1DAY・2
1DAY
夢?
顔を上げるとそこは見慣れた部屋で、目の前の窓からは水竜の神殿の最深部である奥殿が見える。
鬱蒼とした緑の木々の奥に、水に浮かぶかのように佇んでいる水竜の住まう神殿。
手元には読みかけの書物が広がっていて、開け放たれた窓から入ってくる風に本がカサカサと音を立ててページがめくれていくのを見、とたんに現実に戻される。
昨夜、書庫から持ってきた書物を読んでいて眠くなって、机に突っ伏したまま寝てしまったらしい。
水竜の神殿に巫女候補として呼ばれて半年。
ルアが村を出てから三年以上が経ち、ルアのことを夢に見るなんて事もなかったのに、一体どうしてこんな夢を見たんだろう。
あの時の気持ちも今はもう忘れていたのに、なぜか顔には涙の跡がある。
結局、あっさりと村を出ることにしたルアは、旅立ちの日に二年経ったら迎えに行く、とだけ言い残し村を出た。
その後何の便りもなく、約束の日を過ぎてもルアは戻ってくることはなかった。
心の波が収まって、毎日を穏やかに過ごせるようになった頃、次代の水竜の巫女に選ばれたと、この神殿から使者がやってきた。
その日のことは今も鮮明に覚えている。
いつものように自宅の一回のパン屋で店番をしていると、見たこともない人たち(それは水竜の神殿の神官たちだったのだが)がお店に入ってきて、躊躇わず額づいた。
「次代の巫女サーシャ様。お迎えに上がりました」
それが一体どういう意味なのか理解することも出来ず立ち尽くしていると、ママが店の奥から気配を感じたのか顔を出した。
「あんたたちは一体なんなんだい」
呆れたような声で腕組みをして、神官たちを見下ろした。
神官たちはゆっくりと顔を上げ、服の汚れも気にせずママと向かい合った。
「サーシャ様のお母様でいらっしゃいますね。我々は水竜の神殿の神官でございます。今巫女様のご神託により、次代の巫女であらせられるサーシャ様をお迎えに上がりました」
その言葉の意味を、ママも、自分自身も理解することがなかなか出来なかった。
水竜。神官。巫女。神託。
全ての言葉の点と点が結びつくまではそれなりの時間が必要だった。
この国の守り神であり、水を統べる竜。
国王さえも水竜の意向を伺い、この国を統治しているという。
そして、人ならざるものである水竜の声を人々に伝えるのが水竜の巫女と呼ばれる女性である。
その「巫女」に神託により選ばれた、と言われてもにわかには信じられなかった。
先に口を開いたのはママだった。
「うちのササ、いや、サーシャが巫女。何かの間違いじゃありませんか。うちの家系からは当然ですが、この村からも巫女が出たなんてことはありませんよ」
さっきのまくし立てるような言葉遣いからは一変して、ママの中では精一杯丁重に話しているのがおかしかった。
「水竜の巫女のご神託に間違いはありません」
一番年配と思われる神官が口を開いた。
確信と信念に満ちた声だった。
「私共は水竜様のお言葉に従い、サーシャ様をお迎えに参ったのです。先例など必要ではないのです。水竜様が必要とされているのがサーシャ様なのです」
水竜に必要とされている。
その時の神官の言葉は、今の自分をどれだけ支えているのか計り知れない。
でも、その時は疑っていたわけではないけれど、信じることが出来ないでいた。
それはママも変わらなかったようだ。
「そう言われてもねぇ」
ママもそれ以上の言葉が出てこないようで、口を閉ざしてしまった。
かといって、私も何か上手い言葉が出てくるわけでもなく、神官たちも一様に黙ったままで、重たい空気が場を支配した。
誰も動くことは出来ず、ママと私は立ち尽くしたままで、神官たちは決して綺麗とはいい難い、店の床に額づいたままだった。
自分が巫女だと言われて、はいそうですかと言える人間がいるだろうか。
自分が特別だと言われ、すぐにホイホイと喜んで笑える人間がいるだろうか。
それがまして、水竜の言葉を聞き、国さえ動かす巫女だと言われ、信じられる人がいるだろうか。
信じる信じないというよりも、今は自分よりも明らかに立派な服を着ている神官たちの服が汚れることが気になってしまった。
「あの、立って下さい」
その状況に居たたまれなくなって、思わず出てきた言葉がそれだった。
「仮にあたしが次代の巫女だとしても、今はただのパン屋の娘です。そうやって頭を下げられると、どうしたらいいのか判らなくなります。だから立って下さい」
その言葉で神官たちはいっせいに立ち上がった。
「サーシャ様、私は幾度となく水竜の巫女を神殿にお連れする役目を頂きました。サーシャ様が信じることが出来ないでいらっしゃるのも、無理の無いことだと思っております」
一番年配の神官が優しい口調でそう告げた。
その言葉に黙って頷くと、更にゆっくりと言葉を続けた。
「ですので、一度今巫女様にお会いしていただけませんか。お答えを出されるのはその後で構いません。今巫女様より承ったのは、サーシャ様に一度水竜の神殿にいらして頂くために、お母様や村長殿のご了承を頂くことでございます。」
その言葉に頷くと、神官は人のよさそうな笑みを浮かべた。そして目線をママにと移した。
「私共の言葉を信じることは難しいかと思いますので、出来ましたらお母様にも神殿までご一緒頂ければと思っております」
少し悩んでからママは重たい口を開いた。
「あんたたちが、たちの悪い人攫いじゃないとは思うけれど、さすがに大事な娘を一人で知らない人に預けるわけにもいかないからね」
非常に遠まわしな了承であった。
その後はとんとん拍子で話が進み、数日後、村長とママと私の三人は水竜の神殿に連れて行かれ、水竜の巫女に会い、巫女本人から神託を聴くことになり、それから半年間、私は一度も村に戻ることはなかった。
ママと村長はご神託を聴くと、私を残して村に帰っていた。
残された私はというと、巫女としての立ち居振舞いを身に付けるために神殿で暮らすことになった。
半年前のあの日、自分が巫女になるということをこれっぽっちも信じることが出来なかったというのに、今ではこの神殿の暮らしにも慣れ、神殿の風景も見慣れたものになった。
それでも、今でもなお、この国でただ一人の巫女になるということが、自分のことではないような気がしてならない。
「ササ」
やわらかい、耳に心地よい声がドアの向こうから聞こえてきて、過去に飛んでいた頭を現実に戻す。
「今巫女様」
言葉を発するのと同時に体がシャンとするのがわかる。
めったにお会いすることも無いけれど、その声は初めて聴いたときから忘れることの出来ない声になっていた。
急いで寝癖のついた髪を撫で付け、小走りでドアに駆け寄る。
「今走りましたね? マイナス十点」
笑いながら指を立てて、巫女様は言う。
それは毎日神官たちがするしぐさだ。
毎日百点満点から「巫女らしくない行動」をすると神官たちに減点されているのを巫女様もご覧になっていたようで、気恥ずかしくなる。
「はい。すみません」
思わずペコリと頭を下げるのを見、クスクスと巫女様は笑い、後ろ手でドアを閉める。
「あ……」
後ろ手でドアを閉めるのを見て、思わず声をあげてから、慌てて口を覆う。
「ほら、これで私もマイナス十点」
気を使わなくていいのよ、というように巫女様は笑いかけてくださる。
そんな優しい巫女様を見ていると、自分が恥ずかしくなる。
ここにきて思ったのは、自分が本当に田舎のパン屋の娘だということ。
綺麗に歩くこと、綺麗にお辞儀をすること、それさえも出来ない、育ちの悪い村娘でしかなかった。
だから、いつまでも減点されて一日を満点で過ごせることも無く、むしろマイナスの日々。
マイナスになればなるほど、巫女として相応しくないといわれているようで、神殿から逃げ出したくなったこともあった。
巫女様はゆっくりと部屋の中に入り、窓の外に見える奥殿に目を向け、そして小さく頷くのがわかった。
その後、部屋の窓を閉め、奥殿が見えないベッドに腰掛ける。
そして手招きをし、ベッドの横に座るように促す。
「あの、巫女様?」
「ササ、ここに座って」
普段はサーシャと正式な名前でお呼びになるのに、「ササ」と声をかけられ、やわらかい言葉だったが、拒絶を許さないような言葉に少し戸惑う。
その言葉に促され、少し間を空けてベッドに腰掛ける。
横に座ったものの、こんなに至近距離で巫女様を見たことが無く、目を合わせるのも気恥ずかしくなる。
物腰がやわらかくて、気品のある巫女様と自分が違いすぎて、そばにいることが怖い。
「迷っているのね」
何をですか、と言いかけ口を開きかけたところに、巫女様が手を握ってきたので固まってしまう。
「水竜が心配しています」
――――――!!
その言葉に絶句する。
水、竜が、心配。
全身の血が引いていくのが判る。
神官たちの減点の時も「水竜があなたを必要としています」と、村にきた神官の言葉を頼りになんとかやってきた。
でも、やっぱり水竜に「必要なのはお前じゃない」と言われたような気がして、目の前がフラフラと廻っているような錯覚を覚える。
震える手を離さず、淡々と巫女様は言葉を紡いでいく。
「私たち巫女は人生の中の数年間を水竜の言葉を聴くためにのみ使います」
わかりますね?と言う巫女さまの声に小さく頷いた。でも、その後その顔を上げることが出来ないでいる。
「では、なぜ巫女が数年でその仕事を次の巫女に引き継ぐかわかりますか」
一生を水竜に捧げることによって、水竜の声を聴く能力をもつものを絶やしてしまわないように、水竜の声を聴く能力を次代に繋ぐために、子を残すために数年で次の巫女にその仕事を譲り渡すと、初めて神殿に来たときに神官長さまから聞いたのを思い出し、それをそのまま巫女様に伝える。
その言葉に巫女様は首を横に振る。
違う理由があるという意味で。
数年で巫女が変わる理由なんて、村にいたときには考えたこともなかった。
それが普通だと思っていたから。
自分とは関係のない世界のことだったから。
「ササ、顔を上げて私の言葉を聞いて」
その言葉に促され、重たい心と同じように重たくなっている頭を上げる。
迷いの無い、確信に満ちた巫女様の表情に、理想の「巫女」を見た気がする。
握っていた手に更に力がこもる。
「全ては水竜の優しさなのです」
言葉は耳を通り過ぎるだけで、言葉の意味することがわからない。
「一人の人として女性として、最も輝いている時を、巫女として神殿の最深部で、外部の誰にも会わず、ただただ水竜のために捧げることに、水竜は心を痛めていらっしゃるのです」
――優しさ。
――心を痛める。
伝えようとすることの真意が全く掴めない。
どうして優しいと、数年で巫女を変えるのだろう。
どうして心を痛めると、次の巫女を選ぶのだろう。
どうしてそれでも水竜は巫女を探すのだろう。
水竜はなぜ巫女が必要なのだろう。
「水竜は巫女たちに対しても、この国の国民の全てを思うのと同じように、人としての幸せを掴んで欲しいと願っていらっしゃいます。それでも、人に伝える言葉をもたない己の言葉を伝えるためには、どうしても巫女が必要なのです。その矛盾が水竜の心を痛め、長い間手元に一人の巫女を置かないようにとご配慮なさるのです」
「……はい」
「水竜の声を聴くことが出来るという稀有なる能力を持つが故に、巫女は巫女になると思いますか」
その言葉に何も返せない。
水竜の声をただ一人聴くことが出来るのが巫女だと聞いている。だから、巫女は水竜の声を聴く能力があるから巫女になるのだと思う。
でも、私は水竜の声なんて聴いたこともない。
ではどうして巫女候補に選ばれたのだろう。
それはどんなに考えてもわからない。
あの日。
「お迎えに参りました」と言われた日から、何度となく考えてきたことで、その答えはいまだ見つけられずにいる。
聞き方は違うものの、巫女様の問い掛けと、半年間悩んできたことは本質的には同じことだと思う。
今、その答えを出せと言われても、出せるはずも無い。
出せるのならば、もっと早くその答えを見つけだしているはずだから。
「そうだと聞いていますが、でも、わかりません」
それが半年間悩み抜いた挙句に言えることなのが恥ずかしい。
でも、それでも他の言葉を言えば全てが嘘になると思う。
「巫女には、特別な能力なんてないのです」
「でも巫女様は水竜の声を聴くことが出来ます」
特別な能力なんて無い、というのは嘘だと思い、咄嗟にそう言ってしまう。
それは私が持ち得ない特別な能力に他ならない。
「いいえ。私はほんの少し水竜のお力をお借りしているだけ。本当は私に特別な能力があるわけではなく、特別なのは水竜ただお一人なのです」
余計にわからなくなってくる。
では巫女とはなんなのか。
「お力をお借りするといっても、誰もが水竜のお力をお借りできるわけではありません」
それならば、やはり特別な力があるってことになる。
そう思ったことが顔に出たのか、巫女様は少し渋い顔をされる。
「友達でも気が合う人合わない人がいるでしょう」
「は、はい」
話が違うところに飛んだので、咄嗟にそう答える。
村にいたとき、年の近い子は何人かいても、その全員といつも遊んでいたかというとそうでもない。
思い返してみれば、幼馴染と呼ばれる中でも一番仲がいいのがカラだった。
カラとは面白いと思ったりすることが同じで、一緒にいるのが楽しかった。
確かに気が合う、合わないというのはある。
「簡単に言うなら、水竜も気の合う人にしか、そのお力をお貸しになることが出来ないのです」
理解できるようで理解できない。
「それはあなたが巫女になったときに理解できるでしょう」
そういうと巫女様は笑って、手を離して立ち上がる。
「あなただけではなく、私も歴代の巫女たちも特別な能力なんて持っていません。それでも水竜は巫女を選びます。ほかならぬ、水竜自身がお選びになるのです。そのことは忘れないで」
目の前に立ち、巫女様は窓の外の奥殿を見つめ、大きく深呼吸をしてからゆったりと、でも強い意志のある声で言う。
「水竜からのお言葉を伝えます」
雷が走ったかのような錯覚を覚える。
目の前にまるで水竜がいるかのような感覚。
それは初めて神殿で、今巫女様からご神託を聴いた時と同じ感覚。
「迷うこともあるでしょう。でも私はあなたがここに戻ってくると信じています。もしも迷うことがあれば、あなたの思うとおり、気持ちに正直に生きなさい。私は誰よりもあなた自身の幸せを願っています」
巫女様の口から出る言葉の全てが、水竜自身が語りかけているように聞こえてくる。
そう、自らが水竜の声が聞こえるかのように。
「もし巫女以外の道を選びたいと思ったならば、あなたの思うとおりになさい。誰に言われたからというのではなく、あなた自身が悩み、選び、自分自身の道を切り開きなさい。あなたが仮に巫女にならなかったとしても誰もあなたを責めることはしません」
その言葉の真意はわからない。暗に巫女を辞めても構わないと言われているのは判る。
そして、それが突き放す意味ではないことも。
「私の手元を離れている間、あなたに様々なことが訪れるでしょう。しかし、自分自身で考え、そして選びなさい。一度しかないあなた自身の人生なのだから」
そこまで言うと、巫女様はにっこりと笑う。
それは、水竜の神託が終わった証拠のように。
「ササ、二日後にまた会えるのを楽しみにしているわ」
そういい残し、巫女様は部屋から出て行ってしまう。
一人部屋に残され、水竜の言葉に思いを馳せる。
今日、これから生まれ育った村に帰る。「巫女になるための儀式」は村を出るところからはじまり、そのためには一度村に帰らなくてはならないから。
まるで、今ここに行儀見習のために来ているということはなかったかのように、神殿からの使者を迎えるための儀式や、今巫女さまからのご神託を使者から承る儀式など、実は村で行わなくてはいけない儀式が山のようにある。
年に一度の、水竜の大祭の日にあわせ、全ての儀式が執り行われるため、水竜の大祭の前夜祭に村で儀式を行い、本祭の日に巫女になるための儀式を行うということになっている。
前夜祭といっても、朝から儀式があるため、今日中に村に戻らないと儀式が間に合わない。
幸いにして、村が神殿から半日の距離なので、今日村に戻ることになった。
何代か前の巫女さまは、国境近くの出身だったそうで、半月前に村に戻り、大祭にあわせて神殿に戻ってきたそうだ。
それに比べれば、距離がない分だけ楽だなと思う。
いや、そんなことは実はどうでもいい。
水竜は、巫女になるかならないかは自分で考えて決めればいい、そうおっしゃったのだ。
必然的に二日後には巫女になるんだろうと思っていたので、なぜそんなことを言われたのかが判らない。
「迷うこともあるでしょう。でも私はあなたがここに戻ってくると信じています」という言葉がなぜか心に引っかかる。
全てを見通す力がある水竜にとっても見えない未来があるとでもいうのだろうか。
ただ、この三日間が一生を左右する三日になるのだろうと、漠然と感じることしか出来ずにいた。
しばらく考え事をしていると、神官の「お時間です」という声がドアの向こうから聞こえてくる。
その後はバタバタと追い立てられるように支度をし、神殿の使者役の神官と共に村へと向かった。




