~21~
結局昼前まで来ても父親が釣れることはなかった。俺もあの一匹だけで、あれから釣れなかった。そろそろおなかも空いてきたので帰ることにする。釣った魚は一キロごとに百円引きになるサービスがあるらしい。だが一匹だと一キロもあるわけがない。あって200gぐらいだ。
プールにかけてあった網から鯉をだしてあげた。俺の方も振り返らずにすぐに下にもぐり消えて行ってしまった。
たも網や少し散らかった餌などを片付けている間に父親が受付の方に行った。会計をしているのだろう。一時間いくらか知らないが、少し気分転換になった。もし安くてここが自転車に来れる近場にあったら新しい趣味になっただろう。
片付けがすべて終わって、入り口の方に向かう。水道があったので念入りに手を洗った。手が練り餌臭い。五回ぐらい石鹸で洗うとようやく匂いがしなくなった。体ももしかすると匂いがついているかもしれない。家に帰ったら夏凪の家に行く前に着替えなければならないだろう。
受付に誰もいなかったので、車の方に行く。父親は車に寄りかかって煙草を吸っていた。
「煙草はやめたんじゃないの?」
「たまにはいいだろ」と言って燻ぶらせる。俺は煙草をみると渡西を思い出してしまう。見ないようにして助手席に回り、ドアを開ける。熱気が噴き出してくるようだ。我慢して中に入る。クーラーが強になって風がうるさく噴き出していた。
今日もまだ残暑が強い日だった。
帰る途中にラーメン屋によって二人でラーメンをすすった。俺は約束通りチャーシューメンに味玉つきだ。父親は普通のラーメンを頼んでいた。
釣りの時でもそうだが、ラーメン屋でも俺は変に気を使われていた。親が子供に気を遣うのはそんなに珍しい光景ではないかもしれない。子供が反抗期に入ったなら、親は全力で気を使ってくるだろう。だが、今回の感じは少し違った。
親と言うのは俺の味方だと思う。俺がどうなっても味方になってくれる。それは親子だからだ。俺の人間性を評価したわけではない。そもそも評価する立場にいない。それよりは親は俺を作った側の存在だ。体も性格も影響を与え、作ったと言ってもそこまで過言ではない。だから親は味方をしてくれる。
釣りのときもラーメンの時も会話が少なかった。俺に気を使ってあまり話しかけてこなかった。でも、本当にそうだろうか。本当は俺にどうやって話しかけれいいか、わからなかったのではないか。
俺は親と少し距離を感じた。
家に帰ってから、軽くシャワーを浴びた。新しい服に着替える。時刻は14時を少し超えたあたりだ。そろそろ夏凪の家までカバンを取りにいこうと思った。手ぶらのまま家を出る。
昨日は夏凪を放置して、そのまま帰ってしまった。一応そのことも謝るべきだろう。あまりそのことにいい印象は持たれてないはずだ。
夏凪の家の前に茶色いコートを着ている人物がいた。電信柱に寄りかかって、夏凪の家の方をちらちらと覗き見ている。見るからに怪しいその人物は俺の存在に気づき、目が合うと近づいてきた。
「まぁた会いましたねぇ。昨日ぶりですかぁ。今日も夏凪さんの家にご用事で?」
よれよれの汚いコートを揺らしながら、こっちに歩いてくる。この人はいつでも同じ格好だ。汚いのはもう見るからに当たり前だが、暑くはないのだろうか。見ているこっちが暑くなりそうだ。
「そうですが。渡西さんもまた警護ですか?」
「いやぁ。今日はちょっと違いまして」
渡西は俺の前を左右にゆっくりと往復する。なにか俺に言おうとして言葉をまとめているのだろう。だがどうせどうでもいいことだろう。渡西はほっておいて俺は夏凪の家に向かいたかった。
渡西越しに夏凪の家を見る。昨日と変わった様子はない。風が吹いたのか二階のカーテンが揺れている。窓を開けているのだろう。まだ秋になりかけだから、開けていても別に変ではない。
渡西が俺の真ん前で止まった。そして俺の目を見て言う。
「そうさなぁ。犯人がねぇ。ようやく一人に決定しまして。えぇ。もちろん私の中でだけですが。それで待っていたんでさぁ」
「そうですか。じゃあ。このへんで」と俺は軽い会釈をして横を通って去ろうとする。だが俺の前に手を出して渡西は俺を止めた。コートがバサッと音が鳴った。めくれた左手に結婚指輪が光っていた。こんな人でも一緒にいてくれる人がいるんだろう。だがおそらくこの人の奥さんはもう後悔していることだろう。
「犯人っていうのはねぇ。何を隠そうあなたなんですよ。だからこの先に行かせることはできませんねぇ」
「はぁ。そうですか」
俺は足を止めて渡西に向き直る。俺のことを犯人扱いするのはもう慣れてきた。しかし昨日普通にこの道を通しておいて、今日は行くのを止めるのか。この人は本当にどうしようもない人だ。警察にいるべきじゃないだろう。
「やっぱ初心に帰りましてねぇ。あなたが全然悲しんでないのは不自然だと思いまして」
「人が死んだら悲しまないといけないと法律でありますか?憲法に書いてあるのか」
「決まりは、ないですけどねぇ。でもおかしくないですかね。普通は悲しむもんなんですよ。なんであんたは悲しまないんですかねぇ?親友だったんでしょう?」
「別にいいだろ。俺の自由だ」
悲しんでいないと言うことが、そんなに大事なのだろうか。もし悲しんでないことが犯人に直結するなら、渡西だって悲しんでいないから犯人になるだろう。告別式に出てた人でも悲しんでいない人がいた。その人はどうなるのだろう。そもそも渡西の推理や情報などでは俺は犯人じゃないとなっていたはずだ。
「悲しんでいないことは、例えばアリバイとか動機とか、他にもトイレだからどうのこうのとかよりも重要な証拠なのか?」と訊いてみた。渡西は考え直すかもしれないと思ったからだ。だが渡西は頷いた。
「そうさぁ。お前にはアリバイもある。動機もあるかどうかもわからん。だがなぁ。悲しんでいないのは確実に犯人の要素だ」
「じゃあ、渡西は悲しんでいるのか?」
「あっしはべつに悲しくない」
「じゃあ、渡西も容疑者の一人だね」
論理的な反撃だ。だが渡西は当たり前のように
「それは違う」と言った。
「なんで?」
「悲しまないといけない人じゃないんでね」
その言い方だと、渡西は悲しみを義務とでも言いたいのだろうか。それで悲しんでいない人は間違いであり、犯人につながるとでも。これは前に夏凪と話したマナーに似ている気がした。マナーはそのマナーと言うルールをできていない人をさらし者にするためにある。
結局のところ悲しみもマナーなのだろう。だからそれができてない人は社会からつまはじきにされる。犯人ということになって。
「なにそれ。悲しまないといけない人じゃない?じゃあどこまでが悲しまないといけない人で、どこまでが悲しまなくてもいい人なの?その線引きは?」
マナーならきっちりと決まっているはずだ。例えば「二等親までは悲しまないといけない」や、「1000日以上あった人は悲しまないといけない」など、そういったきちんとした線引きがあるはずだ。
「それはわからん」と渡西は言った。
「じゃあ、俺が別に悲し」
「だが。お前の周りの人は皆、どいつも悲しんでいる。そうだろ?仲良し五人組、一人おっちんで、今は四人。お前はそこにいるんだろう?」
俺は何も言い返せなかった。
渡西の言い分の方が正しく聞こえた。まぁでもそれは俺もわかっていたことだ。俺自身、俺が悲しんでいないことを悪いことだと思っている。
だが、やはり悲しんでいないことがアリバイなどよりも重要視するのは間違いだろう。感情が証拠よりも重きを置くはずがない。そうであって欲しくない。
そのとき右横からジャリっと音が聞こえた。小石をつっかけで踏んだような音だった。右横は夏凪の家があるほうだ。少し荒い息遣いも聞こえる。まるで走ってきたみたいな息遣いだ。俺はその音がする方を振り向けなかった。
「な、なんで。ストーカーとはなしているの?」
戸惑ったような声は夏凪の声によく似ていた。俺は体が棒になってしまったかのように、すべての四肢はおろか首も動かすことができなくなっていた。渡西は少し動揺したようだったが、懐からこげ茶色の四角いものを取り出した。そしてそれを開いて中身を右側に見せていた。かなり前に見たことがあるあれは警察手帳だ。金色のエンブレムが光を反射してまばゆく見えた。
「いやぁ。私はストーカーではありません。捜査一課で警部をやっています。渡西です」
渡西はしっかりとした口調で夏凪に言う。
「そうだったんですか」と少し驚いた口調の夏凪らしき声が俺の右側の鼓膜を揺らす。
俺も驚いた。警部と今聞こえたが、ほんとだろうか警部ってかなり偉いとどっかで聞いたことがある。どうせこのなりだ、ノンキャリアだろう。だがそうなるとこの人は数パーセントぐらいの出世レースに勝っていることになる。
どうせはったりだろう。でもそういえば、この人は俺の父親も佐賀先生も見抜けなかった俺の本性を見破っている。悲しんでいないという腐った本性を。
「夏凪さん。少し離れてください」と言って渡西は夏凪の方に行って、俺の視界から消えた。俺はただ渡西の後ろにあった電信柱を見るしかなくなる。そして右横から声がする。
「こいつは犯人です。今近づいたら殺されるかもしれません」
そう夏凪に言ってしまった。そんなのことを言っては駄目だろう。そんなことを言ったら夏凪がどう思うか、俺がどう思われるのかわからないのか。推測だけで俺の周りを巻き込んで欲しくない。
「えっ?直己が犯人?そんなわけないでしょ?」
「いいや、現状犯人に一番近いと思われます。夏凪さんも今近づくと殺される可能性があります」
渡西の張りつめた声が聞こえてきた。夏凪という守らなければならない対象が来たことで緊張しているのかもしれない。まるで立てこもり犯に投降を勧めるような、おびえつつも強気な声だ。
「ほんとうに?」
夏凪の声は渡西の張りつめたような声とは全然違った。渡西が熱だとすれば夏凪は冷えた声だ。透明で無色な感じ、温度がないような声だった。
「はい」
「どうして?」
「それは」
だめだ。それ以上は言わせてはいけない。だが俺はどうすることもできなかった。誰もいない風景を眺めるしかできない。隣にいる二人の会話を聴くことしかできない。渡西は続きを言ってしまった。
「直己くんは悲しんでいないからです」
夏凪は何か言っただろうか。息をのんだりしたのだろうか。それとも今、驚いた顔をしているのだろうか。俺のことを、俺のことを疑ってはないだろうか。渡西の言葉を信じてしまって、俺を嫌いになってはいないだろうか。
「だから直己が犯人なんですか?」
「ええ。ですが確実ではないです。証拠さえあれば。こいつが悲しんでない証拠さえあれば」
「か、かなしんでない証拠」
せめて俺が犯人じゃないと言わなければ。夏凪にそう言わなければ。金縛りにあったかのような体に無理やり力を入れる。首を動かそうとすると、少しずつだけど動いた。びくびくと振動しながら夏凪たちの方を見る。俺から4mぐらい離れたところに二人はいた。渡西が夏凪より前に出ていて、右手を横に出している。その右手の奥に夏凪が居た。腕の後ろからこっちを見ている。
夏凪は俺を見ている。驚いた様子だった。何をそんなに驚いているのだろう。俺が犯人じゃないって昨日夏凪自身が言っていたのに。やっぱり渡西なんかの言葉に騙されてしまっているのか。
夏凪はずっと悲しんでいたし、俺は夏凪の前では悲しんでいるふりをしていた。それなのに渡西がちょっと言っただけで、嘘だとばれてしまわないといけないのか。なんでそんな顔して俺を見られなければならないのだろう。夏凪の顔はまるで俺が犯人だと確信しているみたいだった。
風が吹いた。俺らの間に吹き抜ける。夏凪の下から紙がこすれる音が聞こえた。俺はゆっくりと視線を下にずらした。そこにあったのは赤と青の文字が並んだ切り取ったノートの一ページ。赤と青が交互に並んで最後だけ黒い文字で書かれている。俺と夏凪が国語の授業中手紙みたいに書きあったものだ。そういえば俺のカバンに入れたままだった。夏凪に見せるつもりもなかったが、カバンを夏凪の家に置きっぱなしにしたせいで見られてしまったのだろう。
俺はもう一回視線を上にずらしてみた。夏凪と目が合う。するとすぐに夏凪は俺の視線から逃れるように目を伏せた。
最後の文字を読んでしまったのだろう。そこにあるのは俺の本心だ。ここからでは読めないけれど、書いたのは俺だからもちろん覚えている。
「本当は悲しくはない」と俺は書いた。
「ち、違う」と俺は弁解するように言う。何も違わないのに嘘を重ねる。
「もう」と夏凪は言った。「もう信じられないよ」と。
夏凪は後ろを向いた。長い髪をたなびかせながら、背を向けて家に向かって走る。俺は渡西の腕越しに、小さくなっていくその後ろ姿を目で追いかけることしかできなかった。夏凪は乱暴に扉を開けて、家の中に入ってしまった。中から急いで引いたのか、扉が早く締まりバンッという音が聞こえてきた。その音を最後にあたりは静まり返った。
もう開くことはないだろうが、それでも俺はその扉を見つづけていた。
「悲しんでない証拠ってやつを探さないとなぁ。さすがに言葉だけでは裁判では勝てねぇ。もしかたしたらひょっこり確実な証拠が手に入るかもしれんしなぁ」と渡西が腕を下げながら言う。扉までの間に遮るものがなくなった。正面に見据えている扉ははるか遠く、そして重くて冷たいような感じがした。
「どうした扉を見続けて、なにかあったんかぁ?」
「いい加減にしてくれ。もう、俺の前から消えてくれ」
「まぁ自業自得ってことだ」と言い残し渡西は去った。
俺は夏凪の家の扉を見続けていた。どうしてこうなってしまったのだろう。悲しんでなかったからだろうか。じゃあなんで俺はこういう風になってしまったのだろう。いや原因はわかっている。でもそれはもうどうでもいいことだった。俺は今夏凪に嫌われたこと、もはや軽蔑されたであろうことが、どうしようもなくつらかった。
風がまた吹いた。その柔い風を全身に受けると俺は胸が痛くなった。締め付けられるような嫌悪感を覚える。さらさらと俺の腐敗して崩れた心のかけらを、風が奪い去っていくようなそんな切ない感じもした。




