44「ありがと」
アルマが出かけていったのは、ヴィートが話があると言いに来た三日後のことだった。
三日間。たった三日だが、あの夜にアルマと黄水晶の前で話をしてから、不思議と今までとは少し違う、互いに安心している空気があった。
キッチンに立つときも、隣で本を読むときも、一緒に眠るときも。
ああ、もう大丈夫。
ブランカはそんな風に思えた。
あの夜を境に、アルマはどこか凛とした佇まいになった。それは、アルマが元々内側に持っていた苦しみや翳りのようなものを押し殺すのをやめたからだろう。少しばかりそれが寂しくもあるのは、アルマがぐんと成長したように感じるからかも知れない。
少年から青年になるのも近い気がして、ブランカは気が気でない。
おかげで、アルマに「ちょっと出かけてくる」と言われると、ブランカは「はあい」と不満げな声で返事をしてしまった。
アルマはそんな反応を喜ぶばかりで、ブランカを抱きしめて髪の毛を混ぜっ返すくらいに頭を撫でてから、いつも通りの様子で行ってしまった。
「……よし」
ブランカはソファから立ち上がる。
家でごろごろしていても仕方がないので、森でも散策しよう、と一人頷く。ふらふら歩いていたら、何かいいものでも見つかるかも知れない。
それに、森を歩けば一人でいることを忘れられた。
「さーて、どこ行くかなあ」
しかし、玄関のドアを開けて一歩踏みだした瞬間、ブランカはピタリと止まった。
「……レオ」
ドアを開けた先にいたのは、いつものようにラフな格好をしたレオだ。
なぜかブランカを不思議そうに見ている。
「よう。なに、どっか行くの」
「……散歩」
「ふーん。じゃあ、俺も行く」
「え」
「なんだよ。アルマいないんだろ。一人じゃ危ない」
「そうじゃなくて」
先に歩き出してしまったレオをつい追いかけるが、ブランカの頭の中は疑問でいっぱいだった。
レオは慣れたように家の敷地から躊躇うことなく出て行き、森の木々の間に入って、ブランカが追いかけてくるのを普通の顔で待っていた。
むしろ、遅いと言いたげだ。
ブランカが追いつくと「で、どこを歩くんだよ」と聞かれたので、適当に「こっち」と先に歩く。珍しいことに、レオは隣に並んだ。
「ヴィートは?」
「お前、聞くことそれが最初かよ」
ふ、と笑う声が少し上から降り注ぐ。
「それでしょ。一人で入れないはずだけど」
「ここまで送って、すぐどっか行った」
「そっか」
「聞かないのか?」
からかっているような口振りにむっとして隣を見上げれば、意地悪くはないさっぱりとした表情でこちらを見るレオと目があった。
「アルマがいないことを俺が知ってる理由も、聞かないつもりか?」
「……なんでかなあ」
ブランカは自然と止まっていた足を動かして歩く。
「なんでみんな、知らないことを恐れるのかわかんない。どうして理由がいるの? 説明する必要があるの? 別に私には必要ないよ」
「お前なあ」
「アルマがそばにいてくれるなら、それでいいの」
「知ってる」
その声に棘はなく、むしろ「はいはい聞き飽きた」と言わんばかりの適当さがあった。
「あれだけ懐いていたのを見れば、最初からわかったって。アルマがどれだけ特別な存在か。お前は元々人に懐かないから」
「そうだっけ」
「おー、お前が自分から初めて話しかけに来たときはヴィートと密かに感動したくらいだよ。懐かしい。ま、その後は慣れきってお前を酷使する最低な飼い主と魔法使いになったけどな」
「別に、嫌いじゃないよ」
「それも知ってる。どうでもいいんだろ」
「ううん。今はわりと好き」
ブランカがさらりと言うと、隣の足音が消えた。
振り返ると、片手で口元を覆って俯いていたレオがハッとしてしっしと手を振る。
「さっさと行け。歩け。散歩しろ。ほら、散歩しなさい。散歩」
「……えー」
目元が子供のように輝いて見えたのは気のせいだろうか。
言われたとおりに散歩を再開すると、歩くにしては速いスピードでレオが追いついてくる。
「ふーん、お前、俺のこと好きなの。ふーん」
「わりと、だよ。ヴィートのことも一緒。つまり同じくらい」
「ありがと」
短い礼を言われて、ぎょっとしてブランカは隣を見上げる。
「……なんだよ」
「こ、子供みたいな言い方した……」
「うるせ」
ぷいと顔を背ける。
どうしたんだ、レオは。
ブランカは今度こそまじまじと隣を見た。足を止めると、同じように止める。
「?」
不思議そうな顔で見下ろしたレオと、無言で見つめ合う時間が続く。
ブランカは「レオ」と名前を呼んでみた。
そのままの顔で「なに」と返される。
「……なんでここに来たの?」
「は?」
「もう来ないと思ってた」
あの光溢れる広場の前で、置いていった。
自分がレオに強引な選択を迫った自覚もある。
婚約破棄の元「自由になれ」と言ったレオの背中を見たブランカは、きっとここにはもう来ないと思っていた。
まさか、こんなに普通の顔で普通に来るとは。
レオはしばらく考えた後、見たこともないほど明るく笑い飛ばした。
「なんだよ。お前、寂しかったのか」
「そんなこと言ってないし思ってもない」
「いーや、寂しそうな顔してた」
「してない」
「ほら、忘れてたろ。十一年を」
「知らない」
「俺はまた来るよ。会いたくなったら、会いに来る。そう決めたんだ」
あまりにも軽やかに言われ、面食らう。
レオはまるで大人のような顔をして、ブランカを慈しむように見ていた。




