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嘆息  作者: 実茂 譲
12/16

12.

 ああ、船医さん。もうだめでした。逃げる気力も、金もありませんでした。ただ、わしは命拾いをしたというだけでした。いえ、船医さん。子どもたちがいました。フィリップとベレンザーリオとジュセッペが。この子たちを守るためにわしはあらゆることをせねばならなかったのです。そのためには絶え間ない努力と知恵が必要でした。つまらぬ希望にすがらぬということです。鼻先にニンジンを吊るされた騾馬がニンジンに食らいつこうとして前へ前へ歩くようなことだけはすまい。ただ歩き、荷を運ばされるだけの生活でもなんとか自分のものを手に入れなければならない。当時、日雇いの移民のあいだでは金をためて小さな店をもつことが憧れでした。わしも、まずはそれを目指すことにしました。床屋でも八百屋でもなんでもいい。自分の店を持ち、他人に使われることから逃げなければならない。そのためには何十年かかっても……



 ああ、船医さん。そして、わしは二十年働きました。食いつくされないよう必死に働きました。港の荷降ろしや建設現場、野菜運搬の日雇いは、作業の辛さでも賃金の安さでも《叔父》にピンハネされる面でも、白い崖の石切り場の悲惨さとそう大差はありませんでした。リトル・イタリーは結局シチリアなのでした。ああ、でも、船医さん。英語もろくに話せない無学なイタリア人が言葉の通じる街を離れれば、仕事に就けるあてはなくなります。そして、出身地の同じもの同士で固まらなければ、他の移民どもにつぶされてしまうのです。あの当時イタリア人はアイルランド人に憎まれていました。週七ドルで働いていた連中の賃仕事を、わしらが週五ドルでとってしまったからです。仕事にあぶれた怒れるアイルランド人は《イタ公》を見つけると、角材や鉛管で思う存分ぶちのめしたのです。警察を頼っても、まともに取り合ってはくれんのでした。わしらのような素寒貧に警察が味方するわけはなかったのです。まして、下っぱ巡査はみなアイルランド人だったのだから。

「異国の地にあってはイタリア人同士が助けあわなきゃいかん」

《叔父》チェーザレ・パスネッタの言葉です。何か揉め事があったら、まず自分を頼れ。面倒見てやると言うのでした。ドン・トゥリッドゥもまったく同じことを言っていました――ローマの役人や銀行家どもはあてにならん、シチリア人同士で助け合わねばならん、と。そのとおりです、船医さん。わしらは助け合い、《叔父》に立ち向かわねばならなかったのです。しかし、船医さん。わしらは愚かものです。人は、自らの尊厳や愛するものを守ろうとするそのときこそ、最大の努力と忍耐が求められるのです。でも、人は、まさにそのときにこそ、目先の損得や脅迫に負け、一番安易な道を選択し、その結果《叔父》のような連中をのさばらせ、一番苦しい道を知らぬうちに歩いてしまうのです。それはリトル・イタリーでもシチリアでも変わりません。ああ、船医さん。やつらはいつも甘い言葉で誘ってきます。面倒見のいい善人を装って近づいてきます。なんにも心配はいらない。《叔父》がわしらを役人やアイルランド人から守ってくれる、そして仕事も与えてくれる。法を信用するな。法は金持ちの味方、ローマの味方、そして《アメリカ人》の味方。でも、《叔父》は違う。《叔父》は貧乏人の味方、民衆の味方、シチリア人の味方だ。わしらはやさしい《叔父》さんに、ほんの少し敬意を示せばいいだけ……そうやって《叔父》どもはなにもかもを所有してしまうのです。やつらにとって《守る》と《搾り取る》はまったく同じ意味を持つ言葉でした。ドン・チェーザレとオレオ・イアネッラの息子はわしをとことん搾り上げました。わしがどんな職についても必ず賃金をピンハネしました。わしだけではありませなんだ。海を渡ってやってきたイタリア人のほとんどがそうやって搾り上げられ、生きたままむさぼり食われたのです。でも、誰も逆らえなんだ。ドン・チェーザレの口利きがなければ、無学なイタリア人は賃仕事にありつけなかったのです。ドン・チェーザレはそれをいいことに徹底的に搾り上げたのです。それでも、アメリカに来て二十年目、わしはようやく自分の小さな食料品店を持つことができたのです。本当に小さな店で、その店を持つためだけにもひどく辛く、果てしないとも思える苦労をしなければなりませんでした。それでもたとえどんなに小さくても自分の店が持てたのだから幸運でした。店を持っても、《叔父》どもはみかじめ料を要求してきます。わしは黙って支払うしかありませんでした。逆らって放火された店を三軒知っていましたから。それでもめげずに、わしは必死に金をためました。カステルビアンコから逃げようとしたあのとき、金がなかったためにわしはルチアーナにあんなことをさせてしまったのです。ルチアーナが海へ投じられたとき、わしはフィリッポとベレンザーリオとジュセッペを学校にやって、立派に育てることで償いをするのだと心に決めたのです。そして、子どもたちは……

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