第2節 空を渡る
木材と金属で出来た船。人を乗せ、海を渡航する。
船の始まりはどのような物だったのだろうか。それは、船と呼ぶのも烏滸がましい程の小さな舟だったのかもしれない。
葦を束ねた小さな舟。小枝を束ねた小さな舟。人一人がようやく跨がれる程の小さな舟。安全など保障されない水に浮かぶだけの舟。
そのような舟は、間を置く事無くして、丸太を束ねた堅牢な舟――筏へと変わってゆく。櫂で水を掻き、少しずつ前進する原始的な舟。だがそれは人が持つ技術の歴史的な進歩だった。
そしていつしか、丸太を加工し、組み立て、船へと変わっていく。帆を張り、風を捉え、舵をきり、進路を変更させながら、前に進む。数学、物理、力学を理解し、一つの学問として、船舶あるいは海洋工学が発足した。
次第に、金属を用いて船体を補強しつつも、機能性を失わない次世代型の船が出来上がってくる。
海を渡る夢は途絶える事が無かった。
何百年、何千年と続く夢。
その夢は時代を越え、ついに成し遂げられた。
海を渡り、新しい大陸を見つけながらも、航海の夢は次の世代へと引き継がれる。
大昔から姿を変えながらも、船の歴史は続いてゆくのだ。
海を渡る船。大海原を進む船。安全が保障された航海。走破された海。
長い歴史の末に、人類はついに海を掌握した。
そして次に、人類は空を飛ぶ事を夢見た。
不死鳥のように、竜のように、空を飛びたい。
見上げれば広がる果てしない空。舟の時代の人類は、海を見て同じ気持ちを抱いたのかもしれない。
空を飛びたい。もしかしたら、ずっと前からその欲求は人類の心の中にあったのかもしれない。
そして強い欲求はいつしか志へと変わった。
空を渡る船を作ろう。誰もが利用出来る最高に便利な船。
自分達には先人達が築いてくれた船の歴史と技術がある。
自分達の世代で夢が叶わなくても、次の世代、次の次の世代の同士に向けた礎を築こう。
そうして新たな船の新たな歴史――飛空艇の歴史の幕が開けた。
しかし、空を渡る船の夢はそうそう叶う事は無かった。
飛空艇の歴史の始まり。繰り返される試行錯誤。
まず初めに魔術による浮遊と滑翔を解析した。そして次に、魔力を宿す石――魔石に浮遊と滑翔の魔術を閉じ込めた。
それを小さな箱舟に備え付け、発動させて浮遊と滑翔を試みた。しかし滑翔はおろか浮く事も出来なかった。
単純にエネルギーが足りなかったのだ。魔石を膨大な数だけ集めたら、浮遊は可能かもしれない。
しかし、彼らが夢見たのは空を渡る船だ。舟ではない。何百人も乗せて、海を渡るように、空を渡る船――飛空艇を作りたかった。
圧倒的に足りないエネルギー。それを補うのには、特大の魔石、国宝級の魔石が何十個、何百個も必要と推測された。世界中からかき集めても足りない。それほどの数が必要だった。
長い黎明期。
万人が利用出来る飛空艇の前に何人もの天才が沈んでいった。
滑走からの飛翔によって、不足分のエネルギーを補おうと考えた者が居た。
しかし導き出されたのは、音速の滑走が必要という果てしない事実のみ。
夢は叶わない。
魔術による軽量化、および重力減少を範囲的に展開する事によって不足分のエネルギーを補おうと考えた者が居た。
しかし導き出されたのは、海を渡るために必要なのは何千人による魔術付与という大儀式に相当する魔術行使という事実のみ。
夢は叶わない。
飛空艇の構造から、揚力バランスの変化、魔石に加え魔力エンジンを用いて不足分のエネルギーを補おうと考えた者が居た。
しかし導き出されたのは、船体にオリハルコンに代表される希少金属並の耐久が必要という、技術の根本を覆さなければ実現が不可能という事実のみ。
夢は叶わない。
そんな中で一人の天才が現れた。
天才の中の天才。
史上最も偉大な大天才。
ブラウリオ・デシール・ダイゼンホーファー博士。
幼少時から頭角を現し、あらゆる分野で功績を挙げ続けている今を生きる偉人。
魔術理論に始まり、魔導器の魔回路の改善、薬学、芸術、果ては革新的な政治哲学まで活躍は多岐に渡る。
飛空艇の実現において、そんな彼が提唱したのは魔石の相互作用を意識したものだった。
それは、浮遊、滑翔の魔術が付与された魔石を複数個用意し、互いの魔力波長を限りなく近づける事によって行使される魔術の力を増幅させるという物。
全く同じ音が二つ重なれば、もとの音よりも大きく聞こえるように、互いに干渉して増幅される魔術。
「特大の魔石は用意出来なくても、小さい魔石ならいくらでも用意出来る。それで十分だよ。魔力の位相差がゼロであれば、もとの魔術に加え、いくらでも増幅作用が働く。魔術を閉じ込める魔石はそれなりの数が必要だろうけど、手に入る範囲だ。今の技術で飛空艇は十分実現するさ」
予め決まっていたかのような美しい答え。
そしてついに夢が叶った。
これが十年前の出来事。
理論が完成し、そして応用が始まる。
幕を切って急速に発展する飛空艇技術。
異常なまでの発展は留まる事を知らず、金属の塊が空を渡る時代が訪れた。
一隻の巨大な飛空艇が空を渡っている。
クジラのような流線型の飛空艇だ。
恐らく、風を受け流すように設計された速度重視の飛空艇。
銀色の船体の横腹に帝国メツアースの紋章が掲げられている。
飛空艇の尻には、船体と同じくらい長い金属のヘラが幾つも取り付けられている。舵を担う物だろうか。
飛空艇――美しい銀のクジラが空を行く。
広大な空に曇りは無くどこまでも晴れ渡っている。銀の船体に日の光が反射し、その美しさを一際輝かせる。
目前に広がるのは、広大な森。秘境と呼ぶに相応しい。
どこまでも伸びる緑の風景が、自然を際立たせる。
広大な森には、一筋の川が流れている。
渓谷だ。緑の肌を露出させ、川沿い特有の灰色の風景。
森と川に浄化され、空気は澄み切っている。
巨大な飛空艇のデッキで二人の女が、そんな秘境の空気に晒されている。
一人は備え付けの椅子に座り。
一人は後方で控えている。
「メツアースは豊かだな。妬む気にもなれない。二ヴァリールとは違いすぎる」
椅子に座った小柄な少女が呟く。
歳は十六、十七程度だろうか。
金色の髪を靡かせ、憂いを帯びた表情をしている。
「そのような豊かな国に身を沈めるのも良かったと思いますよ。エステル様」
後方に控えた長身の女性が答えて見せた。
歳は二十三辺りだろう。落ち着いた風貌の中に、若干の若さが見受けられる。
青色の髪を靡かせ、彼女もまた憂いを帯びた表情を見せた。
喧噪に包まれている飛空艇内部とは隔離され、二人が居るデッキでは穏やかな空気が漂っている。
「ならば貴女は出来る? スサナ」
椅子に座った少女――エステルが意地悪げに問う。
「出来ません」
後方に控えた女性――スサナが問いに即答する。
「私も同じだよ。保護してくれたメツアースには感謝している。けれど、どうしても二ヴァリールでやらなければいけない事がある」
「エステル様の我儘は、いつも周りを巻き込みますね」
スサナは辟易しながらも、嫌悪を示さない。むしろ、暖かい雰囲気をもって答える。
『いつも』と言うあたり、エステルとスサナは長い付き合いなのだろう。
エステルの高貴な身なり。スサナの腰に佩く剣状魔導器。
それらを見るに、スサナはエステルの従者と推測出来る。
「毎回迷惑かけるね。嫌だったか?」
「嫌じゃないですよ」
スサナが目を細め微笑みを浮かべる。そして、エステルへ慈愛に満ちた瞳を注ぐ。
「それにしてもメツアースには悪い事をした」
エステルはスサナへ振り返る事無く呟く。
「勝手に出てきた事ですか?」
「そうだ。メツアース王あたりは感づいてるかもしれないが」
彼は聡明すぎる、とエステルは続けた。
そして苦笑するエステル。「そうですね」と同意を示し、スサナも苦笑を見せた。
口ぶりから、二人は苦境を強いられているのだろう。
しかし悲壮は見られない。強がりも無い。ただただ強固な意志を行動に移そうとしている。
「スサナ。二ヴァリールは好きか?」
「好きです。亡国となろうとも、ずっと好きです」
他愛もない会話を二人は続ける。
二人の目の前には流れる景色。
一隻の巨大な飛空艇が空を行く。
クジラに似た飛空艇が空を泳ぎ、空気の波を立てる。
日の光が降り注ぐ。遮るものは無く、凶悪的なまでに光が降り注ぐ。
船体に反射する光。
しかし、光を反射したのは一隻だけでは無かった。
突如、下方の森から小型の飛空艇が浮上してきたのだ。
それは高速で移動するこの飛空艇に接近してくる。
接近を許した理由はこちらには無い。あちらの飛空艇が非常に高水準なのだ。
浮上してきた小型の飛空艇は一隻だけではない。
何十隻も見受けられる。
それらが一斉に急速接近してくる。
突如、クジラに似た飛空艇が揺れる。
「どうした?」
エステルが揺れに異常を感じて、スサナに疑問を投げる。
「分かりません」
スサナは壁に手を着き、揺れを耐える。
クジラに似た飛空艇は、速度を緩めない。
先ほどからトップスピードを保って飛行している。
そして、また揺れる。
先程の揺れより大きく。
「明らかに異常だ」
エステルが冷静に言い払う。
揺れが止まる事は無い。緩急をつけながら、大なり小なりの揺れを繰り返す。
小型の何十隻の飛空艇が、一つの巨大な飛空艇に接近している。
再度、大きな揺れ。
理由は、第三者から見ればよく分かる。
クジラは纏わりつく小魚を振り切ろうとしているのだ。
しかしそれは適わない。小魚が速過ぎるのだ。
飛空艇内部の喧噪がいよいよ無視出来なくなる程強くなる。
「空賊です!!」
スサナがデッキから身を乗り出し、小型の飛空艇を確認。エステルに伝える。
「スサナ。退けられるか?」
エステルが目を伏しながら言葉を投げる。
スサナは目を細め、小型の飛空艇に描かれた賊旗を視認する。
「……バルトレイ空賊団です。無理です。あちらは魔導器士を有しています」
スサナが視認した賊旗から相手を特定する。
「悪名高い空の死神か」
エステルは投げやりに言い放つ。
『死神』とはそうそう付けられる仇名では無い。
略奪、蹂躙、皆殺しの果てにようやく付けられる最凶の代名詞。
バルトレイ空賊団も例に漏れる事は無い。
あらゆる国で災厄をもたらし、『死神』と呼ばれるに相応しいだけの残忍な犯罪を犯し続けている。
しかも悪い事に、バルトレイ空賊団と言えば最強の空賊の一角として名を連ねている。
それは、一重に空賊団に魔導器士が在籍しているせいだ。人の道に外れ、国を追われた魔導器士。彼らが最後に行き着く場所、その候補の一つにバルトレイ空賊団の名が挙がる。
歪な性質の魔導器士が集い、最凶の力を振う。
最強で最凶の空賊団。それがバルトレイ空賊団。
「ここまでか」
エステルが呟く。
「はい。どうやらここで終わりのようです」
「私はとことん運が無いな」
エステルは諦めたように深く椅子にもたれる。椅子が軋み、その音はまるで彼女の歯ぎしりを代弁しているようだった。
ドン、ドン、と不安を駆り立てる音が鳴り出した。
空賊の攻撃を受けているのだ。
衝撃と共に巨大な飛空艇が大きく揺れる。
この飛空艇は速度と許容人数を最大にするために、最低限の武装しかしていない。
空賊を振り切る事は適わない。
撃ち堕とされるのも時間の問題だろう。
ましてや相手は、『死神』の名を頂く最凶の空賊だ。
「命を捨てる覚悟は出来ていた。だがそれはせめて二ヴァリールで……」
「……」
エステルの言葉が消え入る。
スサナは何も言わない。黙って言葉を聞き届ける。
「悔しいなぁ」
エステルがポツリと漏らした。その言葉に込められた感情は複雑に絡み合い、異様な形相になって耳に纏わり着く。
エステルはどこまでも冷静だ。だからこそ、言葉の異様さをより一層際立てる。
バン、と近くの扉が乱暴に開かれる。
内部に潜んでいた空賊がいよいよここまで来たのかもしれない。
スサナが抜刀する。反射的な動き。彼女もエステルと同様に諦念を示していたが、最後まで主を守ろうと、従者の誇りを見せる。
「ヴァイスが変な食い意地を張ってるから、空賊に占領された」
開けは放れた扉から出てきたのは、世にも珍しい黒髪の男性。
そして口を突いて出たのは、場違いな言葉だった。
「お前だって食ってたじゃねぇか。クソ美味い料理をよ」
次いで出てきたのは、くすんだ緑髪の少年。
そして出てきたのはやはり場違いな言葉。
「まぁいい。ヴァイス、中は任せたぞ」
「めんどくせぇけど仕方ねぇ」
そして、くすんだ緑髪の少年は、言葉を残しその場から消えた。
目にも止まらぬ速さで移動したのか、あるいは本当に不可視となったのかは分からない。
エステルとスサナは困惑している。
状況を把握出来ないのだろう。
黒髪の男性は、そんな二人に気付かずコツコツと靴を鳴らしながら、デッキを歩く。
端まで歩き、飛空艇から落ちないための手すりへと身を乗り出す。
迫りくる空賊の飛空艇を確認しているのだろうか。
一瞥した後、あろうことか、手すりに足をかけ――。
「お、おい!!」
エステルが声を荒げて黒髪の男性へと声をかける。
さすがに無視出来ないと、呼び止める。
声をかけられた男性は、突如声をかけられ、全身をビクつかせる。幸運にも高速で移動している飛空艇から落ちる事は無かった。
「あ、あぁ。驚いた」
「な、何してるんだ?! 危ない! 落ちるぞ!」
「あぁ……説明してる暇は無いんだ。後でな」
そう言って黒髪の男性は、手すりに登る。
高速移動している飛空艇の上。荒れ狂う風に晒されながらも、姿勢を崩さない。恐ろしい程の身体能力。
黒髪の男性は緩慢な動作で膝を曲げる。
そして瞬時に踏み込む。
爆音。
踏み込まれた部分が粉砕された。異常な脚力。
砕かれた木材と、ひしゃげた金属を撒き散らしながら、黒髪の男は空へと姿を消した。




