秋の始まりはいつも肌寒い。
[2026年 10月25日 2年1組 35番 笹ヶ谷 正史 ]
何が正しくて、何が間違っているのか。
その分別をまず最初に考えるべきである。
そうすれば世界はもっと謙虚に、そして正しく形成される。
しかしそれは誰もしない。
いや、「みんな」という大きな主語がしてくれない。
俺が譲歩してこの行為を実行していたとしても、彼らはそれを無視し、そしてそれを正当化する。
彼らの行動動機は「みんながそれをしているか」か「それはめんどくさくないか」の二つを満たすことだ。
そんなものに、正しさなんてあるはずがない。
故に、俺だけが正しく、彼らは間違っている。
ならばなぜ、正しい俺が不幸を知って萎縮し、間違っている彼らが場を席巻しているのだ。
だからそうだな。
正しいのはいつだって俺だけだ。
そして間違っているのは「みんな」だけでなく、この「世界」もだ。
Q.E.D
証明完了。
「世界」もまた間違っている。
俺は細い足で木の床を力強く踏みしめていた。
鋭い目は衰えることなく、太陽光線を浴びていた。
だから俺の目は目の前の異常をいち早く感知した。
物語はここから始まる。
「なぁ笹ケ谷。ふざけてるのか?なんだこの文章は。」
「この世界の真理を語ったありがたい文章ですが。」
「はぁ、やっぱり頭がおかしいんだなお前は。」
「いいえおかしくありませんよ。論理は完璧です。」
「そういうことじゃない。私は何を書けと言った?」
「この世界を否定する文書です。」
こめかみにペンを当てたその女教師は鋭い目つきで俺を睨んでいた。威嚇だろうか。俺もまた睨みつけようとして_すると風が顔のそばを通り過ぎた。
「いってぇ。何するんですか。教職法違反じゃないんですか?」
「知らん。この拳は教師としての私ではなく、一人間としての君への拳だ。」
「そんなのありかよ。」
俺の最強の思想を綴った原稿用紙を彼女は胸ポケットにそっとしまい、今度は何やら重要そうな分厚いファイルを取り出していた。
俺がその一連の行動に怯んでいると、彼女は静かに息をついた。
「笹ケ谷。お前はクラスの仲間と仲良くできないのか?これ以上私の負担を増やさないでくれ。」
「俺は先生の負担になったつもりはないんですが、どこが負担になっていたんですか?」
「お前の存在そのものだ。その歪んだ目といつも世界を呪っているかのような姿勢。そして放課後の時間を使って話している今の状況も。」
「それは治りませんよ。」
「笹ケ谷。クラスで友達を一人でも作ってみたらどうだ。」
「それは不可能です。」
俺はそばにあった座椅子にゆっくりと腰を下ろした。曲がった背中をそのままに、首だけ傾けて彼女を視界に入れる。
「それはどうしてだ?」
「それくらいわからないんですか?加地先生。なぜならすでにクラスでの俺の立ち位置は確立しているんですよ。ぼっちはぼっちであることを強要される。ぼっちがぼっちらしくない行動をすれば修正されるだけ。修正までされずとも、彼らがそんな俺をそれを受け入れることは一切ない。まして友達作りなんか、不可能に決まってる。」
「初めから不可能と言っていては何も始まらんぞ。」
「俺は始めるつもりもありませんし、それに妥協と形式で作った自称友達と仲良くするくらいなら一人でいる方がいいです。」
「つくづく捻くれているな。」
完璧だ。三十路近い人生の先輩をこれでもかと論理で打ち砕く。やはり俺だけが正しいのだろう。
「既存の共同体ではもう手遅れなのか。うむ。では、君は部活に入るべきだ。」
「え?先生。今の話を聞いてましたか?」
パッと顔を明るくさせた三十路近い女教師は先ほどのファイルに何やら記入し始めた。その行為を訝しげに思う俺を嘲笑うかのように、壁越しに高校生の騒ぎ声がした。
「やっぱりあんな低俗なもの、無理だ。」
ぽろっとこぼれた俺の本心に反応する声があった。
「ん?君もそれを言うか…やはり、君はあの部活に入るべきだ。」
「いや、入りませんよ。そもそもなんです部活って。剣道部を退部したの覚えてないんですか?もう懲り懲りです。」
「いや、剣道部ではない。君が入るのは、とある文化部だ。」
「いやだ、絶対に同じクラスのやつがいる。いい笑い者だ。」
「安心しろ。部員は一人だ。」
「それ、部活として成立しているんですか。」
加地先生はすっと立ち上がって歩き出した。俺が呆然とその様子を見上げていることに気がついたのか、小さく手招きをしてきた。
「な、なんですか。」
「ちょっときたまえ。その部活に案内するよ。」
「嫌だって言ってるのに。」
この学校は第一棟、第二棟、体育館、そして中庭と小講堂などで構成されている。第一棟は青春を謳歌する彼ら彼女らの教室そのものであり、第二棟は文化部全般と剣道部、柔道部が利用する部活棟となっている。
俺はもちろんその全てが嫌いなのだが。
「え、ちょっと。文化部なら第二棟じゃないんですか?」
「あぁ、違う。だって君は第二棟がトラウマなのだろう?」
ニヒルに笑う女教師は先を進む。俺もまた追いかけるように走った。
「ぷ、プレハブ?」
「いや違う。災害緊急用避難施設だ。」
「なんですか災害緊急用避難施設って。」
「長いから私はプレハブと呼んでいる。」
「じゃあ合ってたじゃん。あ、ちょ、先生。」
女教師はどかどかとプレハブの中に入っていった。俺は肩身を狭めながら後を追う。すると彼女は突き当たりにある教室の扉をノックなしで開けた。
「…先生。ノックしてくださいと言ったはずですが。」
「すまんすまん。どうにもいつも忘れるのだ。」
俺は壁際にしゃがんで聞き耳を立てる。そばに落ちていた短冊がやはりここは青春のイベント会場であることを教える。そうだ、ここは俺の居場所じゃない。去るべきだ。俺の足は静かに出口に向かった。
「おい、笹ケ谷。何をしている。」
「_誰ですか?笹ケ谷って。依頼者ですか?」
女子に名前を呼ばれた。何年ぶりだろうか。
「依頼者ではない。まあ、こいつのことだ。」
勢いよく襟を掴まれて、引き摺り出されるモグラのように俺は引っ張り出された。目を瞑り顔を隠す俺に対してなのか、女性の声がまた聞こえた。
「この醜いカエルは一体なんですか?」
ひどいよ。
「ああ。こいつは笹ケ谷という生徒だ。」
「佐々谷…知っています。サッカー部のキャプテンですよね。それがこんなカエルに成り果ててしまったのですか。」
「佐々谷ではない。こいつは笹ケ谷。元剣道部の2年1組35番。」
「そうですか_初めて聞きました。」
「神巫神巫も知らないこともあるのだな。」
ポツリと言った加地先生の言葉に俺は反応する。虚空を見つめる俺の瞳は歪んでいる。
「そんなのいくらでもあるだろ。同じクラスになったことないやつなんて知る機会ないし。まぁ、そもそも俺は同じクラスのやつもわからんが。」
「可哀想な人。」
一言一言が重すぎる彼女の言葉は俺の自尊心を簡単に破壊し尽くす。その事態に受け入れられない俺は心の中で唸り散らかす。
「神巫は生徒名簿を全て暗記している。だから普通なら知らない人間なんていないはずなのだ。」
なんだろう。人間コンピューターとでも言うのだろうか。
「一生関わりがないまま卒業する奴らのことを覚えても、それは意味あるのか?」
「意味はあるわ。私は、同じ学校を歩き回る人間全てを理解しておきたいの。知らない人間が学校にいるなんて考えるだけで恐ろしいわ。」
理解できない価値観だった。これだから人間関係というものは大変なのだ。ハイカロリーな生活は性に合わない。
「神巫のその価値観で考えるとするならば、この男の素性を知らなかった時点で不完全だったということだが、今の心境はどうだい?神巫。」
「先生、そういう、関係を悪化させる聞き方はやめましょうよ。」
「いいえ。別にいいわ。だって私はあなたと関係性を形成するつもりは一切ないから、形成されていないものを悪化させてもなんら影響はないわ。」
「それでどうなんだい?神巫。」
「驚いたわ。こんな悪目立ちするカエルを覚えていなかっことよりも、どうしてこの男の名前が生徒名簿に載っていなかったのかに。」
「鋭いじゃないか、神巫。」
二人の会話を聞いて、俺の口角は自然と上がった。こいつもまた同じ罠にハマったのだ。そのことに俺は非常にはしゃいでしまう。
「気持ち悪い人。」
「うっ…」
「まぁまぁ神巫。では2年1組35番の人間の名前を思い出せるか?」
「35番ですか。えっと…生徒名簿には、笹ケ谷航平と書いてあったはずですが、って、え?_どういうことですか。」
「実はな、彼は最初から_」
「俺が言いますよ。俺はクラス名簿を偽装した。それがことの真相だ。」
「は?なんでそんなことを。」
「だってかっこいいだろ。どんなに俺を馬鹿にしていても誰も俺の正体を知らないんだぜ?航平じゃなくて正史ってことにな。彼らが馬鹿にしているのは俺じゃない。俺が作り出した幻影さ。」
「ではあなたはクラスではなんと呼ばれているの?航平?正史?」
女教師は少し身を引いていた。俺に興味を示した完璧主義者に俺は講義を始めた。
「クラスでは航平だよ。とはいえそもそも友達も何もいないから苗字でしか呼ばれないがな。まあ定期テストや教師には航平で通している。」
「では、なぜ加地先生はあなたの本名を知っていたの?」
「ああ、それは私がこいつの家族と話した時に知ったからだ。」
「_あの時は恥ずかしかった。」
ふっと笑う加地先生、虚空を見つめる俺。そして本気で何かを心配している神巫。
「生徒名簿で名前を偽装していた場合、大学受験も偽名になりますよね?学校側から申請しますから。その場合、大学の生徒証も偽名になって、でも、保険や口座などに入るときは本名にしないといけない。その場合、大学の生徒証が偽名で使えなくなるから、学歴がない状態になりませんか?」
「_ひょっとして俺、やばいことしてる?」
「ま、まあ、その話は今はいいじゃないか。」
「よくないですよ。え?そんなにやばいことだったのかこれ。」
「少し考えればわかることじゃないの。偽名なんて公共で使うべきじゃないのよ。本当にあなた、ばかね。」
絶句する俺の肩を叩いて平塚先生は宣言した。
「では今日を持って、笹ケ谷は巫女部に入部する。」
「は?何、急に。」
「聞いていません、加地先生。嫌です。」
行き場を失った両手は宙を彷徨う。揺れる瞳は焦点が合わない。
「ただでさえ、偽名への不安で心がいっぱいなのにこの女の部活に入る?絶対に無理です。毎日蜂の巣にされる。」
「笹ケ谷。お前の偽名云々は後で私が処理しておいてやる。」
「あ、ありがとうございます。」
「その代わりお前はこの部に入部しろ。交換条件だ。」
「こんな冷徹毒舌女子となんか嫌だ。本当に嫌だ。そもそも何をする部活なんだ。」
「私の方が嫌です。こんな世間を知らない''カエル''となんか。」
カエルって、そういう意味だったのかよ。
「まあ仲良くせんでもいい。うまくやっていけばいいんだ。リハビリも兼ねて、な。」
「は、はぁ。」
「…」
かくして俺の間違った青春は始まりを迎えるのだった。




