人の噂は蜜の味
なんとか助かった。
会議室に飛び込み、耕作は胸をなでおろした。
ミーティングはまだ始まっていなかった。
追ってくる人もいない。
室内にいる社員達は、耕作の汗にまみれた姿を見て驚いていた。
彼はそれに対して、
「遅刻するかと思った」
などと言ってごまかしている。
社員達が呆れ、苦笑を浮かべたのを見て、耕作はホッとしていた。
どうやら納得してくれたようだ。
とりあえずは、めでたしめでたし。
……当然ながら世の中、そう上手くいくものではない。
落ち着いて考えれば、すぐに分かることだ。
騒動の場にいた人々は、耕作を見失ったとなれば、すぐ静音に話を聞くはずである。
彼女が説明すれば、耕作の身元などあっという間に判明するだろう。
という訳で彼は、ミーティングが終わるなり上司、つまり課長に呼び出される羽目となっていた。
――――――
課長と二人きりで話を続けること、数十分。
耕作はようやく解放された。
オフィスに戻ると、自分の席でへたり込んでしまう。
同僚にも、既にあるていど噂が広まっているらしい。
彼らは興味津々といった目で、耕作を見ていた。
もっとも多くの者は、詳しく話を聞きたいと思いつつも、さすがにためらわれる、という態度をとっていたが。
ところが中には、遠慮なく話しかけてくる者もいる。
良太だ。
彼は耕作に、苦笑まじりの声をかけた。
「大変だったな、色男」
「……それはひょっとして俺のことか」
「色男が嫌なら、プレイボーイでもいいぞ」
「それもいらん」
そんな呼ばれ方をされるのは、心外だ。
と、耕作は拗ねた口ぶりで抗議した。
良太は、できの悪い生徒のひどすぎる答案を見た教師のように、唇をへの字にし、眉間に皺をよせた。
銀縁メガネに手を添えると、友人に自覚を促すべく、話し出す。
「耕作。今現在、おまえが周りからどう見られているのか。分かっているか」
「浅学非才の身なれば、とんと分りませぬ。ご教授お願い致します」
ヤケクソ気味な心情を時代がかった台詞に込め、耕作は返答する。
良太は、こちらも大仰に頷きつつ、
「よかろう」
と言って、説明を始めた。
耕作は先日、トラックに轢かれそうになった静音を、颯爽と助けだした。
しかもその後、二人で手に手を取り合い、何処かへと去っている。
そして今日。
耕作は偶然、静音と遭遇した。
すると彼女は喜びのあまり、大声で泣きだしてしまった。
それなのに耕作は、泣いてすがる彼女を振り切り、逃げるようにしてその場から立ち去っている。
これらの出来事を、真っ当に解釈すると。
耕作は事故を契機として静音と恋仲になりながら、早くも彼女を捨てようとしている。
そのようにしか見えない。
と、良太は結論づけた。
話を聞き終え、耕作は肩を落とす。
やはりそうか。
というのが、彼の心情であった。
分かってはいたのだ。
良太に言われるまでもない。
耕作にも、周りからそう見られているという自覚はあった。
それに、つい先ほどまで話をしていた課長も、同じ見解を持っていたのだ。
課長は男性で、四十路になったばかりである。
だが頭髪にはすでに白いものが目立ち、年齢よりも老けて見えた。
入社以来、今日に至るまで無遅刻無欠勤。
仕事においても、特筆すべき功績はないが失敗もほとんどない、安定した手腕を見せている。
浮いた噂なども、聞いたことがない。
その真面目な課長にしてからが、
「男女の間には色々あるだろう。それについては四の五の言うつもりはない。しかし、公私の区別はつけるように」
と、耕作と静音が付き合っているという前提で話を進めてきたのだ。
耕作も黙っていた訳ではない。
きっぱりと、
「事故が切っ掛けで親しくはなりましたが、恋人という訳ではありません」
と答えている。
しかし課長は、全く信用していないのか、渋い顔を見せていた。
その後も静音との関係や今回の騒動について、様々に質問し、苦言を呈している。
ただし、声を荒げたりはしていない。
大人の態度を示したというよりは、打算が働いたのかもしれない。
耕作が将来、静音と結ばれるようなことにでもなれば、間違いなく自分よりも上の役職に就くだろう。
だとすれば、ここで悪印象を持たれるのは得策ではない。
という訳である。
そんな考えを抱かれても、耕作としてはうんざりするだけであったが。
ただ残念なことに、耕作の同僚たちも、多かれ少なかれ似たような考えを持っていた。
良太などは、その筆頭と言えよう。
なにしろ自分も便乗し、出世させてもらおうと企んでいるぐらいなのだ。
彼は友人と静音を結ばせるべく、親身になって相談に乗ろうとした。
「で、河原崎さんになんの不満があるんだ。美人で金持ちで、非の打ちどころがないだろ」
「不満というか、別に付き合っている訳じゃない」
耕作は、再び交際を否定した。
さらに、
「友人であり、色々相談に乗ってもらってもいるが、恋人ではない」
ということを、天使だの悪魔だのと言った話せない事柄は伏せながらも、納得してもらえるように説明している。
しかし話を聞き終わっても、良太は釈然としない様子であった。
課長よりは耕作を信じているようではあったが、それでも半信半疑と言った感じである。
耕作は考える。
静音はあれから、どうしているのだろうか。
しばらく距離を置かれ、偶然再会したかと思ったら、急に幼馴染の人格が現れ、感激し、泣き出したのだ。
尋常な事態ではない。
悪魔が現れたことも含め、一連の出来事には、なにかしらの理由があるはずだ。
単純に彼女が心配ということもある。
会って、話をしたい。
しかし社内の様子を見る限り、彼女とは、社員の目がある場所では会わないようにした方が良いだろう。
これ以上、二人が交際しているだの、痴話喧嘩しているだのと言った噂が広まるのは、避けなければならない。
時間と場所を考える必要がある。
――――――
その日の夕刻。
耕作は仕事を終えると、良太と連れ立ってオフィスを出た。
廊下を進み、エレベーターに乗り込む。
一階に到着すると、正面玄関に向かって再び歩き続けた。
そして社員用のゲートを通過し、ロビーに出たところで。
広大な空間に響き渡る、溌剌として澄んだ声を、耕作は聞いた。
「こーくん!」
ロビーにいた多くの人々の視線が、一点に注がれる。
そこには、黒いパンツスーツを着た素晴らしい美女がいて、ちぎれんばかりに手を振っていた。
彼女の目と声は、ただ耕作にのみ向けられている。
唖然呆然。
耕作は表情の選択に困り、その場で立ち尽くした。
隣にいる良太も、口を開け、呆気にとられた様子だった。
だが彼は、やがて肩をすくめると、首を横に振った。
友人の肩を軽く叩き、しみじみとした声をかける。
「じゃあ後は若い二人に任せて、邪魔者は退散させてもらうわ」
「おい、ちょっと待て」
耕作が呼び止めたが、良太はさっさとどこかへ行ってしまった。
代わりに静音が、軽やかな足取りで、耕作の元へと駆け寄ってくる。
人垣が自然に割れて、二人をつなぐかのように道を作り出した。
鮮やかな光景と、静音の笑顔を見て。
耕作はしかし、天を仰いでいた。




