第6章ー30
そんな内心の想いを押し隠して、スカパ・フローに集った各国の海軍軍人は、バルト海沿岸への上陸作戦の支援について、詳細を詰めることになった。
米海軍のニミッツ提督、英海軍のカニンガム提督、そして、日本海軍の嶋田繁太郎大将を中心として、各国の海軍軍人は、積極的な協議を行った。
史上最大の上陸作戦に相応しい、史上最大の支援艦隊が動員されている以上、それに相応しい結果を挙げ、上陸作戦を成功に導かねばならない。
日本海兵隊6個師団、米海兵隊6個師団を投入して、史上最大の上陸作戦、バルト海沿岸への上陸作戦は行われることになっている。
その上陸作戦が発動されるのは、5月半ばの予定だった。
それは、その頃が新月の頃に辺り、上陸作戦を展開するのに少しでも上陸部隊の移動を欺瞞するのに望ましいと考えられたことや、潮の干満が最大に近いことから、それだけ上陸作戦を展開するのに適していると考えられたことから選ばれたものだった。
そして、そのための上陸作戦用の船舶も孜々営々と米英日において建造されていた。
日本が開発したあきつ丸等を参考にして、英米も似たような上陸作戦用の船舶を大量に建造したのだ。
皮肉なことに、モスクワを英軍が目指すことになったことから、英軍では上陸作戦用の船舶が余剰になってしまい、日本に格安で譲渡されるという事態まで起こっている。
とは言え、最大の生産国は、文句なしに米国であり、米国からの提供もあって、日本は6個師団の上陸作戦を展開する準備を整えることが出来た。
更に現地では、上陸作戦を少しでも容易にするための下工作も進んでいた。
現地のバルト三国の独立を目指すレジスタンス活動家等は、上陸作戦を展開する場所の防備体制等について得られた情報を様々な手段で、連合国側に伝えていた。
勿論、航空偵察や通信傍受といった方法等も併用されている。
そのため、掌を指すようにとまでは行かないが、この1942年4月の時点で、かなりの精度で独ソ軍の防備体制は、連合国側に判明していた。
こういった情報を活用し、連合国側の海軍軍人は、各国の艦隊に目標を割り当てていった。
とは言え、独ソ軍もバルト海沿岸を全くの無防備としている訳ではない。
上陸作戦が展開可能と考える場所には、半ば捨て石になりかねないが、沿岸防衛のための部隊をそれなりに配置している。
これは、それらの部隊で上陸作戦を遅延させることで、後方に展開している装甲部隊を中核とする機動部隊、決戦用の部隊を上陸地点に急行させて、上陸作戦を失敗に終わらせようという意図から配置されたものだったのである。
更に海岸沿いに海岸要塞、海岸砲台を要所には独ソ軍は整備していた。
それらは、500キロ爆弾の直撃に耐えることを求められ、1ヘクタール辺り3トンの爆弾の雨に耐えられることも求められた。
だが、それだけの防御設備を整えるだけの建設資材を調達することは、幾らソ連でも無理があった。
更に冬季の厳寒という敵まで、独ソ軍が1941年の秋から1942年の春に掛けて、大急ぎで防御設備を整えようとした際にはいたのだ。
そのために、そういった防御設備が完全に整っているとは、とても言い難い有様だった。
こういった様々な状況のために、連合国側の海軍、及び上陸作戦を展開しようとする海兵隊の面々は、独ソ軍の防備についての幾つかの穴に、この討議の際に気付くことが出来た。
そして、それらの穴を更に大きくし、上陸作戦を成功に導こうと連合国側の面々は、知恵を巡らすことになったのである。
5月初めに、こういった準備は整ったと判断された。
上陸作戦部隊はダンツィヒ等に前進した。
支援艦隊も同様に移動、戦機は急速に高まった。
第6章の終わりです。
次から、エピローグになります。
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