第1章 望みは、ひとつ 2
春の午後の柔らかな日差しが、王立中央学院の中庭に広がる芝生に降り注いでいた。
昼食を終えたミーシャは、日溜まりの中で、大きく伸びをすると、傍らで寝そべって本を読んでいる少年を見下ろした。
少年の名前は、マーティン・オルコットといった。
彼の外見は、どちらかといえば、地味な方だった。
ひょろりと背の高かったが、いつも猫背なので、目立たなかったし、装いにも無頓着だった。
貴族の少年達の間で流行っているシルクを使ったジャケットなどの高価な衣類を身につけておらず、大抵、着古した青いシャツを着ていた。
また、暑がりなので、上着を着ることは、ほとんどなかった。
薄茶色の髪は、ひどく癖毛で、短く切られていても、縦横無尽に彼の頭を跳ねまわっていた。
その上、彼は、いつも眼鏡を掛けていた。
ビンの底みたいに厚ぼったい眼鏡は、彼の印象をますます地味に仕立て上げていた。
マーティンが、王都にある10年制の中央学院に中途入学してきたのは、2年前である。
王都から遠く離れた地方から出てきた少年は、教授の舌を巻くほど、優秀だったので、同級生達からは一目置かれていた。
しかし、愛想の悪い田舎領主の三男にわざわざ話しかける人間は、数えるくらいしかいないだろう。
大貴族マルケウス家の娘であるミーシャも本来なら、言葉を交わすような相手ではなかったが、去年受講した神学の授業で出会って以来、なんとなく一緒にいるようになった。
マーティンは、無愛想な少年だったが、とにかく神話の知識が豊富だったので、神々の名前を一つも挙げることができない他の同級生と話すよりもずっと面白かった。
少年の頭についたタンポポの綿毛を取ってやりながら、ミーシャは、いつもように神話について喋り始めた。
「森の神アロンは、木陰で眠っていた聖女エルサにこっそりキスをしたのよ。叶わない恋だと知っていても、彼は自分の気持ちを抑えることができなかったの。」
「まったく、神って連中は、ろくでもないね。」
むっとしたミーシャは、顔も上げない少年の手から本を奪った。
「どうして、そんな言い方するの。」
少年は、読書を邪魔されて不愉快そうだったが、やっとミーシャの方を向いた。
「僕が言いたいのは、アロンには、理性ってものがないのかってことだよ。」
「リセイ?」
ミーシャは、耳慣れない単語に首を傾げた。
「人間の持つ感情や欲望を抑える能力だよ。」
「それなら。アロンは、神だから、リセイを持っていなくて当たり前じゃない。」
「そんな神々を君は尊敬できるのかい。」
マーティンは、彼らしい皮肉たっぷりな口調で言った。
「できるわ。自分の気持ちに正直なことって、素敵よね。」
「素敵ね。それで、君の素敵なアロンは、何をしてたんだい?」
マーティンは、小馬鹿にしたように鼻で笑うと、顔をミーシャの方へ傾けた。
ミーシャは、少し躊躇ったが、口を開いた。
結局のところ、彼女は、誰かに打ち明けたかったのだ。
信頼できる誰かに。
「昨夜、眠っている姉様にキスしていたわ。」
マーティンの瞳が、わずかに揺れたように見えた。
いつも冷静に見えるマーティンもこの類の話には、免疫がないようだ。
ミーシャは、急に勢いづいた。
「ね、キスしたことある?もちろん、くちびるよ。」
「ないよ。」
マーティンは、顔を背けながら、答えた。
「私もないの。」
「僕らの年だったら、普通なんじゃない。」
マーティンの隣に寝そべったミーシャは、頬づえをつきながら、マーティンの横顔を覗きこんだ。
灰色がかった空色の瞳で見つめられたマーティンは、少し居心地悪そうに体をずらした。
「キスするなよ。」
心底迷惑そうに言ったマーティンを見つめながら、ミーシャは、くすりと笑った。
「なんで、考えていることが分かるの?」
「顔に全部書いてあるよ。」
一瞬きょとんとした後で、今度はふさぎこんでしまった少女をマーティンは、鬱陶しげに見た。
ミーシャの機嫌は、ころころ変わる。
「ねえ、ユリウスは、私と結婚するのかしら。」
気分屋のミーシャが急に話題を変えても、マーティンは、さほど驚かなかった。
「ユリウス・ラッカは、マルケウス家の聖騎士だろう。君の姉さんが巫女になって、君が成人したら、いずれそうなるだろうね。」
マーティンは、すらすらと答えた。
「私を愛してなくても?」
「うん。」
「姉様のことを愛していても?」
「うん。」
「それは、リセイ?」
深く考える性質ではなくせに時々嫌なところをついてくる。
マーティンは、思わず顔をしかめた後、唸るように答えた。
「そういう使い方もある。」
「やっぱりくだらないわ。」
ミーシャは、忌々しげに言った。
「客観的には、そうなった方が幸せになれるよ。」
何事においても考えなしの少女に自分の言葉を否定されたような気がしたマーティンは、少しムッとしたように反論した。
「でも、ユリウスが幸せじゃないわ。」
年頃の少女らしい感傷的なため息をつきながら、ミーシャは、呟いた。
「君は、彼のことが好きだし、姉さんは、巫女になりたいと願っている。君と姉さんが幸せならば、彼は満足なんじゃないか。」
「男の人って、いつもそうね。」
ミーシャは、つまならそうに言うと、立ち上がった。
中庭の日時計を見ると、そろそろ午後の授業が始まる頃であった。
「午後一番の授業があるから、先に行くわ。」
マーティンも立ち上がると、服についた草を払い落した。
「僕は、もう授業ないから帰る。」
素っ気なく言うと、マーティンは、背を向けて歩き出した。
「午後の授業ないのに一緒にお昼食べてくれたの?」
ミーシャは、ひょろりとしたマーティンの背中を見上げながら、瞬きした。
「暗くて狭い寮に帰って本を読むより中庭で君と一緒にいる方がいいと思ったんだ。」
「それはリセイ?」
ミーシャが、大声で尋ねると、マーティンは、驚いたように振り返った。
「違うと思う。」
眼鏡の奥にある緑色の瞳が、笑ったように見えたので、ミーシャは満足した。
王立中央学院
ムトスの王都アースにある10年制の学校・主に貴族の子息が通う
マーティン・オルコット
地方領主の伯爵家の三男・15歳
エルサ
神々の時代に地上にいた数少ない人間の一人・聖女