夕暮れのプレハブで彼女はキツネを呼ぶ。
加地先生が颯爽と帰った後、放課後の緊急災害用避難施設、略してプレハブにはたった1組の男女がいた。
「で、巫女部って何をするんだ?」
神巫は俯いたまま答えなかった。どうやら本を読んでいるらしい。俺は壁に設置されている時計を見た。
「はぁ。疲れたーな。」
西日はカーテン越しに差し込んでいた。そのため、カーテンが揺れるたびに影もゆらめく。この静かな教室で生きているのは今、このカーテンだけだろう。
「あんた神巫って言うけど、もしかして巫女か何かか?実家が神社だったりするのか?」
「だとしたら何?」
睨みつけるような視線を感じて思わず肩が震える。強者の威嚇は弱者には恐ろしいものなのだ。弱者は弱者らしく、強者は強者らしく。「である」主義の成れの果てはいつだって空虚だ。
「えっと、俺さよく神社に行くから、もしそうなら親近感あるなーって。あはは。」
「親近感?そんなもの一切必要ないわ。あなたは私にとって永遠にカエルだわ。」
カエルってもう、人間としての尊重すらされていないじゃないか。てか、カエルってもしかして「帰れ」の暗喩なのか。だとしたらもう俺は帰るべきか。ああ怖い。
「はぁ、帰ろうかな。」
「それがいいと思うわ。永遠にさようなら。」
ひどすぎるよ。人の心とかないのだろうか彼女は。そんな冷え切った教室で、扉が勢いよく開かれた。
「邪魔するぞー。仲が良さそうで何よりだ。」
「…どこ見ていってるんですか。あとノックしてください。」
「ノックは許せ。どこ見てるかって?無論、君たちの関係性についてだよ。」
この人、目が節穴だ__。
俺が呆けていると、神巫はパタンと本を閉じた。思わず瞳孔が神巫の手元に向かう。
「加地先生。この人、私の実家を特定しようとしてくるんです。なんとかしてくれませんか?」
「違う。ただ会話の話題としてだな、神社住まいかって聞いただけだ。ストーカーじゃない。」
「はっはっは。そうかそうか。ちなみに神巫の実家は神社だ。」
「え?」
「先生、なぜそれを。」
「面白いからいいじゃないか。はっはっは。」
こめかみに手を当てる神巫を傍目に、俺は一つ息を吐いた。
「で、先生。巫女部って結局何をする部活なんですか?」
「そうだな、と言っても説明が大変だな。見せてみる方が早いだろう、なぁ神巫。」
「…はぁ。」
ため息をつくと彼女は黒い学生鞄をゴソゴソと漁り始めた。彼女の長い黒髪が夕暮れの太陽に当てられて黄金色に輝いている。俺は思わずその髪を見つめてしまった。
「ふっ、笹ケ谷。お前も彼女に見惚れるか。」
「い、いや違いますよ。ただ、普段人間という動物をあまり凝視したことがなかったので、人間の頭皮に興味が湧いただけで。」
「頭皮に興味?じゃあ私の頭皮にも興味があるのか?」
「あ、はい。」
「そこは否定しろ。」
そうこうしている間に、神巫はもう準備ができた様子だった。
「何それ。弓?」
「正解だ、笹ケ谷。これは梓弓という代物だ。」
それを握る神巫の代わりに加地先生が解説をしている。
「梓弓?なんですかそれ。もしかして狩猟用とかですか?熊を殺したり。」
「いいや違う。巫女部に関係するモノだ。そんな穢れたものではない。」
「は、はぁ。」
無言で弓のあちこちを触りながら調整している神巫の姿は、まるで歴史の教科書に載っている神聖な存在にさえ思えた。何より艶やかな黒髪が古の香りを匂わせる。詳しくはないけれど。
「それで、結局なんなんですか?ただの弓なんですか?それが巫女と何の関係があるんですか?そもそも何でただの高校生がこんなもの持っているんですか?」
「うむ。それはだな_」
「ちょっと静かにしてもらえないかしら。」
すまん、と後ろめたそうに口を紡ぐ加地先生を見て、俺もまた口を閉じた。グラウンドの歓声も、空を飛ぶ飛行機のジェット音も聞こえないこの部屋で、神巫は静かに梓弓の一本の弦を弾いた。
ビューッ。
音は虚しく、時の狭間に消えていった。
もしかして彼女は厨二病なのだろうかと危惧した。しかし、それは束の間の心配だったようだ。明らかな変化が訪れた。
「ミャーミャー。」
部屋の至る所から鳴き声が聞こえ出したのだ。幻聴だろうか、と自分の耳を疑おうにも、それが幻聴であるかを確かめる術はない。騒がしい周囲の鳴き声を掻っ切るかのように俺は声を上げた。
「なんなんだこれは!猫か?なんで急にこんなことに!?その弓のせいか?弓が猫をおびき寄せたのか?」
俺の言葉が教室に響くと途端に鳴き声がシュルシュルと小さくなった。神巫が訝しげに俺を見ていた。
「まず訂正から。猫じゃなくて狐。そして、梓弓がそれらを誘き寄せたというのは一部正しいけれど、あなたの認識は実情とは少しずれてる。正確には周囲の狐をおびき寄せたのではなく、あちら側からお越しいただいたのよ。」
「はぁ。なんていえばいいのかわからないけれど。俺よりも取り返しがつかない状態なんだな、あんた。」
「それはどういう意味かしら?ヒキガエルくん。」
「まぁまぁ、二人とも仲良くしようじゃないか。これは神巫から笹ケ谷への巫女部の説明じゃないか。それを忘れて人格批判にまで発展させても当初の趣旨からはずれている。」
加地先生が慌てて場をまとめようと両手を忙しく動かした。俺は神巫の斜め上を睨み、一方の神巫は梓弓を見つめながら「自分は厨二病なのか。」と問いているようだった。
「まあつまり、巫女部というのはな、巫女なのだよ。」
「一向に話が見えませんが。」
「うん。説明が難しいから実際に見せたみたのだが、それでも難しいんだよなぁこればっかりは。」
加地先生が首を捻って天井を見上げている間に、俺は一連の出来事を反芻していた。
まず驚くべきなのは実際に狐の鳴き声が聞こえたという点であろう。ただの厨二病で、そういうのに憧れているだけならあんな芸当はできない。何かの仕掛けかタネが隠れているのだろうが、それがわからない現状、彼女の超能力とみなす他ならない。
そして特筆すべきなのは神巫の実家が神社であることだ。
巫女部というのは学校内の部活ではなく、彼女の実家も含めたより大きな世間体での活動母体のことなのかもしれない。
その場合、ますます俺が巫女部に入れさせられた理由がわからなくなる。
第一、俺は巫女って柄じゃないし。
「笹ケ谷。独り言の最中にすまないのだが、神巫がいい説明を思いついたようでな。それを聞いてあげてはくれないか?」
「別にいい説明ってわけじゃないですけれど。でもまあ、説明するとしたら巫女部というのは_」
「_巫女部というのは?」
「この世界の悪き悪霊や怨霊を成仏させる『真・天魔神道社』による活動のことよ。」
「「え?」」
加地先生と俺の驚嘆の声は静かな教室にこれでもかと響いた。
「まぁ、そうか。神巫が巫女部をそんなふうに捉えていたなんてな。」
「え、ちょ、先生も知らなかったんですか?」
「これは部員の中でしか語られない真実だから。部外者に説明するとなると難しいのよ。」
神巫は極めて真面目に答える。その様子に俺はますます信じられなくなる。
おいおい、厨二って域を超えてきたぞ…?
俺が頭を痛めて悩んでいると加地先生が静かに俺を持ち上げた。毎度思うが、加地先生の腕力はどうなっているのだろう。いくら体育会系といっても三十路の女教師なのに。
そうこうしているうちに加地先生は神巫に優しげに手を振って、俺を持ち上げたままプレハブから抜け出た。
「なんなんですか先生。プレハブに急にぶち込んだかと思ったら急に引っ張り出して。」
「あのな。一つ言いたいことがあるんだ。」
「なんです?」
「笹ケ谷も気づいていると思うが、あいつのアレは一種の病気なのだ。」
「そうでしょうね。」
俺の答えに軽く頷いてから加地先生は話し出した。
「普通に考えれば病気以外の何者でもない。けれどな、たまに説明できない事態を引き起こすことがあるんだ。今回もそうだ。いつもなら何も起こらない。梓弓を弾いても狐の鳴き声なんかしないんだよ。」
「そうだったんですか?ではさっきのアレはなんだったんですか。」
「それがわからないんだ。あいつはあの性格だからクラスでも孤立している。だから他に協力者がいてスピーカーで流しているとも考えづらい。だから気になるんだ。時折見せる、謎の挙動に。」
項垂れて夕暮れの赤い空を見つめる加地先生の姿は本当に疲弊しているようだった。
「周りの大人や同級生たちはその不思議な事態を見たりした時に、いつだって彼女を気味悪がるんだ。初めはあいつの両親だって自分の娘が神力を持っているのかもしれないと喜んでいたが、いつしか呪われていると考えだしたしな。」
「話の帰着点がわかりません。先生は何を言いたいのですか?」
「私一人では手に余ると言うことだ。彼女の日常生活まで全て見守ることなどできん。まして心の支えにも。けれどそのまま誰も彼女を守らなかったら彼女はいつか壊れてしまう。」
「いっそ壊れて現実をみた方がいいのでは?」
俺の言葉に加地先生は重いため息をついた。
「いつだって世界の方が正しい訳がない。君の言葉だったな。」
「はい。」
「世界が常に正しいってことはあり得ない。世界が間違っていることだって往々にある。いつだって世界に嫌われてきた彼女が今更世界を頼ることができるか?世界を澄んだまなこで見つめ返すことができるか?そのフェイズはとっくの前に過ぎたんだ。」
「では、彼女はどうすればいいんですか?」
「君が彼女を支えてやってほしい。普段のあの子は普通なんだ。普通の少女なんだ。君が内部から穏やかに説得させればいい。外部からの強制介入だけはするべきでないんだ。」
そう呟く加地先生には年相応の哀愁が漂っていた。
「普段の彼女が普通、ですか。俺にはただの毒舌少女にしか見えませんが。」
「はっはっは。確かに口は悪いかもな。とはいえ本当のところは優しいのだ。少し前も、居眠りをしていた私にブランケットをかけてくれたし_まぁ、君もそばで守ってやってくれないか?孤立の痛みを知る君ならうまくできるはずだ。」
「君にしか頼めない。」
そう言われて俺は返す言葉を失った。
孤独は別に悪いことではない。けれど孤立は良くないことだ。まして、幼いころから孤立を何度も経験し、友達らしい友達を持ったことがないなら尚更。
このままでは本当に彼女の人生はあらぬ方向へ向かってしまう。それをこの人はなんとかしたいのだ。
けれどもその権利も義務も彼女にはない。神巫という子をなんとかできるのは保護権を持つ親であって、ただの教師には何もできない。せいぜい、カウンセラーくらいだ。
「先生…」
けれども俺は違う。俺は彼女の友達になれる。親友にもなれるかもしれない。彼女の心を誰よりも近くで受け取り、助け合うことができるようになるかもしれない。その未来を、この加地 静香先生は望んでいる。
今の世の中では忘れられ、馬鹿にされてしまう、純粋で真っ直ぐで正しい心。同時に脆くて、尊い心。
世界は全て間違っていると思っていた。
「みんな」はいつだって悪で、俺だけが正しいのだと思っていた。
それは、その論理は訂正する必要があるようだ。
俺は姿勢を正した。目は泳ぎ、体はこの場から逃げ出そうとしている。それでも、加地先生が踏ん張って俺に頼んだように、俺もまた踏ん張るべきだ。
そしてきっとそれは正しいのだろう。
「先生。俺はですね、あいつのことが気に入りません。」
「そうか…すまない、この話は無かったことに_」
「いや違う。聞いてくれ。あいつの上から目線な態度だったり、厨二病的な思想を持っていることが気に入らないのは事実だ。同時に俺だってあんな超能力みたいなのに憧れるし、同じぼっちといえどこんなに先生に心配されてるんだから羨ましいって思ったりもする。」
加地先生は俺の続きの言葉を待っていた。俺は口を震わせながらも伝えることに尽力する。
「先生。俺はね、世界もみんなも何もかもが嫌いだ。常識も一般通念も嫌いでいつも敵対してきた。信じられるのは俺自身だけ。そんな俺だったからこそ今回のは驚いた。」
ふっと俺が笑う。加地先生はそれを不思議そうに見ている。加地先生が何かいうよりも先に俺が口を開く。
「加地先生。あんた、良いじゃないか。好きだよ俺。」
「え?」
さらに不思議がる加地先生を見て、俺は自分の言葉の意味に気づく。
「そういう意味じゃないんだ、違ってて。そうだ、俺は先生の心に感動したんだ。あんたは俺が正しいと思えた初めての他人。いや、もう他人じゃない。俺にとって、あんたは教師だ。」
「私は最初から教師だが?」
「それをようやく認識したって意味だ。」
「ふぅん。」
口を尖らせる加地先生の頬は緩んでいた。三十路の暴力女という肩書きは今のこの人には必要無かった。
正直、可愛い。
黒髪がたなびくところとか、つぶらな瞳とか。何よりもその優しい心に。
「じゃあ君は部活に入ってくれるか?それで神巫を守ってくれるか?」
「まぁ、神巫のことはまだあんまり好きではないけれど、でもあんたが言うのなら入ってみてもいいかなと思ったり。」
「思ったり?」
「思う、かな。あはは。」
「はっはっは。」
笑い声がプレハブの扉の前から広がって、夕暮れの空に飛んでいく。
ここは厳島高校。青春を謳歌せし高校生が集う小さな世界。
そこには少し考え方が普通ではない巫女さんもいれば、捻くれた思考のせいで孤立している男の子もいる。
そしてそんな彼女らを本気で心配する教師の姿も。
プレハブの窓を開いて神巫がこっちを見つけた。
「何してんの!勝手に抜け出して。カエルなら帰るってちゃんと言えよ。心配、しちゃったじゃん。」
「わかってるよ。でも生憎だが、俺はもうカエルじゃない。キツネだよ。あんたの部員だよ。」
「は?何言ってんの。ばっかじゃないの。」
その罵倒さえ気持ちがいい。
俺は静かに鞄を持ち上げた。




