247.【設定】なるものと【リアリティ】(第16回)(2026.02.14)
いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。
さて私、このところ【設定】なるものと【リアリティ】との【関係】について【考察】しております。
【リアリティ】についてよく語られる【意見】を見るに、恐らくその人が抱いているであろう【前提】があります。それが『【リアリティ】は【設定】に宿る』というもの。
ただ私は、この【前提】には【懐疑的】です。というのも、例えば【ご都合主義】は【リアリティ】を【台無し】にしますが、これは【設定】云々とは別に起こり得るからです。
ならば『“【リアリティ】の【在処】”は【設定】に限らない』として、です。
ではそもそも【リアリティ】とは何か。
【我流】では『【作者】が【観客】を操ろうとしていない、と解るだけの【整合性】』と捉えています。
言い換えると『【観客】が【没入】のために「信じてもいい」と思える“【説得力】としての【リアリティ】”』となりますね。
この【認識】を踏まえて、【設定】なるものを【観察】してみますと。
【設定】を【観察】するに、まず『“大きな【嘘】”は一つだけついていい』という【経験則】が浮かび上がります。
同時に【設定】とは【嘘】です。となれば【設定】を“大きな【嘘】”に置き換えて考えることができそうです。
ここで【言説】として『【設定】は【リアリティ】を持っていなければならない』(意訳)というものも眼に入りますが。
この【言説】が正しいとするなら『“大きな【嘘】”は【リアリティ】を持っていなければならない』ことになりますね。
ですが“大きな【嘘】”が【現実離れ】している【傑作】というのは決して少なくありません。すると、『【リアリティ】は【設定】一つ一つに宿っているわけではない』という【事実】が見えてきます。
では【リアリティ】、もっと申せば“【説得力】としての【リアリティ】”はどこに宿るのか。
【我流】なりに【良作】を【観察】してみると、『“大きな【嘘】”は一つだけついていい』という【経験則】はよく活きているように見受けられます。
もちろん【フィクション】では、“いわゆる【設定】”は一つや二つではありません。しかも“いわゆる【設定】”だけあって【嘘】でもあります。
ただ【我流】で【観察】するに、【良作】ほどこれら“いわゆる【設定】”は【体系化】されているように映るのです。しかもこの【体系】が、【現実世界】と同じように『【原理原則】で【現象】や【法則】を束ねている』と。
また【良作】においては、この“いわゆる【設定】”からなる【体系】の【大元】つまり【大原則】に、一つだけの“大きな【嘘】”が据えられているとも映ります。つまり“いわゆる【設定】”は“大きな【嘘】”を【大原則】とする【体系】の【一要素】になっているわけですね。
すると『“【説得力】としての【リアリティ】”に【影響】するのは、“いわゆる【設定】”の【単体】ではなく【体系】』という【可能性】が浮かび上がってきます。
【我流】では、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿る先として【作品世界】(≠【世界観】)を考えます。ここで【作品世界】の【住人】が【登場人物】、【出来事】が【ストーリィ】、【物語】上の【作品世界】の【観え方】が【世界観】ということになりますね。
その上で“【説得力】としての【リアリティ】”を“感じない”ものをまとめると、【不自然】という【言葉】に行き着きます。
この【不自然】、【現実世界】では『【自然】または【人工】の“【法則】の【体系】”に従わないこと』ということになります。
ならば【フィクション】でも、“【説得力】としての【リアリティ】”を損ねる【不自然】は似たようなことになりそうですね。
【我流】で捉えるところ、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るのは【作品世界】そのもの、もっと申せば【作品世界】を映し出す【表現】一つ一つの裏にある【事実関係】、そこにある“【法則】の【体系】”です。
というのは、例えば【作者】が“いわゆる【設定】”を作り込んで【体系化】していても、です。作り込んでいないところで“【法則】の【体系】”が綻んでいたら、“【説得力】としての【リアリティ】”はそこで崩れ去るからです。
つまり“【説得力】としての【リアリティ】”は【作品】の【表現全体】に込められてこそ、というわけですね。
【説明】一つ、“いわゆる【設定】”一つで“【説得力】としての【リアリティ】”は【実現】できない、というわけです。
ですが、それでも『【リアリティ】は【設定】に宿る』と感じてしまう【心理】はあります。
先述の通り、【我流】では『“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るのは、“いわゆる【設定】”ではなく“【体系化】された【事実関係】”とそこにある“【法則】の【体系】”』と捉えますが。
しかしながら【観客】が【事実関係】や【体系】を感じ取ろうにも、そもそも接した【情報量】、もっと申せば“【読解】した【情報量】”が少ないのでは何ともなりません。そして【作品冒頭】はこの【状態】に【相当】します。
そこで【作者】は【冒頭】およびそれ以前の【広報】の【段階】で【工夫】を凝らすことになります。【具体的】には、【読解】の【ハードル】を下げた“いわゆる【設定】”を【重点的】に盛り込む――というものです。
そうやって“【読解】しやすい【情報量】”を“いわゆる【設定】”で稼いだなら、【観客】は自ずとその【情報量】の中に“【法則】の【体系】”を見出しやすくなります。すると【作者】の【意図】と【観客】の【先入観】『【リアリティ】は“いわゆる【設定】”に宿る』、【両者】が【合致】しやすくなることになります。もちろん【正確】ではありません。そしてその【不正確】な【認識】は、むしろ【作者】の側が【助長】していることになります。
では、【作者】が“いわゆる【設定】”で“【説得力】としての【リアリティ】”(の【一端】)を示したくなる【背景】はと申せば。
【小説】は【物語】の【一種】です。
そして【フィクション】であれば、いわゆる“大きな【嘘】”が一つだけ認められやすい【傾向】があります。【我流】ではこれを“【設定】という【大嘘】”と呼んでおります。
また【物語】としては、【冒頭】から“【設定】という【大嘘】”を【大々的】に【説明】するのは、少なくとも私の観る【良作】においては【少数派】です。
と申しますのも、【物語】であるからには、【登場人物】たちが接する【現象】の数々を描いてこそ――という【背景】がありますからで。
さらに【フィクション】として【良作】であるほど、【ストーリィ】が進むにつれて【登場人物】やその【世界観】は大きく【変化】する(“【変化】の【落差】”が大きくなる)【傾向】も観られますが。
【フィクション】において【最大級】の【落差】を生むのは“【設定】という【大嘘】”です。これを【冒頭】で【大々的】に示してしまうと、今度は【尻すぼみ】の【リスク】が生まれることになりますね。
“【設定】という【大嘘】”が【フィクション作品】において【最大級】の【落差】を【実現】し得るからには、これは【作品】の【魅力】に繋がる【変化】の【幅】すなわち【ポテンシャル】を表すものです。【良作】を目指す上では、つまり【作劇上】の【要求】では、【クライマックス】または【相当】の【部分】でこそ明かしたい【核心】というわけですね。
ですがその一方、“【設定】という【大嘘】”は【作品】の【差別化要素】でもあります。【作品冒頭】や【広報】で明かしたい【広報上】の【要求】もあるわけです。ただこれはそのまま【実行】すると【作劇上】は【ネタバレ】や【尻すぼみ】に繋がります。
するとその【中間】、“【設定】という【大嘘】”そのものではなくともその【体系上】にあるもの、それこそ“【説得力】としての【リアリティ】”を持たせるよう【考察】した【中間設定】とも呼ぶべきものが浮かび上がってきます。これを【作品冒頭】や【広報】に用いればいいわけです。
この【中間設定】は、もちろん何でもいいわけではありません。
少なくとも【良作】においては、【中間設定】は【作品】の【隅々】まで巡らせた【考察結果】に基づき、なおかつ“【設定】という【大嘘】”から【派生】するものです。言い換えれば『“【法則】の【体系】の【要】”に【位置】する【考察結果】』ですね。
【我流】で【認識】するに、この【中間設定】そのものが、またはこれを【作者】が“【法則】の【体系】”に沿う【範囲】で【アレンジ】したものが、“いわゆる【設定】”の【正体】です――こと【良作】においては。
こうして“【法則】の【体系】”が、少なくともその【一端】が、【中間設定】一つ一つから匂い立つからこそ、【観客】は“いわゆる【設定】”の【向こう側】に“【説得力】としての【リアリティ】”を感じ取るわけです。
ただ【観客】からは、そのように見えているとも限りません。
【観客】は【作者】の【事情】にも【努力】にも通じていません。なので感じたことをそのまま【鵜呑み】にしてしまいがちです。
この『感じたこと』の少なくとも【一部】に、『【中間設定】を見て“【説得力】としての【リアリティ】”を感じる』というものは入り込みやすいものです。【実際】にはそう感じるように【良作】の【作者】が【演出】しているのだとしても。
そして【作者】の【出発点】は【基本的】に【観客】です。そこから【認識】を【更新】せずにいると、『“【説得力】としての【リアリティ】”が“いわゆる【設定】”(≒【中間設定】)の【中】にある』という【言説】に振り回されて【弊害】をこうむるようになります。
例えば「【設定】をもっと【説明】しないと【リアリティ】が出ない……」というように(【実際】には【説明】で“【説得力】としての【リアリティ】”は醸せないのですが)。
ただ逆を言えば、こうした【弊害】は【回避】できるわけです。
その【前提】は、“【観客】の【立ち位置】”から離れ、【作者】として“【説得力】としての【リアリティ】”の【本質】へ踏み込む――という【姿勢】です。
逆に『“いわゆる【設定】”ポン置きで【中核】を据えない【姿勢】』は【危うさ】を【内包】するわけです。
【一言】にまとめようと試みるとして、私なら『【観客】と(巧みな)【作者】は、異なる【立ち位置】から【作品】を捉えている』というところですね。【観客】とは【立ち位置】を変えることで、初めて『【設定】の【リアリティ】』という【概念】から【解放】される【方向】へ向かうことができる、というわけです。
【作者】として【やりたいこと】と“【説得力】としての【リアリティ】”は、【両立】できないわけではありません。ただし、【無条件】で【両立】できるものでもありません。
【作者】の【やりたいこと】とは、言い換えれば【創作意図】や【表現意図】です。ただし一本の【作品】に込められるものの【数】や【質】は、【作者】の【技量】によります。
特に【中核】とそこで束ねられる“【法則】の【体系】”は、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るところです。ここを築くことができなければ【両立】は夢と終わることになります。
なので束ねられる【中核】を定めるために【創作意図】や【表現意図】、【テーマ】や【コンセプト】を(【感覚的】にでも)持っていることは【必須】です。
またそうして設けた【中核】で束ねられるように、“【設定】という【大嘘】”や“【法則】の【体系】”とそこに含まれる【中間設定】(≒“いわゆる【設定】”)、ひいては【表現】の一つ一つを作り、また【配置】していくことが【必要】になるはずですね。
結局のところ、【事実関係】の【中核】に“【設定】という【大嘘】”(またはそれに【相当】するもの)がなければ、【事実関係】に【整合性】も【一貫性】も宿りようがありません。
その場合は【作品全体】の【事実関係】、特に“いわゆる【設定】”の【外】の部分で【整合性】や【一貫性】が失われやすくなるわけです。
であれば、『【設定】(=“いわゆる【設定】”)の【リアリティ】』なるものを【訳知り顔】で語るとき、その人が“【他作】において【事実関係】の【中核】を捉えず【表層】だけ見ている【観客】または【作者】”である【可能性】は高いことになります。
なぜなら、そもそも語っている【他作】において“いわゆる【設定】”(=【中間設定】)の外にある【事実関係】を、中でもその【中核】を、【読解】あるいは【認識】できていないわけですから。
逆に“【法則】の【体系】”が【作品テーマ】や【作者】の【創作意図】とも【密接】に【関係】していれば、それだけ【表現】は【一貫】していくことになりますね。すると“【説得力】としての【リアリティ】”もまた【補強】されていくことになるはずです。
【作者】の【やりたいこと】、少なくとも【作品テーマ】や【創作意図】といった【中核】に属するものは、もちろん【姿勢】にもよりますが“【説得力】としての【リアリティ】”を醸す上で大いに役立つもののようですね。
元より“【説得力】としての【リアリティ】”を支えているのは“【表現全体】の【リアリティ】”です。これは『【リアリティ】の【在処】は“【設定】なるもの”ではない』ということを【意味】します。
もちろん【他作】の“いわゆる【設定】”に魅せられた、そこに【リアリティ】を感じた、そういう【観客】としての【体験】は充分にあり得ます。
ただしそれは【観客】としての【視点】に立った【体験】であって、『【作者】としての【視点】としては、もっと深く踏み込んだ【位置】も【存在】する』、というのも【事実】です。
実際、『【観客】に【作品】をどう魅せるか』という【命題】については、実は【複数】の【役割】で向き合うものです。
【本編】については【構成】や【演出】の【領分】ですし、また【作品】を【観賞】するまでの【周辺体験】については【広報】の【領分】になります。しかもこれらはさらに【細分化】されるものです。
前回は以上の【事実】を踏まえて、“【説得力】としての【リアリティ】”を醸すための【過程】を考えてみました。
実はここまでの【考察】で、『“いわゆる【設定】”の【説明】で【リアリティ】を【確保】できる』とする【思想】が【的外れ】であることが【論証】できます。
と申しますのも、“【説得力】としての【リアリティ】”が宿るのは、【作品全体】に渡って描き出される“【法則】の【体系】”だからです。
この場合に【必要】なのは『【事実単体】の【説明】などではなく、【事実関係】をいかに【違和感】を伴わず魅せるか』という【命題】です。これは【構成】や【演出】といった【表現】の【命題】です。
よって【我流】としては、【作者】として考えるべきは主に三点。
まず【考証】。“【設定】という【大嘘】”が【場面】へいかなる【影響】を及ぼすか。
次に【表現】。【考証】を【作品本編】に【反映】しつつ、いかに魅せるか。
最後に【継続】。これら【考証】と【表現】を【作品全体】にわたっていかに込め続けるか。
要は『【リアリティ】なるものを醸すために【必要】なものは、深く広く【存在】している』という【考え方】ですね。
今回はこの“【説得力】としての【リアリティ】”を醸すために役立ちそうな、【芝居】の【考え方】についてお話ししてみましょう。
◇
○【リアリティ】に通ずる【芝居】の【考え方】(その1)
さて、“【説得力】としての【リアリティ】”を醸すために【考証】し、それを【表現】に【反映】し、さらにそれを【継続】する――という点で申せば。
【我流】では、これは【芝居】に通ずる【考え方】と捉えます。
【通常】は、【芝居】といえば【登場人物】の【言動】、ただしその【奥深く】まで踏まえての【再現】――というところですが。【我流】ではこれを【発展】させて『【人】や【モノ】の【言動】や【挙動】を含めた【現象全般】を扱う“広義の【芝居】”』という【捉え方】を用いています。
◇
・【役作り】(=【考証】):【背景】にはどのような【要素】があり、【要素】の数々は互いにどのような【影響】を与え合い、それがいかなる【芝居】(【現象】)として現れるか、その【考証】
・【芝居】(=【表現】):【役作り】を踏まえて、その【現場】の【瞬間瞬間】でどのような【現象】が生まれるか、その【表現】
・【芝居】の【一貫性】(=【継続】):【役作り】に加えて【直前】までの【芝居】も踏まえた上で、新たな【瞬間】の【芝居】を【構築】し、【表現】し続ける、その【継続】
◇
こう捉えてみれば、『“いわゆる【芝居】”で行われていることは、【登場人物】だけでなく【現象】の数々にも当てはまる』ことになります。そして【上質】な【芝居】は、【登場人物】の【言動】や【心理】の移ろいに“【説得力】としての【リアリティ】”を【強烈】に与えるものです。
ただし【芝居】の【効力】は、あくまでその場その場の【登場人物】の【言動】に関してのものです。【ストーリィ】や【中間設定】など、【作者由来】の【矛盾】を覆せるものではありません。
そのようなわけで、【我流】では【作品世界】の【存在全般】、【登場人物】のみならず【モノ】を含めた【言動】や、【ストーリィ】に込められた【前後関係】、さらには【世界観】に込められた【事実関係】とその【変遷】まで、【現象全般】を【対象】として“広義の【芝居】”を【重要視】しているわけです。もちろんこれは、“【説得力】としての【リアリティ】”のためです。
◇
さて、今回は一旦ここまで。
“【説得力】としての【リアリティ】”を醸すために【必要】なものは深く広く【存在】しますが、これを捉えるには【芝居】の【考え方】が役立ちそうです。
【通常】は、【芝居】といえば【登場人物】の【言動】、ただしその【奥深く】まで踏まえての【再現】というところですが。【発展】させて【人】や【モノ】の【挙動】についてのものと捉え、“広義の【芝居】”として【現象全般】をみてみます。
すると【役作り】は【背景】といった【事実関係】の【考証】、眼に映る【芝居】そのものは【考証】を踏まえた【表現】、【芝居】など【一貫性】は【考証】と【表現】の【継続】、と捉えることができますね。要は“広義の【芝居】”は【人】と【モノ】の【挙動】即ち【現象全般】を扱えるということです。
そんなわけで、【我流】とでは“広義の【芝居】”という【考え方】を【重視】しています。【芝居】と同様に“【説得力】としての【リアリティ】”のために。
次回は、この“広義の【芝居】”という【見方】から得られる【気付き】についてお話ししてみましょう。
よろしければまたお付き合い下さいませ。
それでは引き続き、よろしくお願いいたします。




