第23話「ユリシア王女、まさかの“家庭訪問”!? 王城に父の手料理が降臨する件」
王都レルファリアを包み込む夕闇は、あたたかな茜色からしっとりとした群青色へと移り変わろうとしていた。
昨夜の凄惨な防衛戦と、今朝の王城での眩惑的な授与式が嘘のように、王城の西側に位置する落ち着いた二階建ての一軒家――功績に応じた拠点として与えられたこの場所には、静かで穏やかな時間が流れていた。
台所からは、じゅうじゅうと香ばしい音を立てて肉と野菜が炒められる音が響いていた。
鍋の中でじっくりと飴色に変化していく玉ねぎの甘い匂いと、粗挽きにしたブラックペッパー、クミン、ガラムマサラ、そして隠し味の粗塩が交ざり合った濃密なスパイスの香りが、部屋の隅々にまで立ち込め、食欲を激しく刺激している。
「……で。これは一体どういう状況なんだ?」
一真は炒め鍋の柄を握ったまま、木製のレードルをピタリと止め、台所の入口に立つ少女へ冷ややかな視線を向けた。眉間に寄せられた深いシワが、彼の困惑の深さを物語っている。
そこに立っていたのは、深い深緑色のフード付きマントを羽織った一人の少女だった。
だが、どれほど素朴な布地で身を包もうとも、フードの隙間から覗く輝くような金髪の毛束と、夕暮れの光を吸い込んで鮮やかに煌めく緋色の瞳、そして浮世離れした白皙の肌までは隠しきれていなかった。
レグナス王国第一王女――ユリシア・エル・レグナスその人である。
「お聞き及びの通りにございます、お父上! 私、昨夜の王都防衛の輝かしいお礼を、どうしても直接申し上げたく……それに、庶民の方々がどのようなお食事を囲んでいらっしゃるのか、一度体験してみたかったのですわ!」
胸の前で細い両手を力強く握りしめ、まるで遠足前夜の子どものように頬を上気させて目を輝かせる王女。
背後の影には、城の暗部と思われる密偵の気配がチラリと見え隠れしていたが、本人は完全に“お忍びの大冒険”を満喫している様子だった。
リビングのソファでノートPCのデータを整理していたまひるは、キーボードを叩く手を止め、深く長いため息をついた。
「つまり、王女様が『王都防衛のお礼』という大義名分を振りかざして、単身でお忍び家庭訪問にやってきた……っていう、属性過多な超展開ですね」
「せめて……せめて事前に一言連絡してくれ。パパ、今日は冷蔵庫のストックを使って、ただのカレーを作る予定だったんだが……」
がっくりと大きな肩を落とし、天を仰ぐ一真。
王国の最高権力者の娘であり、国の象徴たる人物に振る舞う夕食としては、あまりにも気取らない家庭料理の代表格であった。
だが、ユリシアの反応は一真の予想を遥かに超えていた。
「か、カレー……!? あの、東方の交易路や異世界の手記にのみ記されているという、伝説の濃密香辛料煮込み料理ですの!?」
「え、そこまで食いつく……?」
「召し上がりたいですわ! ぜひ、お父上の手作りの『カレー』とやらを頂戴したいですっ!」
キラキラと瞳を少年のように輝かせる王女の姿に、一真とまひるは顔を見合わせ、脱力するしかなかった。
「はい。というわけで……王女様特製お子さまプレート風・自衛隊仕込みの特製カレー、完成だ」
「お、お子さま……?」
ダイニングテーブルにつき、出された大きな白い皿を見つめたユリシアは、少しだけ唇を尖らせてむくれた。しかし、その視線が皿の上の光景に固定された瞬間、彼女の言葉は完璧に吹き飛んだ。
皿の中央には、型抜きされた小さな山型の黄金色――ターメリックとほんのりバターで炊き上げられたライス。その頂点には、一真の手によって小さな紙の王国旗がちょこんと刺されている。
ライスの周りを固めるのは、艶やかな深みのある褐色を呈した、とろみのあるルー。じっくり煮込まれた大きな豚肩ロースの塊肉と、ゴロゴロとしたニンジン、ほくほくのジャガイモが押し合いへし合いしている。
さらに副菜として、一真自家製のキャベツとキュウリのピクルス、そして真っ赤な福神漬けが彩り良く添えられていた。
「うわ……っ。見た目以上に香りが豊か……! 甘いような、でもツンと鼻を抜けるような、深みのある匂いですわ……!」
ユリシアは洗練された動作で銀のスプーンを取り、おそるおそるルーとライスをすくい上げた。
蒸気とともに立ち上るスパイシーな香気を胸いっぱいに吸い込み、意を決して口の中へと運び入れる。
次の瞬間――王女の華奢な身体が、ピクリと跳ねた。
白皙の頬が、内側から熱を帯びたようにふわっと鮮やかな朱に染まっていく。緋色の瞳が大きく見開かれ、感動のあまり細かく震えた。
「な、なにこれ……すごいっ……! 最初はお口の中に刺激的な辛さが走りますのに、そのすぐ後から、お肉とお野菜の濃厚な旨味がジュワッと溢れてきますわ! 口内で数多のスパイスが踊っているかのよう……なのに、後味はどこかあたたかく、優しい……!」
「でしょ? それが“パパのカレー”なんですよ、王女様」
まひるが胸を張り、自分のことのように誇らしげに鼻を鳴らす。
一真は苦笑いを浮かべながら、保温ポットから冷たい麦茶をガラスコップに注ぎ、二人の前に置いた。
「実はこれ、元々は陸上自衛隊の演習場で使われていたレシピなんだ。激しい訓練や長時間の野外任務が終わった後、隊員たちの疲弊した肉体に活力を戻すために振る舞われる。唐辛子の辛味だけじゃなく、ニンニクや生姜、隠し味の醤油とリンゴのすりおろしで旨味の底上げをしてある。疲れた心と身体に、ちょうどよく沁みるんだよ」
「……素敵ですわね。お父様の手料理……」
噛みしめるようにカレーを飲み込んだユリシアは、スプーンを皿の上に置き、どこか遠くを見るような目で一真を見つめた。
「……まひる殿が、少し羨ましく思えましたわ。わたくし、幼少の頃より『第一王女』として完璧であることを求められ……父上――国王陛下とこうして二人きりで食卓を囲み、温かいお料理を一緒に召し上がった記憶が、ほとんどございませんの」
王女の声に、ぽつりと落とされた静かな寂しさ。
豪華絢爛な王宮の参事会、格式高すぎる宮廷料理、厳格な儀礼。その裏側に隠された、一人の少女としての「家庭」への飢餓感。
まひるは手に持っていたスプーンを静かに置き、自分の胸元に視線を落とした。
「……私もね、ママは私が小さい頃に亡くなっちゃって、ずっとパパと二人きりだったの。パパは自衛官で突拍子もないし、料理はこういうガッツリ系ばっかりだし、たまに面倒くさいなって思うこともあるけど……」
まひるは顔を上げ、柔らかく温かい瞳でユリシアを見つめ返した。
「でもね、どんな知らない世界に飛ばされても、どれだけ危険な目に遭っても……パパが側にいて、こうしてご飯を作ってくれて、一緒に食べてくれるだけで、私は『大丈夫だ』って思えるの。パパがいる場所が、私の家だから」
「まひる殿……」
ユリシアはまひるの言葉を一つひとつ噛みしめるように、静かに、深く頷いた。その目からは、先ほどまでの寂しさが消え、代わりに穏やかなぬくもりが宿っていた。
それからの一時間は、驚くほど賑やかで温かな時間となった。
一真が淹れ直した食後の香ばしい茶を飲みながら、異世界の学園生活の話題や、日本でのまひるの学校生活の思い出話に花が咲く。ユリシアは現代日本の「学校」というシステムや「カラオケ」「ファミレス」といった概念に、目を丸くして興味津々で聞き入っていた。
ふと、壁に掛けられた魔導時計が重厚な鐘の音を鳴らした。夜の九時を回ったことを告げる音だ。
「……あ。もうこんな時間。で、ユリシア様、この後はどうされるんですか? 一応、完全にお忍びでいらっしゃったんですよね?」
まひるの問いかけに、ユリシアは茶杯を口元から外し、悪戯っぽくクスリと微笑んだ。
「ええ、そうですわ。王城の東門の結界の隙間を抜けて、一人でこっそり抜け出してまいりましたの。ですから……この時間になりますと結界の識別キーが更新されてしまい、わたくし、今夜は城へ戻れませんわ」
「……えっ!?」
まひるの素頓狂な声が響く。
「えっ、じゃあ……まさか、今夜ここに泊まるつもりなんですか!?」
「ふふっ。まひる殿のお部屋、ふたつあるベッドのうち、ひとつが空いているとお聞きしましたけれど?」
「うわぁぁぁーっ! 王国トップの第一王女様と相部屋でお泊まり会とか、人生のハードル高すぎなんだけどー!!」
頭を抱えて叫ぶまひるの横で、ユリシアは「ふふっ、お泊まり会……女子会というものですわね!」と楽しそうに手手を叩いている。
二人のわちゃわちゃとした賑やかなやり取りを見つめながら、一真は立ち上がり、手挽きのコーヒーミルに黒々としたコーヒー豆を投入した。
ガリガリ、ガリガリ――。
静かな室内になじむ規則正しい削り音とともに、香ばしく深い苦味を秘めたコーヒーの香りが漂い始める。
「……まあ、異世界ってのは……思っていた以上に、にぎやかで悪くないな」
淹れたての黒い液体から立ち上る湯気の向こう側で、一真の厳めしい唇の端が、優しく、どこか誇らしげに緩んでいた。
こうして、王女のまさかの“家庭訪問”は、微笑ましい大騒動とともに、無事に(?)幕を下ろしたのだった。
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