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第一章 花の色

少女の頬に、一粒のしずくが落ちた。


冷たくもなく、

温かくもない。


やさしく触れて、

静かに消えていく。


その感触に導かれるように、少女はゆっくりと瞼を開いた。


目の前には空が広がっていた。


どこまでも高く、

どこまでも遠い。


雲がゆっくりと流れている。


風が吹くたび、草が波のように揺れた。


少女はしばらくその景色を見つめていた。


ここは……どこ?


声にはならなかった。


体を起こす。


柔らかな草が指先をくすぐった。


見覚えのない場所だった。


それなのに。


なぜだろう。


初めて来た気がしなかった。


胸の奥に、遠い記憶の欠片が沈んでいるような気がする。


けれど掴もうとすると、

水面に落ちた水のように揺らいで消えてしまう。


少女は小さく首を振った。


私は誰?


名前が思い出せない。


どこから来たのかもわからない。


どうしてここにいるのかも。


けれど不思議なことに、

なぜかそれほど怖くはなかった。


怖いという感情さえ、

どこか遠くに置いてきてしまったようだった。


ふと、風が吹く。


草が揺れる音に混じって、

小さな鈴のような音が聞こえた。


胸元を見る。


銀色の鎖の先に、

小さな砂時計が揺れていた。


その中の砂は、

透明だった。


「……きれい」


なぜそんな言葉がこぼれたのか、

少女にもわからなかった。


そのまま歩き始める。


風の向くままに。


しばらく進むと、

草の間に小さな花が咲いているのが見えた。


白い花だった。


雪の欠片のような。


雲の切れ端のような。


少女はしゃがみ込む。


ただ白いだけの花。


それなのに、

なぜか目を離せなかった。


風が吹く。


花は小さく揺れた。


まるで笑ったように見えた。


少女は少しだけ首をかしげる。


花は笑うものだっただろうか。


そんなはずはないのに。


しばらく見ているうちに、

白かった花びらが少し違って見えた。


日の光を受けて、

淡い黄色を帯びている。


朝の光を閉じ込めたような色。


少女は目を細めた。


さっきまで白かったはずなのに。


不思議だった。


変わったのは花だろうか。


それとも、

見ている私だろうか。


答えはわからない。


けれど、

その色は少しだけ胸を温かくした。


少女は再び歩き出した。


気付けば空はゆっくり傾き始めていた。


柔らかな橙色の光が草原を染めていく。


ふと振り返ると、

さっきの花が見えた。


遠くの風の中で揺れている。


その花は今度は薄い桜色に見えた。


花びらは変わっていない。


何も変わっていないはずなのに。


少女は立ち止まった。


胸の奥が、

ほんの少しだけ痛んだ。


悲しいわけではない。


苦しいわけでもない。


けれど。


何かを忘れているような。


何かを思い出しそうな。


そんな感覚。


少女はそっと花に触れた。


花びらは驚くほど柔らかかった。


その瞬間。


胸元で小さな音が鳴った。


からり。


見下ろすと、

透明だった砂に、

かすかな色が宿っていた。


白にも見える。


黄色にも見える。


桜色にも見える。


夕暮れの光の中で、

その色は静かに揺れていた。


そして、

最初の一粒が落ちる。


さらり、と。


なぜだろう。


世界が少しだけ違って見えた。


風は同じなのに。


空も同じなのに。


さっきより少しだけ。


この世界が好きになれそうな気がした。

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