千四十八日目
「……うーん、考えておくね」
少しだけ困ったような表情を見せるキリはアシェドとエナにそう言った。二人は彼に軍人育成学校を勧めていたようである。
アシェドはそろそろキリも将来のことについて考える時期だ、と言っていたから。それで訊いてみた結果は少しばかりあやしかった。考えておくね、という言葉はあまりいい答えとは言いがたい。その話をしたからではないにしろ、逃げるようにして自室の方へと行ってしまった。リビングには二人が残され、彼らは顔を見合わせる。
別にこの家から追い出そうと考えてはいない。むしろ、キリにとっての将来を考えているからこその選択肢を差し出したまでだった。
「お父さん……」
「大丈夫さ。考えておくということは、まだ時間が必要なだけだ」
だとしても、パンフレットを見せた状態での勧め方もよくなかったのだろうか。アシェドはキリに見せていた学校のパンフレットをテーブルの上に放り投げるようにしておいた。学校には本がたくさんあるぞ、とも教えた。色んなこと、知りたいことも学べるぞ、とも教えた。それでも逆効果だったのかは定かではない。というよりも、その話をしているときのあの態度はまさしく興味がないとでも言わんばかりだったのだから。視線だって、こちらにもパンフレットにも向けられていない。どこかへと働きに行くか、という話に至っては――向こうが別の話へと逸らしてくる始末。
今のキリにとって、こうして昼は農作業を手伝って、夜は自室で好きな本を読む。これが幸福なのか。だったならば、その幸せをいかにして壊さずにできるのか。アシェドは頭を掻きながら「畑の方、片付けてくる」と外へと出ていってしまった。
エナはアシェドを見送ると、そのパンフレットを片付けようと適当にチェストの引き出しを開けた。そこにはずっと前に彼が拾ったティビー・ウラビのお面が布に包まれた物があった。北地域連続殺人事件の犯人がしていた物――未だとして、その犯人は捕まっていないどころか、目撃情報すらもなくなっていた。
◆
ここ最近、アシェドは連続殺人事件の犯人の証拠となるものを捜索していなかった。理由は村人たちの声が原因である。実際に村の中や慟哭山の方へと赴いては調査をしようとしていた。それが仇となったようで、村長たちから非難を浴びるようになったのだ。だからこそ、ほとぼりが冷めるまで動くことはないのである。まだ、証拠はあのティビー・ウラビのお面だけ。他に証拠は一切ない。
これのせいであるとは思いたくなかったが、ここ数日はカワダやサカキたちも冷たい気がしてたまらなかった。調査をしようという考え自体がいけなかったのか。アシェドはため息をつきながら、家の裏手へと回ると――。
「ため息ばっかりついているね、おじさん」
家の裏手の斜面に生えている木の上に登っているのはヴィンだった。大きな枝に腰かけて、こちらの疲れきった顔のシャッターをいただきます、と言わんばかりにフラッシュを光らせる。
「まあ、そりゃあな」
いつもと変わらないのはヴィンぐらいか。それだけが唯一の精神的緩和剤と言っても過言ではないだろう。彼は木から下りながら「教えてあげようか?」と言ってきた。教えてあげる、というのは自分が知っていることを教えるとでも? それはどのようなことを?
「どのことについて教えてくれるとでも?」
「んー? 俺が知っている事件の真相。どう? 知りたい?」
「……是非とも教えてくれ」
そう、ヴィンは知っているはず。村長もカワダもサカキも黙っている――慟哭山のバケモノについて。あの石碑について。これまでの会話や話において、彼は慟哭山のバケモノとやらに遭遇している、と仮説を立てていた。以前、サカキに破り捨てられた写真。あれは山のバケモノのヒントになっていたはずだ。写真を通して、証拠を手に入れたと言っていたのだ。
すべてを知っているからこそ、訊きたかった。それでも、ヴィンははぐらかしていた。大人だからわかる子どもの隠し事。気付いていなかったわけではない。ただ、口に出せばどうなるのかわかっていたからだと思う。言いたくないことがあったんだと思う。それでも、こうして教えてあげようか、と言ってくる時点で――自分が知っていることを言いたいのだろう。これは願ってもいないことだった。
アシェドの頼みにヴィンは「いいよ」と答えた。
「でも、ここじゃあ、誰に聞かれるかわかったもんじゃないし……こっちに来てよ」
そう言うと、アシェドを慟哭山の方へと誘った。先を行くヴィンに着いていく。あとを追いながらも、思う。どうして、今になって真相を教えてあげるだなんて言い出してきたのか、と。罠か、とも思ったが――こんな斜面に落とし穴を掘るほどまでにするのだろうか。というか、最近はナオミの悲鳴もめっきり聞かなくなった。自分も落とされることはなくなっていた。だが、カメラだけは手放さない。写真を撮るということだけは止めようとしていなかった。
ゆっくりと山を登って――ああ、そう言えば、と思う。この先はあの殺人犯が残していったティビー・ウラビのお面が括りつけられていた木があるからだ。その木を通り過ぎる。どんどん上へと、奥へと入り込んでいく。ここから村の方、黒の皇国の方面へと行ったことはない。この先がどうなっているかもよく把握していない。あるとすれば、物置小屋と石碑ぐらいか。
あるところでヴィンは「この山のバケモノ」と呟いて、立ち止まる。アシェドの方へと振り向いた。
「俺はそいつに会ったことがあるよ」
その事実に驚きよりもほんの少しだけ喜んだ。自分の予想が当たっていたのだ。前からおかしいと思っていたのだ。山に入っただけで二日間も折檻されるだなんて。どういうやつだったんだ、と訊こうとするのだが――アシェドよりもヴィンは遮ってきて「山のバケモノ」と村の方に視線を向ける。
「そいつの存在を隠したくて、村長たちはおじさんたちに黙っていたんだ。嘘をついていたんだ」
慟哭山のバケモノの存在を隠したかった? なぜなのか。アシェドが片眉を上げてヴィンを見つめる。足を進めた。それを追いかける。彼は歩きながら口を開くのだった。
「元々は亡霊がこの山に呪いをかけたんだ」
「…………」
小さな物置小屋を通り過ぎた。そうして、数十メートルほど歩いて、やって来たのはヴィンからもらった写真と同じ石碑だった。
「その呪いでバケモノが現れた」
ヴィンは小さく笑いながら、石碑の後ろに置いていたのか。大きな鞄を手にした。
「村長の息子はバケモノに殺された。連続殺人犯じゃない。この山のバケモノに、ね」
「えっ」
どういうことなんだ、と詳しく聞こうとしたアシェドであったが、それをヴィンはまたしても遮ってきた。彼は「ここでお別れだね」と少しだけ寂しそうな顔をする。
「おじさん、俺にカメラマンになったらって言ったよね? それで、俺はそうなるためにこの村から出ていくよ」
「出ていくって……?」
「何でも、黒の皇国に有名なカメラマンがいるらしいから、その人の弟子にしてもらおうと思ってね」
「そうか」
これがヴィンが導き出した答えであるならば、アシェドは何も言えなかった。ここで彼の人生の行く末を見送るしかないのだから。おそらくは――ヴィンはこれ以上のことは言わないだろう。どうもこの山には亡霊がいたらしい。その呪いかのように、バケモノが生まれ、そいつが村長の息子が殺された。そこまで。それ以上の経緯は真実を知っていたとしても――。
俯き、どこか残念そうにしていたのだが、ヴィンは「おじさん言っていたからね」と笑う。
「俺にとって何かしらの意義を見出せるならって。だから、俺はこの世の真実を知るために写真を撮ることにしたよ。俺がいなければ、誰が撮るんだ、って言わせるためにね」
ヴィンは言う。もうこの村に帰ってくることもないと思う、と。これだけ嘘で固めていた村なのだ。きっと彼はそんな村を知った上で嫌気が差したのかもしれない。
「村に戻りづらいなら、俺の家に来いよ。いつでも歓迎してやるよ」
アシェドのその言葉に「ありがとう」と言った。だが、こちらを振り返ることなく、そのまま黒の皇国の方へと向かうのであった。
ヴィンを見送っても、その場に留まる。改めてそこに佇む石碑を見た。そこには何か文字が書かれているようだが、読めそうにない。かろうじてわかるのは『キイチ』という人の名前。そして、その下には『人』と書かれてある。そこだけは読めた。このキイチという人物――一体誰のことを差しているのか。石碑に触れていると――。
「呪われるぜ、デベッガさんよ」
いつの間にだろうか。カワダが怪訝そうにこちらの方へとやって来るのが見えた。くわえタバコでその紫煙を周りにまき散らしている彼は「なんでこんなところにいるんだ?」と設問をしてくる。その声音からして、明らかに敵対心があるように思えた。
「何って、息子も村長さんも村の人たちも被害に遭わないために、私一人で事件の調査をしていたところですよ」
「事件って、何も証拠は掴めていないってのにか?」
「ありますよ。これが」
石碑を指差しながら、そう言った。これにカワダは小さく反応を見せる。
「ヴィンが、詳しくは教えてくれなかったけれども、教えてくれました。村長さんの息子さんの件について」
「…………」
「山のバケモノに殺されたって」
カワダはタバコの煙を吐きながら「知ったのか」と呆れたようにして言う。
「とうとう、デベッガさんも」
「呪いとか亡霊の類であるならば、確かに軍は動かせそうにもありませんもんね。だとしても、村長さんやカワダさんたちが嘘ついていたことは擁護できそうにありませんよ」
それが目に見えない幽霊的存在に殺されたとしても、とカワダの方を見て言った。これに何も言ってこない。
「私は結局、この山のバケモノの正体を知りません。それでも、事実は先ほど知りました。カワダさん、教えてください。慟哭山のバケモノって何ですか?」
じっとこちらを見てくるカワダ。だが、アシェドは目を逸らそうとは思わなかった。ただ、黙って相手の出方を待つだけ。何を言ってくれるのか、何を語ってくれるのか。それをひたすらに待つのみ。
ややあって、カワダは根負けしたのか、近くに生えていた木の幹に寄りかかり、タバコを吹かしつつ「亡霊」と答えた。
「山のバケモノ正体は亡霊の呪いだよ。呪いによって、生まれた存在」
「ヴィンもそう言っていました」
「ところで、話は変わるが……あの悪童はどこへ行った?」
「黒の皇国に行きましたよ。そこでカメラマンの弟子になると言い残して」
訊いたのはそちらなのに、どうでもよさそうにして「ふぅん」とタバコの火を消した。
「そうかい」
「……話が逸れましたね。結局、息子さんは山のバケモノの逆鱗に触れて殺されたとでも?」
「そうだね、亡霊の呪いに殺されたようなもの。十三年前に黒の皇国からやって来た亡霊に村長さんところの息子さんたちが殺された」
その『息子さんたち』という言葉が気になった。いや、以前にヴィンは言っていた。ここで二人殺害された、という話を。アシェドは「もしかして」と石碑を見る。
「キイチという人物もその一人ですか?」
「そう。村長さんの『息子』。一番亡霊の呪いにかかって死んじまったよ」
「彼も山のバケモノに……?」
「いいや? 本物の、亡霊の呪いだよ。憑かれたようにして、災いを受けて、死んだ。この前の息子さんは逆鱗というか、山にいたから殺されたようなものさ。バケモノは山にいるからな」
「…………」
カワダは新しいタバコを取り出して、火をつけた。その場に新しいタバコのにおいが立ち込める。そうして、不安そうにするアシェドを見て「だから言っただろ?」と皮肉を込めた笑いを見せた。
「呪いという存在、デベッガさんがどうにかできることじゃないって」
「……そうですね」
まさにその通りである。アシェドは呪いを解いたりするような力を持っているわけでもないし、現実にそれをどうにかできるわけでもない。カワダの忠告は素直に聞いておくべきだったのかもしれない。ここにきての真実を知り、深く眉根を寄せた。
「村長や俺としては、外から来た人たちがこの呪いを受けないように真実を伏せていただけ。だが、デベッガさん。あんたもう、遅いよ」
別に脅しているわけではないようだ。ただ、これから先に起こりうる現実が見えているように思えて仕方がないのである。
「深いところまで来てしまったんだ。その内、亡霊やバケモノがデベッガさんを狙うだろうね。存在を知った罪の呪いってやつに。キイチ同様」
何も言えやしなかった。背中がひどく寒いと思う。これは錯覚だろうか。それとも、次の標的は自分だと言わんばかりに亡霊が――山のバケモノが狙いをつけたとでも?
「逃げても呪いや山のバケモノは着いてくるよ」
「そ、そんなっ……!」
おそらくは自分だけではない、とアシェドは焦る。こうして、家族で村の事件の真実を探ろうとしていたのだ。エナもキリも――! もっと危険だ。あの二人だけは! 呪いが怖いとは思う。目に見えない存在が恐ろしいとも思うが、あの二人だけは危険にさらされて欲しくない。どうにかして、どうにかしなければ!
「カワダさん……その亡霊の呪いとかってどうしたらいいんですか?」
必死になってカワダにすがる。いや、すがるしかないのだ。頼れる人物は誰一人としてこの村にはいない。だからこそ、最後の頼みの綱である彼に懇願するしかなかった。本当は、カワダにとって自分という人物は邪魔な存在だったのかもしれない。それでも、同じ村に住まう同士ということが要因か。それとも、情けなのか「こうすればいい」と提案してきた。
「調査などと、くだらないことをしていないで、デベッガさんは普段通りのことをすればいい。畑仕事、下の町への用事。亡霊の存在とか頭から消せばいい。たった、それだけ」
「それだけですか?」
なんとも拍子抜けする対策法だ、と思った。現にカワダは大きく「その通り」と頷くのだ。
「そうすれば、その呪いからも断ち切ることができるさ」
そうと決まれば、山から下りよう。そう促してくる。これにアシェドは同意した。そう、この慟哭山に関わりを持たなければ、何も問題はない。何も問題はないはず。なぜに村長が嘘をついたのかをわかった気がする。最初から、嘘をつかなければならなかったのだ。亡霊やバケモノに目をつけられないために。存在を消して。今から、このことを忘れて――事件がなかった、ということにして今まで通りの生活を送ろう! もちろん、エナもキリも賛成してくれるはず。これで俺たちは一生安心して暮らせるはずだ!
――これによりすべての呪いよ、断ち切れてしまえ。俺たちをつないでいる呪いの鎖を断ち切れてしまえ! さすれば、幸せは待っているはずだ!




