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木漏れ日が、降り注ぐ。新緑の合間から、こぼれる陽光が一条――その木の下を照らす。一際大きい、ムクロジの木の下で、小さな子供が泣いている。その泣き声に誘われて、八重は子供に近づいた。子供は擦りむいた足をかかえて、鼻をすすって泣いている。
深山には鬼が住む。
それが、いつごろから住まうのかを――八重はしらない。母の、母。そのまた母の、はるか先。しかし、日々を暮らすことに精一杯の少女には、それは些末な問いかけだ。八重は数多くの兄弟の一番上に生まれた。朝から晩まで田畑の手伝いと幼い兄弟の世話に追われ、その信仰の起源など深く考えたこともない。それは他の深山の民も同様であり、ただ彼らを庇護する鬼の神様がいること、鬼様から恵みを分けてもらっていること、その恵みに陰りがあれば、数十年に一度人は神に捧げものをする――それだけが、重要だった。
(今年の夏は、涼しすぎる)
ここ数年、深山の庇護に陰りが出ていた。去年に続き今年も不作の気配が近寄る。村はいま、緊張状態にあった。大人たちは皆ぴりぴりとして、子供はその顔色を窺うばかり。もっとも、それもただ一人。目の前の少女を除いての話だ。
「あさひ」
八重は、泣く子供に呼びかけた。
「ねえね」
膝を抱えた子供が、顔をあげる。色素の薄い茶色い瞳。それが八重を映したあと、彼女は花咲くような笑みを浮かべる。無垢なる少女の名前は、あさひ。八重の、数多くいる妹のうちの一人だ。
「あさひ、探していたのよ。何を泣いていたの?」
「ねえね、痛いよぉ。木から落ちた」
手を伸ばしてきたので、その手を引いて立ち上がる手助けをする。立ち上がると、泥で汚れた膝が明らかになる。
「あら。何それ、珍しい」
あさひの姿が見えず、八重はこのムクロジの木の下へとやってきた。山の中腹にあるこの大きなムクロジは、妹のお気に入り。彼女はいつもこの高い木で木登りをしていた。擦りむいた膝は、珍しいことに慣れ親しんだ木から落ちたらしい。
「それより、水汲みは終わったの?」
「あ」
水汲みは妹の仕事だったが、よく忘れて親に殴られていた。この妹はもう十二になるというのに頭が足りず、挙動もとろとろとして愚鈍だ。あまりに使えなさに親も呆れ果て、彼女に目をかけるのは、もはや一番上の八重一人だけだった。
「……ああ。もう、あさひ。あんたは本当にとろいんだから。手伝ってあげるから。こっち持って」
「えへへぇ、ねえね。大好き」
まったく、私がいないと何もできないんだから。息をついて、川へ向かうために踵を返す。妹はとてとてと、その後ろに続く。しかし、ただでさえ遅いその足は、二三歩歩いてすぐに止まった。
「でも、ねえね。もうすぐ雨が降るよ」
「は? こんなに晴れているのに、何で降るのよ、降るわけないじゃない」
「え。でも……」
「いいから、早く済ませてしまいましょう」
あさひから手桶を奪い、川へ向かう。戸惑うような足音が、やがてそのあとを追いかけた。
足早に山道を進む姉妹。そんなふたりを追いかけるように、しばらくして雨は降りだした。雨脚は強さを増して、すぐに雷雨へと変わった。
*
土砂降りの雨が、降り注ぐ。
「最悪」
山の天気は移ろいやすい。そんな言葉は当然知ってはいたが、雨の気配は遠く、あまりに唐突な雨だった。何よりも苛立たしいのは、妹の言葉が真実になったこと。一番大きなムクロジの木の下で雨宿りをしながら、八重の心の内に怒りがくすぶる。妹はそんな八重の様子を知ってか知らずか、雨を眺めて、嬉しそうに笑っている。
「あさひ……ほら、もっとくっついて。そこ、濡れるよ」
「こわいの? ねえね」
「怖くなんてないから! 寒いのよ……」
とろくさい妹に付き合っていたら、すっかり日が暮れてしまった。闇に紛れて、遠く獣の声が聞こえる。しかし、八重は知っていた。真に恐れるべくは、山に住まうもの。人を喰らうという妖どもだ。
八重は雨宿りする木を見上げた。昔母が言っていた。ムクロジの木には、邪を払う力があるという。しかし、いくら大きな木の下といえども風雨が完全に防げるわけではない。妹と体を寄せ合って暖をとるが、濡れた体は冷えて寒さに震える。我慢の限界が近づいたとき、隣で妹がくしゃみをした。
「……はあ。どこかで雨風をしのげないかしら」
ため息とともに漏れた言葉だったが、それに即座に妹が顔をあげ、彼方を指さした。
「あるよ、ねえね」
妹は八重の手首を掴むと、慣れた足取りで山を登り、けもの道を進んだ。いつもの妹とは思えぬ突飛で素早い行動に、八重はあっけにとられた。木々に天蓋を覆われた先を行くのでまだ濡れることは少なかったが、慣れない道に息が上がる。しかし、それに気づかぬまま妹はずんずんと進んでいく。
「ま、まって……」
八重が堪らず声をあげたのと、目的の場所へたどり着いたのは、同時だった。草木をかき分け辿り着いた先には、青々と茂る一本の巨木がそびえたっていた。思わず見上げたムクロジの大木は――先ほど雨宿りしていたものよりはるかに高く広範に、太い枝を空に伸ばし一体を覆い尽くしていた。しかし、その大きさに見呆けたのは八重だけで――妹はその巨木の下へ迷いなく進む。そうして彼女が向かった先には、小さな社があった。山にお社があることは知っていた。儀式の折、その舞台となる深山の神のお社だ。聞いてはいたが、見たのは初めて。荘厳であるべき神の社は、村長の家より小さく、中は大人が数人入れるかというもの。作りも質素で、絢爛という言葉の対極にあるような、形ばかりの社だった。それを指して、あさひは言う。
「中に入れば寒さをしのげるよ」
「…………は」
開いた口が塞がらないとはこのことだ。あまりに当然のように言い放つので、一瞬呆然としてしまったが、その困惑から立ち直ると八重は声を張り上げていた。
「……あんた、何て罰当たりな‼」
しかし、怒りに叫ぶ八重を後目に、あさひは躊躇なくその歩を進め、社の戸に手をかけていた。慌てて制止しようとする姉の声よりはやく、その戸を引く。
「……あれ? あかないや」
「あんた、いい加減に……!」
怒り心頭の八重が、妹を怒鳴りつけようとしたとき。
「だれ?」
その声は、開かない扉の内側から、聞こえてきた。
「え……?」
声がしてはじめて、社の中に人の気配がすることに気づき――怖気が走る。
「な、なに……?」
村人は、儀式でもなければ山の奥には近づかない。まして、神域である社の中に入ろうとする愚か者など、あさひ以外に存在しない。では、この内側に存在するものは、何か。いるはずのないもの。それに、肌が粟立つ。しかし硬直する姉に対して、妹は怯えた様子もなく、社の内側に声をかけた。
「あさひだよ」
正面の両開きの扉には窓がなかったので、横に回り込み、格子窓を見つける。物怖じしない妹はそこに低い背でしがみつき、やっとのことで中を覗き見た。
「あ、あさひ……っ!」
「ねえね! 女の人がいるよ」
妹に急かされて中を見ると、確かに社の中には、ひとりの女がいて驚いた。それは長い髪の女だった。振り乱れた黒髪は長く、顔にかかってその面は見えなかったが、おそらくは十代後半ごろのまだ年若い女だ。初夏とはいえ、まだ朝夕は寒いというのに、彼女が身にまとうのは、寒々しい赤い襦袢のみ。当然その姿に見覚えはなく、村人でないことはすぐわかった。困惑しながら、女の正体を見定めようと凝視する。そんなとき、女がこちらに気付いて顔をあげ――爛々とかがやく瞳と、目が、あった。
「ひ」
重なった視線に八重は咄嗟に転げ落ち――そのあとを追うように、格子から女の手が伸びる。
「出して!」
伸びた手がくうを切ると、声は悲痛に訴え、八重を追いかけた。
「おねがい……出してっ! ……ここから、出して……!」
白く、ほっそりとした手が、赤くなるほどに格子窓を握る。社の中の女は泣いていた。嗚咽の合間に、何度もここから出してと繰り返し、手を伸ばして嘆願する。
「出られないの?」
内側を覗き見ても錠のようなものはなかったが、正面扉はなぜか開かなかった。あさひが力任せに引いてもびくともしない。開かない扉の内側で、女のすすり泣く声がこだまする。顔を合わせ、困惑する姉妹。泣き声に耐えかね、いよいよあさひが扉に足を振り上げようとしたとき、背後から思いもよらぬ声が響いた。
「無礼者ども、御前だぞ」
それは、低い男の声。村の男に見つかったかと八重が驚き振り向くと、その目は零れ落ちそうなほどに瞬時に見開かれた。
振り向いた先にいたのは、二十代後半ほどの、厳つい顔の屈強な男だった。その顔に覚えはない。しかし、顔に覚えはなくとも、その黒髪の合間にみえたもの。そびえ立つ一本の角――その意味は知っている。
「み……深山の、鬼様」
がくがくと膝が笑い、崩れ落ちるように地に足をつけ、深々と頭を下げる。呆然と見上げる妹の頭を掴んで、その額を地面にこすりつけた。目の前にいるのは、深山の守護者にして、人喰い鬼。血肉を代償に、豊穣を約束する、深山の神だ。
喰われてしまう。耐えがたい恐怖に震え続ける体。圧迫した空気から逃れるように、八重はより一層地に額をこすりつけた。
「……何を怯えている。おぬしたちのような痩せ細った子供など喰わぬわ。それよりも、ここに近づくな」
まるで獣の子を払うように、鬼は子供たちに手を振った。どうやら見逃してくれるらしい。いまだ震える体を律して八重は即座に踵を返したが、傍らの妹が腰をあげない。彼女の目は、いまだ悲鳴をあげ助けを求める女に注がれる。そして、あさひは、恐れ多くも口を開いた。
「ねえ。鬼様。この人は、どうして閉じ込められているの?」
「……去れ、子供。これは、決して外には出してはならぬものだ」
抵抗する妹の手首を掴んで、八重は山を駆け降りた。雷雨などより、恐ろしいものは他にあった。ずぶぬれ泥まみれになって何とか家へとたどり着くと、親は烈火のごとく怒り――妹はそれから高熱を出して倒れた。




