僕の役割
僕の役割は、何だろうと――ずっと、ずっと。そればかりを、考えていた。
*
僕の名前は、稲荷。権力なんて程遠い、野狐の一族に生まれた。僕の家は大所帯で、両親と十一匹の兄弟たちに加えて、祖父母に曾祖父、狭い穴倉に十七匹が身を寄せ合って暮らしていた。当然日常は戦争で、連日少ない食料を兄弟たちで奪いあってばかりいた。僕は上から三番目だったけれど、なかなかその生存競争に勝てず体も小さくて貧相で、狭い家の中で居場所を失い、いつも巣穴から弾かれてばかりいた。
所在ない日はいつも、月を眺めてすすり泣く。そんな僕の傍には必ずといっていいほど曾祖父の姿があった。ぼけた老狐は曾孫に向かっていつも同じことを言った。
――我が一族はかつて神使として、神の傍らにあり、その庇護を受け栄華を極めた一族なのだと。
その度に、僕は嘘だと反論した。そんな一族が、いまやサツマイモの小さな欠片を奪い合っているなんてありえないと、空腹に苛まれる腹をかかえてもんどりうった。
そんな僕に転機が訪れたのは、七歳の時。曾祖父が死んだ時だった。
曾祖父は長く生きた。彼の死は大往生と呼ぶにふさわしく、その死は悲嘆ではなく、笑みをもって見送られた。穏やかな葬列は、しかし。一人の少年の登場で激震する。
「鬼の当主の名代としてやってきた」
彼に一番初めに気付いたのは、僕だった。
葬儀さえも巣穴から弾かれて、いじけていた僕の視線に一人の少年が入り込んできた。彼はやけに身なりのいい服を着ていたが、何より目を引いたのは、その頭に幾重にも巻きつけられた包帯と、そこから伸びた鬼の角。
「かつて、我が一族に仕えた、賢老が亡くなったと聞く」
厳かに言い放った声に、僕は目を明滅させた。僕と変わらないような年の子が、少しの感情もこもらぬ、大人びた口調で、曾祖父に礼をとり、僕の父に何かを手渡し、再び難しい文言を続かせる。僕の親は現れた少年に大慌て。ない食料をあさり、少しでもと、彼の前に差し出した。
『あんたが、一番年が近いから、ご無礼がないようにね』
無礼ってなんだろう。当時の僕は、よくわからないまま、お母さんの言いつけで彼の前に進み出て、葬儀の合間の時間を隣で過ごすこととなった。だけど大人がいなくなれば、その子は行儀よく座っているだけで、ずっと黙り続けた。あんまり表情がないから、怖がっていたけれど、途中でふと、それが痛みに耐えるものだと気づいた。
「あの、大丈夫? ……です、か。頭、いたいの? です、か」
お父さんに言われた言葉を思い出した。目の前の子はやんごとない? 身分で、『ミヤマのオニ様』だから、話しかけるときは丁寧な言葉を使うようにって。僕は慌てて、言葉をつけたす。かなり、ぎこちなくなってしまった僕の様子に、彼はかすかに目を顰めたが、すぐにまた顔から表情を消した。
「……大丈夫だ。いつものことだから。二年も前の痕だ。それなのに、時折、傷が開いて血が流れる。それだけだ」
よくよく見ると、その子の頭に巻かれた包帯には血が滲んでいた。僕は仰天して、慌てふためいたが、当の子供は、痛がる素振りも見せない。手当もいらないと、手を払う。取りつく島もなく、僕は本当に、その子が同い年くらいだということが、信じられなくなった。
「ねえ、君。いや、えっと、あなたは、いくつ? ですか」
「七つ」
その答えに、僕は何度も瞬いた。この大人びた少年は、なんと自分と同い年だという。
「僕と同じだ! ねえ、君! あ、あなた、えっと、名前、なんていうの? ですか」
「……さっき言っただろ」
「わすれちゃった! ました」
「…………春鬼」
「えっと、春鬼……様?」
繰り返し確認するように名を呼べば、真っ黒に塗り潰された少年の目に、その時初めて、濃い感情らしいものが浮かんだ。驚いて覗き込めば、それは、痛ましい程の、苦悩だった。
苦痛に堪える少年の頭から、そのとき、つうと一筋血が流れた。その血は額を伝い瞼に零れ目尻に流れて頬を伝う。まるで、あかい涙だ。咄嗟に息を呑んだ僕に、鬼の少年は、言った。
「……春鬼様じゃなくて、春って呼んでほしい」
あまりにぎこちない言葉と敬称に、ついに『ミヤマのオニ様』を怒らせたかと思って、青ざめて謝ったけれど、彼は謝る僕に向かって、怒ってないと言った。むしろ年相応の表情をはじめて浮かべて、噴き出すように笑った。
「お前の敬語、すっげえ無理してる感じが笑える」
ただ、春鬼と呼ぶよりも、春と呼んでほしいと――鬼の少年は、どこか懇願するように言った。
*
永遠の別離の間際。絶え絶えになった息を整えながら、彼女は言った。
――稲荷、ありがとう、本当に感謝してる、沢山の事を隠してきたけど、これだけは本当だから、と。
彼女の仮面を剥いだ己の幼さを、僕は死ぬまで呪い続けた。
*
何やら恐ろしい夢を見た気がして、僕は跳ね起きた。
寝汗に濡れた体。荒らぐ息と、正体のわからぬまま切迫した鼓動。恐怖の逃げ口を求めて、天を仰げば、鈍色の雲が空を覆う。
「稲荷?」
すぐそばで、心配するような声音がして、僕の顔を覗き込んだのは、般若の面をかぶった少女。普通の人はぎょっとするかもしれないけれど、これは彼女の常日頃の姿。僕はそれに、安堵する。
「大丈夫、稲荷」
「むく、ちゃん……? ここ、どこ?」
「本当に、大丈夫、稲荷。屋上よ、お昼ご飯食べたあと、寝ちゃったのよ。寝心地が悪くて、変な夢でもみたの? どんな夢?」
むくちゃんが、ハンカチで汗をぬぐってくれる。その優しさに心を落ち着けつつ、僕は必死に夢を思い出そうと、頭を押さえた。
「夢を、見て……春と、はじめて会ったときのこと」
「はるちゃんとの出会い? ああ……それは、さぞ恐ろしいものだったでしょうね」
「馬鹿言うな、むく」
傍らから春の足がしなって、むくちゃんを軽く蹴る。不機嫌そうに春が眉を寄せる。それが、あの日の少年と重なる――そう、あの夢は、春とはじめて出会った日のこと。
あの葬儀の後、彼とは度々話すようになり友人になった。そうして思わぬ縁が重なって、春の兄が作ったという学校に通うことができたのは、全て彼の――深山の恩恵だ。
そして、春に連れられるまま、僕は一人の女の子と出会った。
それが、目の前の彼女。少し変わった、名前は、むくちゃん。本心を隠したまま笑う、のっぺらぼうの女の子。
だけどあの夢は、それだけじゃなかったはずだ。そのあとに、何かとても怖い夢を見た。
「稲荷、本当に大丈夫? 顔色悪いよ」
むくちゃんが、気遣うように顔を寄せる。それが、何かを呼び起こす気がして、僕は咄嗟に身を引いた。
「体調悪いなら、保健室行けよ。タイムオーバー、予鈴だ。じゃあ、放課後な」
昼休みの終わりを告げる、鐘の音が鳴り響く。焦燥の正体も分からぬままに立ち上がると、その頬にぽつりと一滴、雨粒がおちた。
*
その日は朝から重い雲が立ち込めていたが、午後の授業の途中から、強い雨が降るようになった。放課後は、春が宿題を忘れて居残りになったというので、むくちゃんと二人きりの帰路になった。
「よかった、稲荷が傘をもっていてくれて」
雨脚は衰えない。むくちゃんと一つの傘に身を寄せて、帰り道をともにする。
すぐ傍で、仮面の少女が笑う――もちろん、彼女はのっぺらぼうだから本当に笑ったわけではないが――気配がした。傘を忘れてしまった彼女と、一緒の傘に入れば、いつもより、はるかに近づく距離に顔が赤くなる。これは所謂、相合傘だ。意識しすぎて喘ぐように空気を求めれば、その鼻先に、むくちゃんの匂いがからみつく。
むくちゃんは、山姥の拾われっこ。その家には怪しげな香草や、せんじ薬がたくさんある。義理のおかあさんが作ったという、匂い袋を彼女はいつも持ち歩いていた。まるで、彼女自身の匂いを掻き消すような、におい袋が彼女のにおい。花のようなかぐわしいものとは違うけれど、彼女だけがもつ、彼女のかおり。
「稲荷? どうかした?」
ついつい、鼻を利かせていたことに気付いて、ばつが悪くなった。誤魔化すように、むくちゃんに笑いかける。
「……春が……宿題忘れて居残りなんて、そんなことあるんだね。成績いいのに」
「……珍しいことじゃないよ。いつもは上手く逃げてるだけ。それに、はるちゃんは、忘れたわけじゃないよ。やらなかっただけ」
「あれ? そう、なの? なんで」
「できるのに、やりたくないの。出来ることなら、義務から逃れたいのよ」
そう言い放つ、むくちゃんの声が、あまりに冷やかで、僕はどきりとしてしまった。一瞬横たわった沈黙に戸惑っていると、ふと、むくちゃんが、あっと何かに気付いて声をあげていた。その目線を追いかけて、僕も目を開く。
道行く先に小さくうずくまる影があった。それは、一匹の子猫だった。
雨に濡れてた子猫が、か弱い鳴き声をあげつづけている。親とはぐれたのか、草陰で、にいにいと、鳴いて震える。だけど、僕は、そのかわいそうな子猫に手を伸ばすことができなかった。
「稲荷?」
僕は一歩踏み出した。それは猫ではなく、帰り道への一歩だ。
「……むくちゃん。知ってるでしょう。うち、昼飯も用意できないくらい、ビンボーなんだよ」
僕の家は十二人兄弟だ。いつも飢えに喘いで、時には食にありつけない日もある。そもそも三人で昼食を食べるようになったのも、それを見かねた春鬼が言い出したからだ。毎日のことに気兼ねすれば、出世払いで払えという。当然猫一匹飼う、余裕などないのだ。
「救うっていうのはさ、その命の責任をとれないやつが、やってはいけないんだよ」
救いを求めるか細い声を無視して、僕は日常を歩き続ける。家からパンを持ってくる。水を与える。手段はいくつもあっただろう。だけど、僕はそのどれも選ばなかった。
「その一瞬救ったところで、結局この子は飢え死ぬんだ……」
自分でも思いの他冷たい声が出て、はっと息をのんだ。今の言葉は少なくとも、好きな子を前にして言うべき言葉ではない。慌てて、むくちゃんの顔を見る。
「冷たいって思う?」
すると、むくちゃんは即座に首を振った。
「稲荷は、現実が分かっているだけだよ」
そういうとこ、好きだよ。むくちゃんは、そういって微笑んだ。
好き。その言葉を頭の中で反芻しながら、僕は体温が上昇するのを感じた。だけど、にいと鳴く声を聞いて正気に戻った。僕たちは最後に一度だけ立ち止まり子猫を眺めたあと、逃げるようにその場を立ち去った。速足に歩いてやがて子猫の声が完全に聞こえなくなるころ。ふと、耐えられなくなって、僕は胸のわだかまりを吐き出した。
「……でも、本当は拾ってあげたいんだ」
「うん。分かってるよ。稲荷は、やさしいから」
「…………優しくなんて、ないよ」
咄嗟に呟いた自分自身の声が、遠い記憶を呼び起こす。
あれは、まだ春と知り合うずっと前。まだ変化も出来ぬ幼体のころ。僕は深山で、まれびとに出会った。あかく、濃く散った紅葉の原に、すすり泣く。それはちいさな人間の少女だった。
「あのさ、実は昔。小さな頃にさ」
その出来事は、ずっと胸の奥にしまい込んで、誰にも語ることは無かった。何故彼女に語ろうと思ったのか。だが、それはきっと。彼女ならば、赦してくれると思ったから。
「……僕は、深山で人間の子供を見かけたことがあるんだ」
むくちゃんは、僕の言葉に目を瞠る。当然だ。人間など、滅多に会えるものではない。
「その子は心細さに震えながら、母親を呼んで、ずっと泣いていた。だけど……僕はあの子に声をかけることができなかった……」
泣き続ける人間の子供を前にして、咄嗟に一歩踏み出そうとして――多くの事が、頭に過った。
もしかしたら、すぐに母親が迎えに来るかもしれない。それに彼女を連れ帰ったとき、僕の親はどんな顔をするだろう。人間などを連れ帰ったことが周囲にばれれば、恐ろしい顛末が待つことは避けられない。そもそも、感情を高ぶらせた人間が、自分に触れたら? あやかしは人に触れられると、溶けてきえてしまうと聞くのに? 最悪をいくつも想定して、そこに自分を当てはめる。そうするうちに、足は地面に縫い付けられたように、動かなくなった。
――自分などが声をかけなくても、誰かが、もっとうまく、助けるに決まっている。
そう、一度思ってしまえば、良心は喉の奥に張り付いた。
「……臆病、なんだ」
震える声で、自分の弱さを吐露したのは、彼女がはじめてだった。
「軽蔑、した?」
むくちゃんは首を振って、それに答えた。
「……稲荷が思っているほど、私は清らかでも、明るい子でもないよ」
むくちゃんの言葉に、僕は目を見開く。驚いた。僕にとってのむくちゃんは、天真爛漫。そんな言葉が似合う、よく笑う子だった。
「今はマシになったけど、昔は本当に愛想がなくて、はるちゃんなんて、私のことを根暗って呼んだんだから」
根暗。僕はその言葉に、何度も瞬いた。それはむくちゃんの、対極にあるような言葉だ。
「……大丈夫。軽蔑なんてしてない……稲荷。私ね、本当はずっと前から言いたかったけど……稲荷に……感謝してるんだ」
「え?」
僕は驚いた。今のは何の聞き間違いだろう。彼女が、自分にカンシャしている? 何一つ特別なことなどしていない、この平凡な自分に? 問いかけようとしたとき、むくちゃんが何かに気付いて、その声を張り上げた。
「はるちゃん!」
振り返ると、いつの間に追いついてきたのか。もう一人の幼馴染である春鬼が傘も差さずに歩いてきた。僕の目が釘付けになる。彼はその腕に、ずぶぬれの子猫を抱いていた。
「いって、噛むな、このちび」
「はるちゃん、その猫、どうしたの?」
「あ? 道端で鳴いてたから……拾った」
「……拾ってどうするの?」
「あー……とりあえず、汚いから洗うか」
「……連れ帰るの、また? はるちゃんの家、何匹ペットがいると思っているの」
「いいだろ、ちゃんと面倒みれば。いいから、さっさと、傘にいれろ」
春は、そういうと無理やり二人の間に割って入る。僕の体は傘からはみ出て、雨に濡れた。
「ああ、もう……面倒みるのは、はるちゃんじゃなくて、およねさんでしょう」
濡れる僕に気付かぬまま、むくちゃんが、笑う。仕方ないなあって、笑いながら。ハンカチを取り出して、春の髪を拭ってあげる。おとなしく、髪をふかれている春の腕には、僕が見捨てた子猫が抱かれていた。
ああ。
いつだって、春は僕がしたいことを、僕がしたくてもできないことを、容易く乗り越えていく。僕は、春にはなれない。むくちゃんを、笑わせ続ける――特別な存在には、なれない。
それを眺めて、羨望が、妬みに変わらないように。僕は、下唇を噛む。血が出るくらいに、噛み続ける。
だけど。
「どうしたの? 稲荷」
むくちゃんが、立ち止まった僕を心配してこちらに振り返っていた。優しい子だ。春のことがだいすきなのに、僕にまで気を遣う。僕は無理して笑って、傘を指さし首を振った。
「三人は……入らないよ」
「入れるよ、はるちゃん、邪魔。詰めて」
「いった! むく、足! 足踏んでるっ!」
むくちゃんがこちらに向かって手を伸ばす。その手を掴んで、三人で身を寄せ合って、一人分の傘に身を寄せた。ぎゅうぎゅう狭くて、無理矢理だったけれど、三人で一つの居場所を分け合った。
「濡れる! 濡れるだろ、この馬鹿」
「うるさいなー、どうせもう、ずぶ濡れでしょうが!」
春がむくちゃんを怒鳴りつける。その騒がしい声が耳元で響く。その声に、その笑みに、僕の悩みなど、容易く吹っ飛ぶのだ。二人の笑いが、光となって影を照らし飛ばす。真剣に悩んでいたことは何だったのか。消えうせて、笑いに変わった。
「ってか、春。それ、僕の傘だから」
僕たちは、三人で歩く。いつか、別れ離ればなれになるその日まで――どれほど困難だろうと、三人で、歩き続ける。
*
僕の役割は何だろう。
ずっとそれを、考えていた。むくちゃんが消えて、僕が自らを呪い、春が抜け殻になっても――考え続けた。そして、僕は決めたんだ。むくちゃん。
僕は、春のそばにいるよ。
自分自身を許せない彼を、許さないでいよう。彼が自身を憎むより強く、憎み続けてあげよう。今にも消えてしまいそうな春を、何でもいいから、強い感情で、つなぎとめつづけよう。そうして、いつかまた、三人で笑える日がくる――そう信じているから。その日まで、待ってる、待ち続けているよ、むくちゃん。




