サイドストーリー:泥濘に沈む栄光、勇者の果てなき無間地獄
ひどい頭痛と、胃を引っ掻き回されるような吐き気で目が覚めた。
薄暗い野営用テントの中には、安酒の饐えた匂いと、汗と泥の悪臭が充満している。私は重い体をゆっくりと起こし、傍らに転がっていた空の革袋を忌々しげに蹴り飛ばした。革袋はテントの支柱に当たり、虚しい音を立てて転がった。
右手首に走る鋭い痛みに顔をしかめる。あの辺境の村で、あの無能な戦士――カエルの剣によって穿たれた傷だ。肉はとうに塞がっているはずだが、雨の日や朝晩の冷え込みが厳しい時には、呪いのようにズキズキと痛み出す。その度に、泥水の中に這いつくばらされ、首元に剣を突きつけられたあの圧倒的な屈辱と恐怖が、昨日のことのように鮮明に蘇ってくるのだ。
「……くそっ。くそっ、くそぉぉぉッ!」
私は両手で頭を抱え、唸り声を上げた。
俺は勇者だ。神に選ばれ、伝説の武具を身に纏い、魔王を討ち果たすためにこの世界に生を受けた、特別な存在のはずだ。王都のパレードでは数万の民衆が私の名を叫び、王族ですら私に頭を下げた。どんな強大な魔物も、私の強大な魔法と剣技の前にひれ伏してきた。私は間違いなく、無敵の英雄だったのだ。
だが、今の私にその面影はない。
身につけている伝説の鎧は泥と血で汚れ、手入れもされずに赤錆が浮いている。王家の宝物庫から持ち出した代用品の剣は、私の強大な魔力に耐えきれず、すでに刃こぼれを起こしていた。
そして何より私を狂わせているのは、かつて私の背後を常に守護していた、あの温かく、絶対的な安心感をもたらしてくれた「治癒の光」が、もう二度と私に降り注ぐことはないという残酷な事実だった。
「……ガレス様。朝食の支度が整いました」
テントの入り口から、おずおずとした声がかけられた。
私は舌打ちをし、天幕を乱暴に跳ね上げた。そこに立っていたのは、純白の法衣に身を包んだ若い女だった。教会の連中が「第二の聖女」としてでっち上げた、ただの修道女だ。顔つきや体つきはエララに似せているが、その中身は全くの別物だった。
彼女には、エララのような無尽蔵の魔力も、死にかけた人間を一瞬で蘇らせる奇跡の治癒力もない。せいぜい、擦り傷を塞ぎ、軽い疲労を和らげる程度の、街のその辺にいる下級神官と変わらない程度の力しかないのだ。
「遅い! いつまで俺を待たせる気だ、この役立たずが!」
「ひっ……! も、申し訳ございません……!」
私が怒鳴りつけると、偽聖女はビクッと肩を震わせ、泣きそうな顔で後ずさりをした。
その怯えた顔を見るだけで、私の腸は煮えくり返った。
エララならこんなことはなかった。彼女は常に私の体調を気遣い、私が言葉を発する前にすべてを完璧にこなしていた。そして何より、どれほど深い傷を負っても、彼女の手に触れられれば、一瞬で痛みが消え去り、再び戦場へと飛び出していくことができたのだ。
エララがいてくれたからこそ、私は防御などという煩わしいものを捨て、ただ己の魔力を解放して攻撃のみに特化することができた。私の圧倒的な強さは、彼女の無尽蔵の治癒力があって初めて成立するものだったのだ。
いや、違う。それだけではない。
私は泥濘んだ地面を踏みしめながら、記憶の奥底に蓋をしていた「もう一人の男」の顔を思い浮かべた。
戦士カエル。
私が最も見下し、嘲笑い、パーティの寄生虫だと信じて疑わなかった男。
だが、辺境の村で彼と対峙し、その剣撃を直接浴びた時、私は初めて自分の致命的な勘違いに気づかされた。
彼の剣は、決して派手ではなかった。伝説の武器でもなければ、魔法の属性が付与されているわけでもない。だが、その動きには一切の無駄がなく、私の攻撃の死角を完璧に見切り、最も脆い部分を的確に穿ってきたのだ。
思い返せば、これまでの魔物との戦いでも、巨大な魔物の爪が私に届く直前、必ず彼の剣がその軌道を逸らしていた。私が詠唱の隙を晒した時、必ず彼が魔物のヘイトを一身に集め、泥まみれになりながら私を守っていたのだ。
私は自分が一人で敵を殲滅していると錯覚していた。だが実際には、カエルが完璧な盾として私の死角を塞ぎ、エララが完璧な癒し手として私の生命線を繋ぎ止めていたからこそ、私は「無敵の勇者」として振る舞うことができていたのだ。
その二つの柱を、私は自らの手でへし折った。
自分の傲慢さと、くだらない独占欲によって。
「……認めん。俺は勇者だ。あんなゴミどもの助けなどなくても、俺は一人で戦えるはずなんだ……!」
自分に言い聞かせるように呟くが、その声はひどく震えていた。
野営地を歩くと、前線で戦う兵士たちが私に向ける視線が痛いほど突き刺さる。
かつては尊敬と憧望の眼差しだったそれは、今やあからさまな軽蔑と冷笑に変わっていた。
『見ろよ、あの臆病者の勇者様を』
『昨日の戦闘でも、かすり傷一つ恐れて、ずっと俺たちの後ろで震えてやがった』
『聖女様が死んでから、あいつはただの木偶の坊だ。あんなのが俺たちの指揮官だなんて、冗談じゃねえぞ』
兵士たちのひそひそ話が耳に届くたび、私は怒りで我を忘れそうになる。だが、彼らに反論して暴力を振るえば、彼らは私を見捨てて撤退してしまうだろう。彼らの肉壁がなければ、私は魔物の前に完全に丸裸になってしまう。だから、私は下唇を噛み破るほど強く噛み締め、聞こえないふりをしてやり過ごすしかなかった。
その日の午後。我々の部隊は、魔王軍の先鋒部隊と平原で激突した。
空を覆うほどの巨大な飛行魔物と、地響きを立てて突進してくる重装甲のオークの群れ。かつての私であれば、不敵な笑みを浮かべて敵の群れに単騎で突入し、広範囲殲滅魔法で一網打尽にしていただろう。
だが、今の私にそんな真似ができるはずがなかった。
「前衛、盾を構えろ! 絶対に陣形を崩すな! 俺に魔物を近づけるな!」
私は部隊の最後尾、偽聖女の隣に陣取り、血走った目で兵士たちに怒鳴り散らしていた。
「魔法部隊、何をしている! 早く空の魔物を撃ち落とせ! 俺の詠唱の邪魔をさせるな!」
私自身も魔法を放つが、その威力は全盛期の半分にも満たなかった。魔物が少しでもこちらに近づく素振りを見せると、恐怖で詠唱が乱れ、魔力の制御が狂ってしまうのだ。
もし、あいつらの爪が私に届けば。
もし、私の腕が切り落とされたり、内臓を抉られたりすれば。
もう二度と元には戻らない。エララはいないのだ。一度負った重傷は、私を死の淵へと引きずり込み、二度と戦場に立てない体にしてしまう。
その強迫観念が、私の精神を四六時中責め立て、魔法の威力を削ぎ落としていた。
「ギャァァァッ!」
前衛の兵士がオークの棍棒で吹き飛ばされ、悲鳴を上げて絶命した。
陣形の一角が崩れ、そこから数体のオークが私の方へと雪崩れ込んでくる。
「ひっ……!」
私の足が、恐怖で後ろへと退いた。
本来なら、ここで私が前に出て剣を振るい、陣形を立て直さなければならない。だが、オークの振り上げる巨大な棍棒を見た瞬間、私の脳裏に辺境での光景――カエルの剣が私の手首を穿ち、泥水に叩き伏せられたあの瞬間の光景がフラッシュバックしたのだ。
「来るな! 俺に近づくなぁぁッ!」
私はパニックになり、手当たり次第に魔力弾を放った。それはオークだけでなく、味方の兵士をも巻き込んで炸裂した。
「勇者様!? 何をするんですか!」
「やめろ、味方だぞ!」
兵士たちの怒号が飛び交うが、私の耳には届かない。ただ、自分が傷つくことだけが恐ろしかった。
その時、オークの一体が私の放った魔力弾を掻き潜り、咆哮と共に私に向かって跳躍してきた。
「死ねッ!!」
私は代用品の剣を盲滅法に振り回した。
ガキンッ! という鈍い音と共に、剣はオークの硬い皮膚に弾かれ、私の手からすっぽ抜けて飛んでいった。
「あ……」
丸腰になった私に向かって、オークの太い腕が迫る。
私は咄嗟に隣にいた偽聖女の腕を掴み、彼女を自分の盾にするように前へと引き倒した。
「きゃあっ!?」
偽聖女が悲鳴を上げた瞬間、オークの爪が彼女の肩を深く抉った。鮮血が宙を舞い、私の顔に生温かい血しぶきが降り注いだ。
「がはっ……」
偽聖女が地面に崩れ落ちる。
その隙に、私は踵を返し、戦場から背を向けて全力で走り出した。
「勇者様が逃げたぞ!!」
「あの野郎、聖女様を盾にしやがった!!」
背後から兵士たちの絶望と怒りに満ちた叫び声が聞こえてくるが、私は振り返らなかった。
泥濘んだ地面に足を取られ、何度も転びそうになりながら、ただひたすらに自分の命だけを守るために走り続けた。
誇りも、名誉も、何もかもどうでもよかった。死にたくない。ただ、それだけだった。
どれくらい走っただろうか。
肺が焼け焦げるように痛み、足が鉛のように重くなった頃、私は薄暗い森の中で枯れ木につまずき、泥水の中に盛大に転がった。
「はぁっ……はぁっ……」
泥だらけの顔を上げ、荒い息を吐きながら周囲を見回す。追ってくる魔物も、兵士たちの姿もない。私は完全に一人で、戦場から逃げ出したのだ。
自らの惨めな姿を水たまりに映し、私は声を上げて笑い出した。
「はは……ははははっ! 俺は生き延びたぞ……! さすがは俺だ。ゴミどもが死のうが、俺さえ生き残ればそれでいいんだ……っ」
狂ったように笑うが、目からは涙がとめどなく溢れ出していた。
何が勇者だ。何が英雄だ。
私はただの、怯えた小悪党に過ぎない。カエルが泥に塗れて守ってくれていたからこそ輝けていた、ただの張りぼてだったのだ。
「エララ……カエル……」
泥水に顔を押し当てながら、私は決して戻らない二人の名前を呼んだ。
もし、時間を巻き戻せるのなら。
もし、彼らを嘲笑わず、彼らの価値を認め、仲間として共に歩むことができていたなら。私は今でも、彼らと共に笑い合いながら、真の英雄として魔王に立ち向かうことができていたのだろうか。
だが、その問いに対する答えは永遠に出ない。私が自らの手で彼らを叩き壊し、永遠に手の届かない場所へと追いやってしまったのだから。
雨が降り始めた。
冷たい雨粒が、泥だらけの私を容赦なく打ち据える。
私はここから、偽聖女が死に、部隊が全滅したという言い訳を考え、再び王国へとしっぽを巻いて逃げ帰るのだろう。そしてまた別の偽物の聖女を与えられ、兵士たちから冷ややかな視線を浴びながら、終わりのない恐怖の戦場へと駆り出されるのだ。
誰にも愛されず、誰にも信じられず、ただ「勇者」という呪われた称号に縛り付けられたまま、死の恐怖に怯え続ける地獄のような日々。
辺境の村で彼らがどんなに幸せな時間を過ごしていようと、私にはもはや想像することすら許されない。
私の人生は、あの路地裏でエララを強引に抱き寄せ、カエルをゴミだと嘲笑ったあの瞬間に、すでに完全に終わっていたのだ。
泥濘に沈む伝説の鎧の重さに耐えかね、私はそのまま冷たい地面に泣き伏した。
王国の落日は近い。そして私の魂は、魔王に殺されるよりもずっと前に、すでに醜く腐り果てていたのだった。




