第9話 M
……流れで誘った。
……大丈夫だったかな。
心臓が激しく動いて壊れそう。
アナンが急に大学に来て、絵を見たいと言った。
部屋に飾った絵を見て『美しい』と言ってくれた。
すごく嬉しいけど。
これからどうすればいいの?
困っていたらスマホが光った。
『もう帰る』
嘘でしょ。
この人は時間を読み誤らない。
あと5分だ。
せっかく絵を見に来てくれたアナンには申し訳ないけど、急いで帰ってもらった。
ドキドキが収まらず、鼻から息を大きく吸ったり吐いたりしていた。
「みぃ?ただいま」
「お、かえりなさい」
「よかった。家にいたんだね」
「はい」
「仕事辞めることにしたよ」
「はい?」
「みぃの絵の良さもまともに分からないんだ、あんな会社どれだけ働いても無駄だ」
「……」
「心配しなくていい。みぃの絵の良さは必ず伝わる。もっと世間に公表していくべきだ。私はみぃの絵を売る活動を始めることにするよ」
確か、大学受験の前もこの人は同じような事を言っていた。
『美大なんて行って何になるの』と反対する母と先生に、真っ向から言い返してくれた。『この子の絵を見て何も感じないんですか?だとしたら、あなた達はこの子の将来に口出しするべきではない。この子は凄い才能を持っている。そしていずれ必ず評価される』……私は大人の喧嘩というのを、その時初めて見た。
「みぃの絵を、作品を、もっと世の中に見てもらうべきだ。私はそれを仕事にすることにしたよ」
「は……?」
意味不明。
「とにかくみぃはたくさん描いて。好きなだけ描いてくれて構わないから。私を信じて」
「はい……」
「ところで誰か来た?」
心臓が跳ね上がる。
「スリッパが出てたから」
「あ……エミリに……借りてたユニフォームを……」
「そうか。タイミングが悪かったな」
立っていられる自信がなくて、椅子に腰掛ける。
「具合でも悪いのか?」
おでこに手を当てられる。
「ちょっと熱っぽいか?横になってなさい。後はやるから」
そう言われて自室に追いやられた。
◆
「やっぱ、みいなはディーバだわ」
「え?」
「アナンまでみいなにメロメロなんだもん」
「そんなんじゃ……」
エミリの勘違いではあるけれど、昨日は楽しかった。
アナンが私の絵を見たいと言ってくれた事、そしてわざわざ見に来てくれた事、『So beautiful』って言ってくれた事、全てが夢のような出来事だった。
それに……あの男が仕事を辞めてまで私の絵を売りたいだなんて……あの人が私の作品を語る時の目は異様だ。だけど私はそれが嫌いじゃない。
「で、話ってなんだったの?」
「話はそんなしてないんだけど……」
「なにそれ?」
「絵に興味があるんじゃないかな?作品を見せて欲しいって言われた」
「へえ。なんで私じゃないんだろう」
エミリはちょっと気を悪くしたのかもしれない。
それからしばらくは口をきいてくれなくなった。
◆
今夜は春巻きを揚げようと言われている。
春雨にタケノコ、ピーマン、もやし……皮はどこかな。
「みぃ」
ふっと手元が軽くなって、九条さんが籠を持ってくれた。
「いつもありがとう」
「いいえ」
並んで買い物を続ける。
「あと、中華だしみたいなのがあるといいよな?」
「はい」
エミリがイケオジと騒ぐ理由が分かる。
この人は外見がいいから。
「もしかして、他のが食べたかった?」
「いいえ」
ここ数日、優しすぎて調子が狂う。
「甲殻類は入れないから大丈夫だよ」
「はい」
アレルギーで倒れたことがある。
生春巻きに入っていたエビで発症した。
「酢醤油とあんかけどっちがいい?」
「酢醤油で」
「辛子欲しいよね」
「はい」
「付け合わせはどうしようか。レタス?キャベツ?」
「レタス」
この分かり易い会話の問いに心地良さを感じ始めている。
「今夜は……」
「え?」
「なんでもない」
何を言おうとしたのか察しがついたけど、気付かないフリをした。
◆
こんがりキツネ色に揚がった春巻きと、玉子サラダ、ほうれん草のポタージュ。デザートにはフルーツがたくさん乗ったヨーグルトまで、お腹いっぱい頂いた。
「暇だと食べ過ぎちゃうな」
言い方……吹き出した。
「あ、笑った」
真顔に戻る。
「ごめん。そういう意味じゃない」
どういう意味なんだろう。
「いつも……緊張させて……すまなかった」
九条さんが私の顔に手を伸ばした。
咄嗟に避ける。
「そうなるよな。怖がらせてごめん」
息を潜めて、次に何を言うか待つ。
「なんか疲れたよ。働いてないんだけど」
「……はい」
「もう寝ようか」
九条さんは本当にこのまま寝る気なのか、一人で部屋に行った。
最近、変だ。
何か変わった。
九条さんは私にいろいろ要求しなくなった。
それがどういう意図なのか、今は分からない。
でもこの関係なら、今後も続けていけると思う。
◆
翌朝、道路でアナンにお礼を言った。
「昨日は見に来てくれてありがとう」
「アート、ホント、ステキ」
嬉しかった。
九条さん以外に褒められたことがなかったから。
「また大学に遊びに来ない?」
「ムリトオモウ」
「そうだよね。お仕事頑張ってください」
その場を離れた。
もうすぐゴールデンウイークだ。
学校へは制作の為、自主的に行くつもり。
九条さんも、たくさん描けって言ってた。
できれば……
欲を言えば……
絵を描く以外にも、もっと大学生らしいことがしたい。
例えば、友達と遊びに行くとか。
九条さんは嫌な顔をするかも知れない。
だけど、今なら話せば分かってくれるかも。
GWの企画と称して、エミリを頼ってみよう。
きっとアナンも来やすいと思うし、楽しいと思う。




