高尾山と詩
「太古の夜。大海原を七人の雲が雷鳴と共に覆っていた。飛沫の激しさは恐ろしく、誰もいないはずの大海原に浮かぶ小さな方舟は大きく揺れている。たった一人の搭乗員の少年は光の届かない空を呪っていた。」
「…どこの神話ですか、それ。」
「この街の民間伝承だよ。」
ハンドルをぐいっと握っている加地先生を視界の奥に入れて、俺は手をこまねていた。
「なんだか不穏な入りですね。これに神巫と関係があるんですか?」
「まぁ、聞いていなさい。」
「…はぁ。」
すると突然、二人をのせた車が急に止まった。赤いネオンが煌々と車窓を照らしていた。
「何がいいかい?」
「あいにく手持ちがないんで。」
「バニラは好きか?」
「好きですけど。」
「そうか。」
加地先生は気分が良いようだった。甲斐性はあるのに独身なのか、と少し不思議に思っていると、片手にはバニラアイスを、もう片方には烏龍茶を手に持った加地先生がそこにいた。
「ほれ。駄賃はいらん。」
「あ、ありがとうございます。」
かくして俺たちは麓のドライブスルーを抜けて、そのまま山へ向かった。
「なぜ山ですか?」
「高尾山だ。」
「はぁ。」
会話になっていない。こまねいていた手はさらにこまねいて、詰まる喉はさらに詰まる。そもそも、さっきの神話みたいな話はどこに行ってしまったのだろう。するとその瞬間、彼女の手が俺の手にそっと重ねられた。
「なっ!」
驚いた俺の反応は意外にもこの車では浮いていた。先生の指は冷たかった。
「君はこの街を尊いと思うかい?」
その問いに閉口する俺の瞳は、窓の奥の小さな街灯に向いたままでその動きを止めていた。
「…そうか。」
街灯には小蠅と蛾が逆さになって群がっている。加地先生はその奇異な姿を盗み見るようにして、訝しげに口を開いた。
「あんな変な民間伝承が伝わっているように、この街の一部は若干、変らしい。」
先生も十分変ですが、と言おうとしてやめた。わざわざ言う意味はない。代わりにこう尋ねる。
「この街の一部は異常で、そしてその異常の一つが神巫だということですか?」
「…そういうことになるのかな。」
曖昧な返事であった。具体的に何がどう変であり、それはなぜなのか、というところくらいまで教えてくれるものと思っていた分、少しがっかりしてしまう。そんな思いが伝わったのか、加地先生は語気を弱めてこう言った。
「高尾山に着いた。」
車を止めて見えたのは、波紋ひとつない池の水面に反射する朧げな満月だった。柄にもないが、こうしてまじまじとみると月というのは美しいのだなと思う。そんな感慨に浸っていると、背中を刺すように名前が呼ばれる。
「笹ケ谷。」
糸で引っ張られるように素早く振り向いた。加地先生は身を屈めて何かを拾っていた。
「何を拾ったんですか?先生。」
俺の問いに答えるかのように、加地先生は拾った小石を波紋ひとつない池の中央に投げ入れた。ポチャリ。水面にはたちまちざわめきが現れ、先ほどまで水面に映っていた美しい月の像は霧散した。
なんて、もったいない。無意識に口が開いていた。
「なんでそんなことしたんですか。」
怒気のこもった俺の言葉に続く言葉は無かった。慌ただしく揺れている水面とは対照的に、加地先生も俺もこの山さえもがだんまりとしていた。沈黙を切り裂くように風が二人の間を通り抜けた。
「これが、詩の最後さ。」
加地先生は乾いた笑みを浮かべていた。俺は一人空を仰いで、夜空に浮かぶ月を見た。その本物の月はしかしただの冷たい岩石のように思えた。一言で言って、アレは生きていない。
「偽物は本物より美しいゆえに隠されるという教訓ですか?」
もちろん違うだろう。けれどそれ以外でそれっぽいものが思いつかなかった。加地先生は目を線にして、優しげに言った。
「もちろん違う。」
両目が揺れる。
「水面に浮かぶ月は不死ということさ。」
その証拠に、水面に月が戻っていた。




