第1章 第1節 枯れ木の最期と、ふわふわした侵入者
第1章 黄昏からの帰還
第1節 枯れ木の最期と、ふわふわした侵入者
世界を救った英雄たちの物語は、いつだって煌びやかなファンファーレと共に幕を閉じる。だが、その後の人生はどうだ。剣を置いた騎士は腰痛に悩み、魔法使いは老眼で魔導書が読めなくなり、聖女は孫の夜泣きに頭を抱える。そんな静かで、地味で、確実な衰退の日々こそが、平和の代償であり証左だった。
オズワルド・アークライト。かつて「深淵の賢者」と呼ばれた老人は、今、北の果てにある隠遁者の塔で、静かにその生涯を終えようとしていた。
窓の外には、終わりなき冬の空が広がっている。暖炉の火はパチパチと音を立てるが、八十を超えた老骨にはその温もりさえ遠い。手元にあるのは、かつての冒険譚を記した手記ではなく、遺言状だ。財産などほとんどないが、塔にある数千冊の古文書を誰に譲るかだけは決めておかねばならない。
「……ふう。まあ、こんなものか」
震える手でペンを置き、オズワルドは背もたれに深く沈み込んだ。身体の節々が軋み、肺が呼吸をするたびに少しだけ抗議の声を上げる。死への恐怖はない。あるのは、やり遂げたという安堵と、ようやく訪れる永遠の休息への甘美な期待だけだ。
瞼が重い。意識が微睡みの中へ落ちていく。ああ、このまま眠るように逝くのがいい。迎えに来るのは戦乙女か、それとも冥府の渡し守か。どちらでもいい、静かであれば……。
『おい、ジジイ』
頭の中に直接響く、やけに馴れ馴れしい声。オズワルドは眉をひそめた。幻聴か。それにしては品がない。
『無視すんなよ。お前の杖の先にいるんだけど』
オズワルドは重い瞼をこじ開けた。視線の先、普段は魔力を収束させるための水晶が嵌め込まれた愛用の樫の杖。その先端に、何かがいた。
それは、ソフトボール大の真っ白い毛玉だった。ふわふわとした毛並みの中に、つぶらな瞳が二つ、ちょこんと乗っている。手足はない。ただの丸い毛の塊だ。
「……なんだ、お前は。新種の使い魔か?」
『使い魔? そんな下っ端と一緒にするな。俺様は、そうだな……観測者とでも言っておこうか』
毛玉がぽん、と跳ねた。
『お前、今死のうとしてただろ』
「死のうとしていた、ではない。寿命だ。自然の摂理だよ」
『つまらん』
毛玉は吐き捨てるように言った。
『枯れ木のように朽ちて、魂が星の海へ還る? そりゃあ美しいかもしれんが、俺様には退屈だ。この世界はまだ、そんな綺麗に幕を引けるほど成熟しちゃいねえだろ』
「何を……」
『俺様はな、つまらない死に方が嫌いなんだよ。特に、お前みたいな面白い魂を持ったやつが、ただ老いて消えるなんて勿体ない。だから契約してやる』
「契約? お断りだ。私はもう疲れたんだ。静かに眠らせてくれ」
オズワルドは再び目を閉じようとした。だが、次の瞬間、毛玉が強烈な光を放った。
『拒否権はないね。お前、まだ遊び足りない顔をしてるぞ。「あの時、ああすればよかった」「もっと美味いものを食っておけばよかった」。そんな未練が、魂の底にへばりついてる』
「そんなものは誰にでも――」
『だからこそだ! 死んで楽園に行くだと? ケッ、そんな場所あるかどうかも分からんのに。いいか、ないなら作れ。ここを楽園にしちまえ!』
光がオズワルドを包み込む。温かいというよりは、熱い。全身の細胞が沸騰し、再構築されるような感覚。老衰で冷え切っていた血流が、激流となって駆け巡る。
「ぐ、うあああッ!?」
心臓が早鐘を打つ。軋んでいた骨が鳴り、萎んでいた筋肉が膨張する。視界が明瞭になり、耳鳴りが消え失せる。
数秒後、光が収まった時、オズワルドは呼吸を荒げて椅子から転げ落ちていた。
「はぁ、はぁ……何をした……貴様……」
床に手をついて立ち上がる。視線が高い。腰が痛くない。指の節々が滑らかに動く。
恐る恐る、壁に掛けられた鏡を見た。
そこに映っていたのは、皺だらけの老人ではなかった。
若草色の瞳を輝かせ、艶やかな銀髪をなびかせる、二十代そこそこの美青年。
かつて「深淵の賢者」として名を馳せる前、まだただの「天才魔術師」だった頃のオズワルドの姿が、そこにあった。
「……若返った、のか?」
『おう。中身はそのままだがな。これで寿命の心配は当分いらん』
杖の先で、毛玉が得意げに震えた。
『さあ、第二ラウンドの始まりだぞ、相棒。俺様の名は……そうだな、お前のその杖の色に似てるから「おつまみ」でいいや』
「おつまみ……?」
オズワルドは呆然と自分の手を見つめた後、深く溜息をついた。
「……死ぬことすら自由にさせてくれんのか。とんだ悪魔に魅入られたものだ」
しかし、その口元には、数十年ぶりに皮肉ではない、微かな笑みが浮かんでいた。




