第1話 M
ああ……またか……
「おいで」
冬の方がよかった。感覚が少しでも鈍い方が、この男を感じないで済むから。
湿り気を帯びた、吸い付くような掌がお腹を這い回る。気持ちが悪くて大嫌い。
「みぃ、ほら、口を開けて」
柔らかい唇に虫唾が走る。
「みぃ、ほら、自分で脱いで」
歯向かうなんてことはしない。私はこの男の人形になったのだから。
◆
眩しい。
「みぃ、起きたか」
私をねっとりと見る目にはもう慣れた。
「おはよう、みぃ」
髪を撫でられても、何も感じない。
「昨夜は無理をさせたかな」
「いいえ」
立ち上がって下着を拾う。
「近々、会長がみぃに会いたいそうだ。予定を入れて構わないかな」
「はい」
一礼してシャワーに向かう。さすがにその視線には耐えられなくて、鳥肌が立つ。
肌が赤くなるほどの熱いシャワーで身を清める。あの男に触れられれば、体は反応してしまう。だってそう言うもんでしょ。一定の箇所をいじくられれば、誰だって濡れてくる。だけど私の心は冷たく固いまま、動くことはない。
「今日の授業は?」
「午後からです」
「では、送って行けないけど大丈夫かな?」
「はい」
本当は1限から。
8時には出たいけど、あの男が行ってからだから少し遅れるかな。
九条慎吾
母の従弟にあたるが血は繋がっていないらしい。
色が白くて、痩せていて、背が高い。45歳だったかな、年の割には髪も多い。
「みぃ、今日はハンバーグが食べたいな」
「はい」
「大葉とポン酢で、さっぱりしたのを頼むよ」
「はい」
この男と会ったのは高2の夏休みに入る前。
進路相談で母と学校に行った。シングルマザーの母は、美大に行きたがった私に『お金が無いから諦めなさい』と言っていた。ところが、その日突然現れたこの男を『援助をしてくださる方よ』と笑顔で言い、面談に同席させた。
「じゃ、少し早いがもう出る。行ってきます。みぃ」
アイロンの効いた白いワイシャツに、ダークグレーのスーツ。
そしてほんの少し香水を纏ったあの男の準備が整ったようだ。
「行ってらっしゃい」
やっと少し解放された。
髪を束ねて、日焼け止めとリップクリームを塗る。
お化粧もスキンケアも興味はない。どうせ、あの男を喜ばせるだけだもの。
それでも春先の日差しは既にうっとおしい。
日傘を手にして家を出た。
エントランスを出ると、道路工事が行われていた。
赤いコーンと黄色と黒の棒が道を塞いでいる。
その前で、お兄さんが赤い棒を振っている。
「ハイ、キヲツケテ」
「ハイ、イッテラッシャイ」
こういう仕事をしている人は、どこか愛想が悪いと思っていた。
でも、この人は通りかかる小学生全員に丁寧な挨拶をしている。
浅黒い肌に、白い歯、細くて少し垂れた目元、人懐っこそうな笑顔……日本人じゃなさそう。陽気な国の人なのだろう。私とは住む世界が違う。
「オハヨウゴザイマス」
あまりに眩しい笑顔を直視できずに、無視してしまった。
◆
「グッモーニン、みいな!」
「おはよう、エミリ」
こんな不愛想な私に気さくに声を掛けてくれる人は少ない。
「今日はイケオジに送ってもらってないの?」
「うん」
「ちぇー。じゃ、まったねー」
アメリカ人と日本人のハーフだったかな。
この子は私との会話が盛り上がるかどうかなんて気にしてない。
「ふぅ」
来たばかりなのに、もう疲れてしまった。
あんなに行きたかった美大だけど、もうどうでもいい。
絵を描くことは好きだけど、仕事に出来るなんて思ってないし、あの男にお金を出してもらってまで来るところじゃなかった。ただ、私は辞め方が分からない。
あの時の高2の自分に教えてあげたい。
受験を終えて、入学と同時に始まった今の生活のことを。
暴力を振るわれたわけではないし、要求に応じなければ支援を打ち切ると脅されたこともない。ただ、流れに身を任せるしかないように、いつの間にかこの関係が定着している。
必修科目の座学に向かう。
前は創作の時間の方が好きだったけど、今はもう課題の提出が苦痛でしかない。
◆
スーパーで買い物をして帰る。
「あ、ポン酢」
ハンバーグばかりに気を取られていて、買い忘れた。
道中にあるコンビニに寄った。
「イラッシャイマセ」
品出しをしている店員がニコニコとこちらを見ている。
あ、朝の陽気な国の人。働き者だな。
ポン酢とカフェラテを買った。
「アリガトウゴザイマシタ」
不愛想な私に呆れているかもしれない。
せっかく異国に来て頑張っている青年に、あまりにも失礼だったかなと反省した。
レジを離れて、マシーンでカフェラテを淹れて、蓋をした。
「お邪魔しました」
コンビニを出る時に言うセリフじゃなかったかも。
とりあえず、無視はしなかったという自己満足だった。
「アシタモオマチシテイマス」
なんか、それもコンビニの店員が言うセリフじゃなくない?
思わず吹き出す。
店員も同感だろう。
真っ赤な顔してた。
◆
「みぃ、美味しかったよ。ありがとう」
「はい」
「いくらだった?」
レシートを渡す。スーパーの方だけ。
小銭まできっちりと差異なく受け取る。
ポン酢の方は、コンビニでカフェラテを買ってしまったので見せない。
毎回、誰かと一緒だったんじゃないかと疑われて、説明が面倒くさい。
「一人だった」と本当の事を言っても、まったく信じてもらえない。
「課題は順調?」
「はい」
「会長との会食、明日でいいかな?」
「はい」
「じゃあ……これを着ておいで」
大きな紙袋を渡される。
あまり詳しくはないけど、高いブランドだと思う。
「着てみて、今」
その場で服を脱ぎ、下着になる。
背中にチャックの付いたワンピースだ。
男が後ろに回って、閉めてくれた。
「うん。やっぱり、よく似合う」
「ありがとうございます」
「明日も授業は午後から?」
「はい」
「じゃ、今夜もゆっくりできるね」
あ、返事を間違えた。




