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街の風景が見覚えのあるものに変わっていく。もう俺らの家の近くまで来ていた。あと5分ぐらいだろうか。
「ちょっと降ろして」と翔が言った。母親は運転しながら「なんで?」と返す。
「直己と寄りたいところがあるんだ」
車は静かに減速して、左側に近づいていく。後ろのドアがちょうどフェンスの切れ目に来るところで、停止した。
「あんま、遅くらないように」と母親は翔にくぎを刺した。
「なになに?どっか行くの?」
助手席にいた由利が振り返って、翔に尋ねる。目が赤いままだ。こすった痕が強く残っている。空元気というより、どっか外出して切り替えたいのかもしれない。
「由利には関係ないところだよ。じゃあ直己、行こうか」
翔は素っ気無く由利に返して外に出てしまった。開いたままのドアに手をかけ、俺に「早く来いよ」と言ってくる。
「なにそれ」と由利は冷めた口調で言った。兄弟のいない俺にはわからないが、今日ぐらい優しく接してもいいと思う。
俺は翔の待つ外に出て、歩道のほうまで少し歩いた。車のドアが閉められる音がして、車が発信する音も聞こえた。
兄妹にはその兄妹にふさわしい関係があるだろう。横から口を出すのも馬鹿らしいだろう。ただでさえ今日は家族全員が感情的になった後だ。落ち着いて少し気まずくなっているだけかもしれない。
「どこに連れて行く気?」
翔は俺の横まで来て、俺のおなかを指さす。
「直己、おなかすいているだろ?飯、行こうぜ」
そういって翔は勝手に歩き出す。俺はそれについていくしかなかった。
翔は俺を、見たことはあるが一度も入ったことがない寿司屋に連れて行った。店の外に埋め込みの水槽があり、見るからに高級そうな魚が悠々と泳いでいる。自己主張の激しいウニと、餌も探さないで隠れている海老も見えた。
翔は暖簾を押し上げて、店の中に入った。俺はいつも食べに行く飯屋と雰囲気が違い過ぎてしり込みしていた。こんなところに入ったらいくら取られるかわからない。回転寿司で騒ぎ倒すほうが性に合っている。
店の中から「早く入って来い」と翔の声が聞こえた。
脇に力を込めて、小さく暖簾を押して中の景色を見る。中は少しこじんまりとした雰囲気だ。手前にカウンターが並んでいて、どうやら奥が座敷になっているようだ。
カウンターの奥に翔がすでに座っている。その横まで、恐る恐る近づいて、その横に座った。
早速カウンターの向こう側から、「今日はいかがいたしますかな。坊や」と聞こえてきた。馬鹿にしている感じではない。珍しがっている風だ。若い二人がこんな店にこんな夕方に来ることがあまりないのだろう。しかも俺らは学生服だ。
注文を取ってきた人はみるからに大将と言う言葉が似合いそうな、職人気質そうで体もがっちりとしている。すでに気後れしている俺は何を言ったらいいのかわからずテンパっていた。
「二人で一万円ぐらいで、お任せでお願いします」
「おう。了解」と大将は言った。
翔はどこか堂々としている。渡されたお茶も、丁寧に受け取り、俺に渡すまでの気配りもある。翔の家はそんなにお金持ちでもないはずだ。どこでこんな上品さをみにつけたのだろうか。
意外な一面を見てしまって俺は驚きを隠せない。
翔は両手で綺麗に湯呑を持ち、そっと静かに傾けた。さながら上流階級の貴族のような立ち振る舞いだった。
「熱っち。熱っちっち。舌やけどした」
舌を犬のように出し、手で撫で始める。あやうく落とすところだった湯呑は、奇跡的に俺の足にお茶をかけるだけで済んだ。
「熱っいんだけど。足が、おい、熱っいんだけど」と俺は翔の頭をはたいた。仲居さんが冷たいおしぼりをあわてて持ってきて、俺の足を拭いてくれる。
翔の仮面は剥がれ、いつものひょうきんな奴に戻っていた。
「翔、お前、この店に入ったことある?」
「ないに決まってるだろ。格式が高すぎる」
「でも、しっかりと注文通してたでしょ。一万円でとか言って」
「あれは、雰囲気で。だってどれから食べるべきとか全然、わかんないし」
そうだったのか。俺はてっきりそういうシステムなのか思い、目から鱗の気持ちだった。翔は最初からかっこつけていただけだったのだろう。わざわざ一万円を払ってかっこつけに来たわけではおそらくない。他に目的があるはずだ。
「翔。なんでここに?飯ならさっきあったでしょ」
俺がそう聞くと、翔は一泊置くようにお茶を飲んだ。その間に大将が俺らの前に寿司を四貫載せた。ネタが白い、おそらくヒラメとか鯛とかだろう。俺の目では区別できなかった。
「さっき、葬式の最後で寿司が出ただろ。それで思い出したんだ」
翔は醤油皿に寿司をワンクッションさせて、一口で食べる。口に入れた瞬間からあいつの目が輝き始めた。すごい速さで咀嚼をしたと思ったら、二貫目に手を伸ばしていた。俺はその手をはじいて、取ろうとしていた寿司を奪って口に入れる。
「何を?」
「前に賭けをしたんだ。負けたら寿司をおごるっていうものだった」
寿司のシャリは口の中でふわっとほぐれる。ネタはそのシャリの美味しさとかみ合い一層うまみを引き立てる。寿司とはこんなにおいしいものだったのか。
「どんな勝負内容だったんだ?」
「それは秘密だ」
翔は残った二つのうち一つに手をかけた。俺は違うほうを取る。翔の食べ方を見ていると、どうやら寿司のネタの方を下にして口に入れているみたいだ。真似して食べることにした。すると今度はネタの美味しさが直接舌に届く。それを補助するようにシャリが活きている。食べ方ひとつで、結構差がある。俺はこのネタを下にして食べる方が好きだ。
「まぁ結果は知っての通り。死んじゃったからな。途中棄権されたんだ。だから俺の負け」
「いや、お前の不戦勝でしょ。話を聞く限りだとあいつの棄権負けだよ」
「違うな。俺が負けたんだ。だから俺は寿司をおごらないといけない。でももう、死なれたらおごりようがないだろ?墓場に寿司置いたらいい迷惑だ」
確かにそれはかなりの迷惑に違いない。墓石の前に寿司を置くこともすでに迷惑だが、外に寿司を放置していたら冬だとしても一日で腐る。二日目には目も当てられない光景になってしまう。
「だからな。代わりにお前におごるんだ」
「なんで、俺に?」
「それはいいだろ。そんなの気にしないで直己はこのうまい寿司食って、『うまい、うまい』言っていれば俺はもう満足なんだ」
翔はお茶をやけどしないように気を付けながら飲んだ。俺も飲もうと思ったけど、翔の顔から目が離せない。どうして翔は俺に代わりにおごろうと思ったのだろう。別に一人で寿司を食べに行けば、それだけで心の供養になったはずだ。墓石の横でスーパーで売っているような寿司でも食べるだけでもいい。そういうほうがあいつは喜んだかもしれない。少なくともこの場面になっているよりはましだ。
「おい、おっちゃん。なんで寿司捨ててるんだ?」
翔が大将に向かって突っ込みを入れているので、思わず視線を大将にうつした。大将は右手で、並べていた寿司を一つずつ握りつぶしては捨てていた。六個ぐらい並べていた寿司はすべてなくなり、まな板の上には包丁だけが置いてある。
「いやぁ。すまんな。坊やども。てっきり若いやつが遊びできたと勘違いしてた。本当にすまん。これからは本腰入れて握るからよぉ。『寿司』ってもんを食わしてやる」
「えっと。もしかして聴いてたんですか?」
「聴いてたんじゃねぇ。聞こえてたんだ。カウンターってのはどうも聞こえちまうんでな。まぁ気にするな。少し待ってろ。すぐ握る」
早速握り始めた寿司は、俺の目からはさっきと同じに見えた。変わったのは大将の顔つきぐらいだ。その真剣な表情は本当に真剣な顔つきだった。通夜の時のお坊さんでもあんな顔はしていなかった。今握られている寿司にはおいしいと言わなければならないだろう。それが嘘であろうと、さっきよりもうまいと言うべきだ。
目の前に差し出され、俺はその寿司を見つめる。やはり変わらない。大将はプロだ。俺らが子供であろうと、適当に握ったりはしないはずだ。味はどうせ大差ない。俺は寿司を一貫取って、醤油にワンバウンドさせて、口に入れた。
「大将。おいしいです」と翔が言った。俺は何も言えなかった。
単に絶句した。なんていうべきかわからなかった。さっきよりも段違いにおいしく感じてしまって、すぐに吐き出したくなった。体がこのおいしさに拒絶していた。
お茶を使って、俺は口の中のものを飲み干す。
「おいしいです」
嘘ではない。これはおいしいものだった。
「そうかい。じゃあ、どんどんくいねぇ」
大将は寿司をさらに握り、俺らの前に置いていく。もういつ吐き出してもおかしくないくらいだった。それを無表情の仮面で覆い隠して、俺はおいしそうに食べ続けた。地獄のような幸せな時間が一時間は続いた。
店が混み始めたあたりで、俺らは最後の寿司を食べた。会計をしようと、店の入り口に設置にされているレジの前に行く。このレジだけ、店の雰囲気に合っていない。コンビニに置いてあるのと同じような白いレジだからだ。茶色や、木目調にすれば統一感が出るだろう。
「9980円です」と先ほどと同じ仲居さんがレジに立って、代金を言う。最初に翔が告げた一万円とだいたい同じぐらいだ。大将はちゃんと計算して握ってくれていた。
「おいおい、ちょいと待ちなぁ」と大将がカウンター席の向こう側から声をあげた。カウンター席を回ってこちら側に来る。仲居さんをどかして、自らレジに立つ。
「五千円だ」
「いや、でも」とどかされた仲居さんが大将に言うが、大将は首を振った。
「なんでぃ。こいつは二人で一万円って言ったろ。だったら一人五千円だろうが」
「あの、でも二人いますから」
「てめぇは死んだ奴から金を取ろうってのか?いいから五千円だ」
大将は俺らに向き直って、手を伸ばしてお金を催促した。ここに来る間に手を拭いたのか、米粒一つもついていないきれいな手だった。その手に翔は一万円を載せた。
大将がレジを開いたあたりで、翔はレジの前を離れる。そのまま暖簾をくぐろうとしていた。
「待ちななって、五千円忘れているぜ」と大将が五千を片手にもって、翔を呼び止める。俺は完全に蚊帳の外だ。そもそも俺はさっき死人扱いされていた。あくまであいつの変わりなだけであって、俺は生きているし、しっかり寿司も食べた。
翔は片手で暖簾を押し上げなら、顔だけ振り返ってこっちにいる大将のほうを見る。
「死んだ奴の分、金をとれないと言うのなら、そいつは天国のあいつに渡してやってくれ」
翔はそういって完全に外に出る。
「へっ」と大将は笑った。粋な奴だとでも思っているのだろうか。俺はすぐに翔の後を追って、外に出る。翔は少し先に背を向けて歩いている。そのかっこつけている背中に俺は蹴りをいれた。
「お前は一休かよ」
トラを退治するからびょうぶから出してくれ。翔の発言はそれを彷彿させる。とんちをきかせて、かっこつけないで欲しい。見ているこっちが恥ずかしかった。
「大将が五千円まけてくれるっていうなら、素直に受け取ればよかったのに」
近くのうちにあの店に行くことはないだろう。普通にもらっても問題はなかった。
「たしかに、やべぇ。もったいないことした」と翔は慌てる。格好つけるのと、五千円を比べなおしたのだろう。だが、今更遅い。
「9980円なら20円のおつりがある。ちょっと取ってくる」
「行くな、馬鹿」
翔の腕をひっぱって、店に戻りかけている体を引き戻す。翔は恨めしそうな目を店に向けていた。無理やり引きずって店から離れる。
五千円よりも20円のほうが大切なのか。その気持ちが僅かにわかってしまう自分がどこかにいて、俺は嫌な気持ちになる。どろっという心から何か湧き出るような、崩れるような音が聞こえた。
もう暗くなった道を翔と二人で歩く。歩道と車道は白い線だけで区別され、俺は車道側を歩いていた。車の通りは少ないので危険ではないが、褒められたものではないだろう。
強い風が吹いて、近くの家の庭にある木が音を立てて騒ぎだした。ただ葉っぱ同士がこすれる音だけだが、どこか心細くなってくる。
しばらく歩いていると橋がある。小川に架けられた小さな橋だ。川沿いは緑道になっていて、先ほどとは大違いの音量で風が気を揺らす音がしている。緑道は街灯が等間隔に設置されているが、間隔が広いため、ところどころしか明るいところがなかった。翔は橋の真ん中で止まって、寄りかかるように川を眺め始めた。
「なぁ直己」
「なに?どうしたの?」
この橋を越えて、あと10分も歩けばもう家に着くだろう。翔はそうなる前に俺に何か話したいことがあるんだ。それこそ寿司をおごってでも話したい内容が。
「お前、なんで告別式出なかったんだ?」
橋の街灯は両端にしかついていない。川を覗き込む翔の顔は暗くてよく見えない。
「別にいいでしょ」
「まぁ。そうだな」
翔は依然として川を見ている。何か面白いものでもあるのだろうか。俺も橋の横に手をかけて、下を覗き込んでみた。水面が街灯に照らされ、きらきらと反射し光っている。きれいだとは思った。けれど二秒で飽きてしまう。
「直己、さっきの寿司うまかったか?」
「ああ、おいしかったよ」
味は最高だった。舌だけは満足したが、胃はどうやら違ったみたいだ。さっきからきゅるきゅると音がしている。正常な音ではないだろう。
「翔、さっきからどうしたの?何か、別に話したいことがあるんじゃないの?」
俺がそういうと、翔はこっちを向いた。風が一瞬吹いて、頭上の木が折れるのじゃないかと言うぐらいに曲がりくねる。がさがさとうるさい音が終わるまで俺らは見つめあっていた。木の音が終わると、自分の心音が聞こえるくらいあたりは静寂に包まれた。
「犯人って、もしかして、近くにいるのじゃないのか?」と翔が言った。
風が吹かないかなと思った。風が吹いて、あたりをうるさくして聞こえないふりをしたい。だが、一向に風は吹かないで、さらに続く翔の言葉は明瞭に俺の耳に入ってくる。
「たぶんだけど、俺は犯人は知り合いなんだと思う。近くにいて俺らをあざ笑っている気がするんだ」
もしかすると翔はあの刑事の端くれと自称した刑事にあったのかもしれない。そしてあいつの考えを真に受けてしまった可能性がある。あの刑事は俺以外に聞き込みしないと言った割には二木のもとにも行っていたし、翔のところにも行ったしてもおかしくない。
「あのへっぽこ刑事にあったの?」
「へっぽこ刑事?」と翔は聞き直してきた。
「そう、コロンボみたいななりした刑事で、どうしようもない推理をかましてきたやつなんだけど」
「どんな推理だったんだ?」
「それが、犯人は知り合いに潜んでいるかもって。そんなトンチンカンな推理」
翔はそれを聞いて、一言「俺の推理と同じだな」と言った。
あの刑事はどうしようもない人間だった。俺の話もろくに聞かない人だ。でも、翔の考えと一致しているのか。
「いろいろと調べてみたんだ。俺は別に二木みたいに犯人に憤慨しているわけでもない。かといって夏凪みたいに純粋に悲しんでいるわけでもない。どこか冷静に周りを見てしまっているんだ。そんなどこか冷静な頭で考えていたら、犯人は身近にいるとたどり着いてしまった」
冷静と翔は自分で言うが、俺には十分、悲しんでいると思う。そして二木と同じく怒ってもいると思う。バランスよく悲しんでいるんだけだ。
「直己、一応、一応でいいからアリバイを聞かせてくれ」
「じゃあ、翔のも聞かせてくれ」と俺は言う。
「必要ないだろ。俺は犯人じゃないから」
翔はそう真剣な顔つきで言ってくる。確かにそれはそうだ。自分が犯人かどうかなんて自分では判断できる。あいつが探偵を気取るなら自分のアリバイを誰かに話す必要はない。
「わかったよ。で、何時だったっけ?あいつが死んだのは」
「7時ごろ」と翔は即答する。
「テレビを見てたと思う」
「そうか。じゃあ何を見ていた?」
結構本格的に、そしてぐいぐいと訊いてくる。もしかすると警察に向いているのかもしれない。けれど、現状間違えてもいる。あの刑事によると犯人は同性だったはずだ。その情報を得ていないのか、推理がそこまで行っていないのだろう。
「それはそのときやっていた番組を見てたよ」
「具体的には?」
「覚えていないよ」
翔は一歩こちらに戻ってきた。その移動で、翔の顔が光に当たって見えた。歯がゆそうな顔をしていた。そして、溜息をしていた。
「じゃあ、わかった。もうこうしよう。俺はお前を疑いたくないから。一つだけ言ってくれ。お前が犯人なのか?」
それを聞いたらおしまいだろう。俺が犯人でも犯人じゃなくても、犯人じゃないと言うしかない。こんな訊き方をして犯人にたどり着くわけがない。
「ねぇ。翔。なんで俺を疑うの?」
「別に疑っているわけじゃない。ただ、お前が全然泣きもしないで、悲しそうにないし。告別式にも出ないから。犯人かもしれないと思ってしまうんだ」
それを世間では疑っていると言う。でもそうか。翔は俺が悲しんでいないからと言って疑っているのだろう。そんなに悲しむのは大事なことだろうか。俺に友達殺しの疑いをかけるぐらいに大事な要素なのだろうか。
「俺はあいつが死んで悲しいよ」
「なら、半笑いで言わないでくれ」
俺は思わず頬を手で触る。少しだけ頬筋が吊り上がっていた。力強くもんで、筋肉の緊張をほぐす。無表情に戻ったと手で確認してからもう一回同じことを言う。
「俺はあいつが死んで悲しいよ」
リテイクには何も言われなかった。翔はそのまま会話を続ける。
「本当に悲しいのか?」
「悲しい」
「じゃあ、なんで『あいつ』呼ばわりなんだ?」
車が一台通った。早いスピードで通り抜け、エンジンの音と車が押しのけて作り出された風の音が鼓膜を揺らす。現実に引き戻されるような轟音。木々の音でできた恐怖心など軽く吹き飛ばすようだ。
「別に何と呼んでもいいでしょ」と軽い調子で言えた。
「おまえなぁ。あいつをあいつ呼ばわりすんなよ」
「翔も『あいつ』って呼んでるじゃん」
翔もあの車で現実に引き返したのだろう。いつものふざけた様子になっている。さっきの流れに戻らないように、俺は風船のように軽く言葉を投げる。
「さっさと帰ろうよ。ちょっと寒しい」
「先に帰っていいよ。俺はまだ川を見てるから」
「そう?じゃあ帰るね」と俺は翔の横を抜けた。呼び止められもしない。だから振り返ることもしなかった。どうせ翔も俺の方を振り返ってみてもないだろう。俺と逆の方向を見続けているに違いない。
後ろから、泣いている声が聞こえた気がした。でも気のせいだろう。すでに風が吹いて、木々が揺れる音だけしかしていない。翔が一人きりで泣いているなんて、俺といるときずっと我慢していたなんてそんなことはない。そして翔が俺を疑っているなんてこともきっとない。




