誤算、のち帰還 二
「……へ?」
耕作は、間の抜けた声を上げていた。
彼にとって静音の言葉は、予想外どころか理解不能なものだったのだ。
目の前の女性が静音ということは、もちろん知っている。
疑う余地もない。
それに会いたかったと言われても、顔を合わせなくなってから、まだ十日しかたっていない。
静音にしてみれば、十分に長い期間なのかもしれないが。
自分の感動に耕作が同調していないことを、静音も気づいたらしい。
耕作の両腕を掴み、必死になって呼びかけてきた。
「こーくん、思い出して!」
異常な様子を見て、周りにいる人々が、静音に心配気な声をかける。
しかし彼女は、それらの人々には見向きもしない。
ただ耕作だけを見つめ、懇願を続けていた。
他方、耕作はというと。
静音の訴えを聞き、ますます混乱してしまっていた。
彼女が今、自分になにかしらの助けを求めているのは、分かっている。
とは言っても、どうすれば良いのであろうか。
周囲の人々は、静音だけでなく耕作にも、何が起きているのかと問いかけてくる。
中には静音に何をしでかしたんだと、恫喝まがいの言葉をかける者もいた。
おまけに騒ぎを聞きつけたのか、野次馬も次々に集まっていた。
厄介なことになってきた。
とにかくまず、静音を落ち着かせなくてはならない。
場所を移動し、救急車を呼んで、専門家に診てもらった方が良いだろう。
と、耕作は考えた。
しかし彼が行動を始めるよりも早く。
先にも勝る勢いで、静音が耕作に呼びかけた。
「こーくん!」
その必死な叫び声を聞いた時。
耕作の脳裏に、一つの疑問が浮かんだ。
先ほどから静音が繰り返している、「こーくん」という呼び名。
耕作が覚えている限り、その名で彼を呼ぶのは、亡くなった母、一人だけのはずだったのだ。
わずかに記憶に残っている母は、暖かく優しい声で、いつも「こーくん」と呼びかけてきた。
静音がなぜ、その呼び名を繰り返しているのだろうか。
彼女の身体に、母の魂が宿ったのだろうか。
いくら天使や悪魔と言えども、そんな悪趣味で無意味なことをするとは思えないが。
それに静音は今も、自分のことを「静音」と言っている。
それなのに、なぜ。
考える耕作の、視線が静音のそれと重なった。
黒く深く、そして澄んだ瞳が、耕作を見つめている。
そこには、己の全生命をかけて哀願する、彼女の切迫した感情が、涙となって現れていた。
涙はきらめき、光となり、耕作の内へと飛び込む。
そして彼の心を、一直線に貫いた。
刹那。
耕作は、思い出す。
自分を「こーくん」と呼んだ人物が、もう一人いたことを。
それは遠い遠い昔。
耕作がまだ、小学生にもなっていなかった頃のことだ。
当時、彼が住んでいた家の近くには、小さな公園があった。
ブランコと砂場だけが設けられたその公園で、彼は同い年の少女と、よく遊んでいた。
二人はとても仲が良かった。
子供同士でありながら、一度も喧嘩をしなかった。
おままごとでは、当然のように夫婦役を演じていた。
毎日のように顔を合わせていた。
将来もずっと傍にいるはずだと、お互いに思っていたかもしれない。
その少女は、黒く長い髪をしていた。
丸い瞳も、同じように黒かった。
幼いながらも目鼻立ちがはっきりしていて、人目を惹く、可愛らしい女の子だった。
あの子の名は、確か――
「……しーちゃん?」
耕作が、静音に呼びかけた。
その言葉の効果は、絶大であった。
静音の表情が、一瞬にして変化する。
切羽詰まった泣き顔から、太陽を思わせる、輝かんばかりの笑顔へと。
目に浮かべた涙も、悲しみによるものから喜びによるものへと、種類を変えていた。
彼女は耕作に向け、美しい声を、これ以上ないくらいに張り上げ、答える。
「はい、しーちゃんです! 思い出してくれたんですね、こーくん!」
爆発した感情のおもむくままに。
静音は耕作へ抱きついた。
「嬉しい!」
力いっぱい耕作を抱きしめる。
両目から大粒の涙を流すと、喜びのあまり、そのまま泣き崩れてしまった。
耕作の胸に、ミーコよりもはるかに豊かな双丘が押し付けられる。
得も言われぬ柔らかさに、耕作は男の欲求を直撃され、慌てふためいた。
全身にも、成熟した女性の肢体が絡みついてくる。
布地ごしでも十分に感じられる柔肌の心地よさと、鼻腔に飛び込んでくる芳香には、耕作は抗えなかった。
頭はまだ、混乱している。
にもかかわらず、身体は急激に興奮を増していた。
両手が無意識のうちに、静音を抱き返すため、動き始めている。
周囲にいる人々が、どよめきにも似た声を上げた。
その声を聞き、耕作は我に返る。
自分と静音に向けられた数多くの視線に、彼は今更ながら気がついた。
肌に棘が刺さるような感覚があった。
耕作に向けられた視線には、驚愕だけでなく嫉妬や怒りにも似た感情が含まれていたのだ。
それによって視線は槍と化し、耕作を突き刺してくるのである。
理由ははっきりしている。
多くの男性社員にとって高嶺の花だった令嬢が、どこの馬の骨とも分からない男に抱き付き、今は泣きじゃくっているのだ。
耕作は、自分が極めてまずい状況にいることに気づいた。
彼にも、静音に何が起きているのかは分からない。
しかし周囲の人々は、全責任が耕作にあると思っているだろう。
このままでは、つるし上げを喰らうのは必定である。
今の状況を説明するにしても、
「静音さんはこの前まで天使でしたが、今は俺の幼馴染になっています。俺と再会して、喜んでくれているみたいです」
などと言えるはずもない。
従って耕作としては、彼らに捕まったり、追及されたりする訳には行かない。
どうやってこの場をごまかせば良いだろうか。
しかし耕作には、考える時間すら与えられなかった。
一人の女性社員が耕作をまじまじと見つめた後、呟いたのだ。
「あら? そう言えば貴方、先日も……」
その女性は、静音が事故にあった時も現場に居合わせたのだろう。
そのため、耕作を覚えていたのだ。
女性は周囲の人々へ、何やら説明を始めていた。
考えている場合じゃない。
静音のことは心配だが、やむを得ない。
三十六計、逃げるに如かず。
耕作は決断した。
泣きじゃくる静音の肩に手を置き、身体を引きはがす。
耕作から離されて、静音は泣き声を抑えた。
涙で濡れそぼった顔を、耕作へ向ける。
そして心の底から安心した、晴れやかな笑みを浮かべた。
「こーくん……」
静音の笑顔を見て、耕作の胸に刺すような痛みが走る。
それでも彼は、白々しいばかりに平静を装った態度と声で語りかけた。
「良かった。静音さん、もう大丈夫なようですね」
「え?」
「皆さん、あとはよろしくお願いします。俺はミーティングがありますので、それでは」
言うが早いか。
立ち上って後ろを向き、脱兎のごとく駆けだした。
階段を目指して、全力で走り続ける。
「え……。待って、こーくん!」
背後から、静音の叫び声が聞こえてくる。
しかし耕作は耳を貸すことなく、階段ロビーに飛び込んだ。
速度をゆるめることなく、階段を駆け下りる。
あまりの勢いに、すれ違う人々が皆、奇異の視線を向けてくる。
それらの人々も無視して、耕作はただひたすら階下へと向かっていった。




