下り坂
右手の親指を押し込む。カシャっと音がしてギアが軽くなった。ここからはしばらく下り坂だ。力を込めていた足を緩め、風を受ける。
昇り始めた朝日が三山雅也の前に影を作る。その影を必死に追いかけるように自転車は自然と速度を上げていく。なだらかで長い下り坂を、白いスポーツバイクが転がる。春とはいえ、朝の鋭い空気は肌に刺さり、雅也はジャージのチャックを上げた。
朝の静寂が包んだ道を、シャーっという金属音が走り抜けていく。速度をどこまでも上げていけそうな、そんな感覚。陽光と冷たい空気と、動いていない家々、それ以外は自分だけ。世界がたったそれだけになったみたいで、迷いすらも必要がないぐらい単純に思える。何もしなくても自転車は走って行って、俺はそこに乗っているだけでいい。
いつもなら、その心地よさに体も心も預けられる。
それなのに…今日はなんだか感覚が体を持って行ってはくれない。必死で無心になろうとしても、何かを考えさせるかのように、頭が冴えてしまう。
「くそ」
最悪だ。毎朝のルーティーンがこんな風に邪魔されるのは初めてだ。雅也の心を置き去りに自転車はどんどんと坂を下っていく。
変な人だった。高校生…じゃないよな、そうさっき見たあの人の顔を思い出す。一本にまとめられた長い髪、少しだけ鋭い目尻、自分のものよりもずっと白い肌。やっぱり高校生には見えなかった。大人なんだろうか、あの人。
坂が終わりへ差し掛かって、雅也はブレーキを軽く握る。キキッと微かに嫌な高音が響いて、でも自転車はその音をあっという間に抜き去った。
いつものような体が風に洗われるような感覚になれないまま、坂が終わりに近づいていく。だというのに、頭はまたあの人を思い出している。雅也だけ時間に入り込み、勝手に隣に座り、なぜだか急に笑った、あの人のことを。
横目に見えたあの人の顔の輪郭。紺色から色を薄めていく空に放られた瞳。その下に刻まれた疲れのような色。水彩画のようなタッチに変わって、その姿が脳裏に映し出される。
「あの人は…
思わずつぶやいていて、雅也は口を閉じた。独り言なんて言う性質じゃない。
両手を握り、じわじわと強めていく。また嫌な音が今度は長く響いて、そして雅也の体は風を切ることをやめる。
減速しきったアルミホイールの車体を交差点へと惰性でゆっくり進めていく。ずらっと続いてきた家の連なりが途切れ、右手から朝日が射し込んだ。その鋭さに思わず右目を瞑った。
ガソリンスタンドのえんじと白のルーフ。その下にすっぽりと嵌るように小さな太陽が見えた。目の前を車が通り過ぎていく。その全てがガラスをきらめかせ、道路を染める。
あの人もこんな風な景色を見つめているんだろうか。家々に隠れて見えなくなってしまったあの坂を思う。ぼうっと空に目をやったままなのだろうか。あのアスファルトから立てないままでいるのだろうか。
眼前の道路の車の列が途切れた。遠くの信号が赤に変わったのだろう。雅也はペダルに乗せた足に力をこめ、ハンドルを左に切る。
さっきよりもゆっくりとタイヤはまわる。信号が青になっただろうか、後ろから車の走行音が近づいてきた。
あの人は、そんな風にまた思い返す自分に苛立ちを覚える。自分のことにすら手が回っていないというのに、どうして他人のことなど考えられるのか、と。
だがそんな理性とは裏腹に、頭はまたあの場面を再生する。何もない空を見上げてあの人が涙をこぼした、あの刹那を。
音を立てて、白い軽自動車が雅也の横を追い抜いていく。細く、くねった道は、その小さな車をすぐに消してしまった。
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