エピローグ 天使の令嬢は、学院に二人おりましたわ!
翌朝。
王立ウィンベル学院は、朝から天地がひっくり返ったような騒ぎだった。
「聞いた!? ジュリアス様とイザベラ様の婚約が破棄されたって!」
「嘘でしょう。昨日の今日で!?」
「わたくしの叔父が出席していたのですけれど、何も話してくださらないの。何を聞いても、青い顔で首を振るばかりで」
「うちの父もですわ。もう“思い出したくない”の一点張り」
学院内だけではない。
二人の婚約破棄の知らせは、一晩のうちに王都じゅうを駆け巡っていた。
もっとも、晩餐会でいったい何が起きたのかについては、誰も何も語らなかった。
両家の当主が、驚くべき速さで手を打っていたからである。
イザベラの日記に関しては、素行の悪さで解雇された架空のメイドが、バスティアン家に恥をかかせようと、真っ赤な偽物を作ってエミリアに渡したということにした。
正義感に駆られたエミリアが、内容をよく確認もせず、晩餐会でそれを読み上げてしまったという、三分の一ぐらい正しい嘘で強引に片づけたのだ。
招待客がお腹を下した原因についても、食材の一部に問題があったとするにとどめ、それ以上は明らかにしなかった。バスティアン家の料理人たちが、無実の罪で責めを受けることがないように、配慮したわけだ。
そして、夜のうちに、丁寧な謝罪の言葉と、その二つの事情が記された詫び状が、かなりの額の見舞金とともに、招待客全員のもとに届けられた。
その後も、バスティアン家の使用人たちは固く口をつぐみ、また、招待客たちも、昨夜晩餐会でいったい何が起きたのか真相を語る者はまるでいなかった。
それもそのはず。
王国を代表する、煌びやかに着飾った貴族や上級市民たちが、揃いも揃ってトイレに全力疾走した晩のことなど、誰が好きこのんで人に話すだろうか。
「でも、婚約まで白紙になったということは――」
学院の中庭の噴水のそばで、一人の生徒が声を潜めた。
「またブランティーヌ家とバスティアン家の仲は、元通りですのね」
「当然ですわ。いえ、前より悪くなるかもしれませんことよ」
「エミリア様とイザベラ様も、さぞかし……」
「ああ、怖い。近くを通るときは気をつけませんと」
両家の令嬢が廊下ですれ違うたびに火花が散るのは、この学院では日常の風景だった。
婚約話がこじれた以上、今日からはその比ではないだろう。
誰もがそう思っていた。
ところが、その時――
正門のほうから大きなどよめきが上がった。
「……え?」
「な、なんですの?」
生徒たちが一斉に振り返る。
朝の光の差す石畳の道を、二人の令嬢が並んで歩いてきた。
栗色の髪と、銀色の髪。
深い青の制服によく似合う、髪に結んだリボンの色までお揃いだ。
そして――しっかりと、繋がれた手。
「…………」
中庭が、静まり返った。
噴水の水音だけが聞こえた。
誰かがぽかんと口を開けた。
誰かが持っていた本をばさりと落とした。
みんなおしゃべりを止め、唖然としてその場に立ち尽くした。
「おはようございます、皆様」
エミリア=ド=ブランティーヌが、花の咲くような笑顔で優雅に挨拶をした。
「ごきげんよう」
イザベラ=フォン=バスティアンが、静かに会釈をした。
二人は繋いだ手をほどかなかった。
「エ、エミリー……?」
人垣の中から、マリアがふらふらと進み出てきた。
昨夜のことは、彼女にとっても思い出したくない記憶である。目の下に隈があり、顔色も優れない。
自分の名誉にもかかわることなので、もちろん、昨夜の騒動のことは誰にも口外していない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「あの、その、つかぬことをうかがいますけれど」
「なんですの、マリア」
「……お二人は、いったい、その、どういう風にしてそのようなご関係に――」
エミリアは、マリアのほうへ一歩近づいた。
そして、さも当然のことのように答えた。
「もちろん、お友達ですわ」
「ええ。親友です」
マリアは、エミリアを見た。イザベラを見た。繋がれた手を見た。
それから、もう一度エミリアを見てこう言った。
「昨日、あれから何がありましたの」
「いろいろとございましたわ」
「いろいろ」
「ええ、それはもう、いろいろと」
あっけにとられるマリア。
エミリアは、にっこりと微笑んだ。
それは、まさに天使の令嬢。
その二つ名は、その日以降も変わらず、ウィンベル学院の生徒たちの間で囁かれ続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
なお、その日の午後。
バスティアン伯爵邸の裏庭では、洗濯物を干す一人のメイドの姿があった。
ブロンドのウェーブ。宝石のような青い瞳。文句のつけようのない超美少女である。
メイドのアルテこと、アルトだ。
(なんで俺、まだここで働いているんだろう……)
大きくため息をつくと、例の叫びが聞こえてきた。
「アルテきゅーん! どこだーい!」
屋敷のほうから、明るい声が近づいてくる。
アルトの、シーツを干す手がぎくり、として止まる。
「……冗談じゃねえぞ、こっちの家のお兄様は」
報酬は、エミリアから確かに色をつけて支払われた。アルトにとっては、目もくらむような金額だ。
だが、ちっとも嬉しくなかった。
なぜなら――
同席していたイザベラが、にっこり笑ってこう言ったのである。
「――引き続き、このお屋敷で働いていただけますわね?」
エミリアとイザベラ。
二人のにこやかな顔、されど有無を言わせぬ圧力に押され、拒否することはできなかった。
アルトの逃げ道は、二人の令嬢の笑顔によって塞がれたのだ。
「アルテきゅん! いたいた! 看病してくれたおかげで体はすっかり良くなったよ。さあ、今日はお礼にどこかデートに行こう!」
「……悪いと思って少し看病してやったら調子に乗りやがって」
アルトは、深く、長い息を吐いた。
それから、くるりと振り返り、完璧な少女の声で答えた。
「ふつつか者ですが――お断りします!」
白いシーツが、風にばさりとはためいた。




