と悩み事があるんだ。思春期だからな。わかってやってくれ」
本当にそれだけだろうか。この間の言い草を思い出すと、どうにも自分に原因があるように思えてならない。
……やはり、まだ受け入れられない存在、か。
「…………わかった。もともとそんなに期待しちゃいねえし、話がついただけいい」
「待て郁人。まだ決断を出すのは早いぞ。少し時間を割けば、隼斗だって納得する」
「そんな保証がどこに……」
「お前は、ちゃんと向き合おうとしているのだろう?」
「……!」
「俺からも説得してみる。今は無理だが、きっと叶う日が来るはずだ」
「……親父」
……今日はやけに優しい。こんなに気遣いのできる言葉を言えるヤツだったか?
「平気か?」
「…………ああ」
嘘だ。
父が受け入れてくれると言ってくれたことより、母が死んだと聞かされたときと同じくらい、兄に拒絶されたことが堪えたから。
………耳に、言葉が入ってこなかった。
「……悪い。もう帰る」
呆然自失として、この後父が何を言ったのかも、自分がどうしたのかも、覚えていない。




