坂の上
ふくらはぎにはピリピリと電流のような痛みが流れて、太ももは微かに張っていた。走ったわけでもないの呼気は荒く、足を止めた由紀は喘ぐように息を吐く。たったこれだけで身体が悲鳴を上げる。そんな自分に嫌気がさして、でもそれなのに、僅かな爽快感が胸をすうっと通った。
丘陵の尾根。由紀の目の前にはすぐにまた坂が広がっている。細くて急な坂。そしてそのずっと向こう、家を超えて、川を超えて、まだ向こうに街が見えた。深い青、もうほとんど紫とか黒とかそういう色に近い空。仙台の街がまるでその影かのようにべったりと横たわっている。
その影に近付いていくように、由紀は坂へと足を踏み出す。細く、勾配は驚くほど急で、なぜだか白っぽい舗装の坂へ。
引っ越してすぐのころから、由紀は時々ここへ来た。地元に似ているわけでもない。友達が住んでいるわけでも、恋人の家があるわけでもない。何か特段というわけでもない。
もし何か特別なものがあるとすれば、それはこの間まで道沿いの家から飛び出す淡いピンクの梅が映えていたこととか、白っぽい舗装の上にクランキーチョコのような凸凹が付けられていることとか、それぐらいで、あとは何ら変哲の無い小さな道なのだ。
それなのに、由紀は何故だかこの坂に惹かれてしまう。
坂を少し下る。静寂に包まれた住宅街に、自分の足音だけが澄んで響く。坂が急になって、由紀は遠くに向けていた目を足元に戻す。
驚いた。
すぐ目の前に、人が座っていた。坂に腰掛け、何か本のようなものを手にした男の子が、由紀の足先にいる。
まるで一人で歌っているのを聞かれていたかのような恥辱が体を走る。私のだけの世界に誰かが土足で入り込んできたような、そんな不快感が一瞬溢れて、そして消える。
足を止め、自分を見つめる由紀に気付いたのだろう。男の子が顔を上げる。驚きを瞳に宿したその顔は、後ろ姿よりずっと幼く、眼の下の隈が不相応に向き上がって見えた。驚きがだんだんと移ろい、困ったように眉毛が下がっていく。どうしようか、なんて内面がそのまま表に現れていて、思わず笑ってしまうそうになる。
笑いをこらえた由紀の顔を彼はどう捉えたのか、少し強張った笑顔を由紀に向けた。
「座りますか…?」
困り眉のまま、そう彼が口を開く。まっすぐな瞳と下手くそな口説きの導入みたいな言葉。ああ、もう耐えられない。押し殺していた笑いが、くくくっと外に弾けた。
「じゃあ、私もここ座らせてもらおうかな」
困惑する彼の横、誤魔化すように由紀はアスファルトへ腰を下ろす。薄手の生地を抜けて、アスファルトの熱がひんやりと肌に触れた。それが笑って火照った体に心地いい。彼もそうならいいんだけどな、ブックカバーをかけた文庫本に視線を戻した男の子を横目にそう思う。
空はだんだんと薄い色に変わっていて、右手の方は少しずつグラデーションのように赤みを帯び始めている。その下には線のような海があって、ちょこんと爪先程の大きさの船が浮かぶ。明るさを増す空から目線をずらしていく。防砂林、田んぼ、住宅街。そして高架を抜けると、視界は急に高層マンションとビルでいっぱいになった。競うよううに高く無機質な街。それでいて東京とか、大阪とかそういうところとは違った街。ずっと住んでいた京都とも全然違う街。
もしどこかで違う選択をしていたら、見ることも無かったであろう街。どこかここじゃない、ここじゃなかった街。私だけを弾き出そうとする街。
さっき笑った時の愉しさは淡く消え、虚無感とも諦観ともつかない寂しさが胸を染め上げていく。間違った道を遠くまで来てしまったことに気付いて、気付いているのはずなのにもっと誤って、そしてもう引き返すことすらできない。
どうしていいのか分からなくて、足を止めて、気が付いたら足に力がもう入らなくなった。ずっと頑張って私を連れてきていたはずの足も、必死に動かしてきた手も、褒められて少し得意になった頭も、ちゃんと動いてくれない。ずっと疲れ切っているみたいに重くて、前みたいにしっかりした私に戻れなくて、それなのに時間だけが加速するみたいに進んでしまう。
私だけが置いて行かれてしまう。それなのに焦りが力に変わってはくれなかった。焦燥はただ余裕だけを奪った。何もできないまま、積もった焦りと後悔が、呪いのように疼く。
「私、どうしちゃったんだろ」
口の中でそんな言葉を転がしてしまう。皮膚に食い込むみたいな痛みがした。
「え」
男の声が遠くで聞えた、そんな気がした。




