第二章
野を越え山を越え、ドラゴン騎士団は一大決戦場となろうワリキュアをろくに休みもとらずひた走りに走った。その間にも、バゾイィー率いるオンガルリ王国軍はドラグセルクセス率いるタールコ軍と刃を交えているであろうが、さてその戦況やいかに。
オンガルリ王国は全体的に標高の高い内陸の台地がほとんどを占める地域を領土とし、冬こそ厳寒に襲われるものの、年間の平均気温は穏やかな方で四季もあり。
万年雪覆うような高い山はなく、今の時期、行軍は他国に比べ比較的楽なほうであった。
それでもヨハムドと一戦を交え、休む間もなく次なる戦場へと馳せる騎士団の疲労はいかばかりか。やはりというか、脱落をする者が出始めてきた。気の毒に思うものの、今回ばかりは構うことは許されず、無事を祈りながら置いてゆくしかなかった。
都、ルカベストは丁度オンロニナ平原とワリキュアの間にある。ワリキュアへゆくということは、都を通ることになる。
都にはエルゼヴァスがいる。が、会ういとまなどあろうはずがないが、女王とは謁見をせねばならぬであろうか。
兎にも角にも、ドラゴン騎士団は王の安否と宿敵タールコとの一大決戦を胸に抱いて、ワリキュアを目指していたが。出立をして四日目の夕方、都まであと三日、ワリキュアまであと七日というところになって、様相は一変した。
ひたすら進軍するドラゴン騎士団の前に、またも騎乗の一団が現れる。その高貴な装いからして、勅旨を携えた王の遣いのようだ。ドラヴリフトとコヴァクス、ニコレットは下馬して跪き、国王の言葉を拝せば、愕然と王の遣いを呆けた目で見つめていた。
勅旨いわく、
「タールコ軍は国王自ら率いるオンガルリ親征軍によって撃退す」
三人は狐に化かされたような顔をして、じっとしていた。まさか、と言いたげに。それを、王の遣いは見逃さなかった。
「ふむ、まるで王に軍才なしと言いたそうなお顔をしておられるが。この勅旨をよもやお疑いではあるまいな」
「まさか。決してそのような」
とドラヴリフトは取り繕うも、ふたりの子は黙すといえど父ほど芝居は上手くなく、顔には満々とその疑いが濃くあらわれていた。
やってられんとコヴァクスは跪くふりをして顔を下げてはいるが、ニコレットのふたつの色を持つ瞳は、鋭く王の遣いを射抜くように見据えていた。
王の遣いは、あからさまに、忌々しそうに舌打ちし、さらに追い討ちをかけるように、
「ドラゴン騎士団は、遣いと相見えた(あいまみえた)地にて宿営をし。王よりの沙汰を待つべし」
と勅旨を読み上げた。
さすがにこれには、他の将卒からもざわめきがおこった。ドラゴン騎士団は忠誠一筋で国王に仕えてきており、疑われるような覚えはないし。都に快く迎えられこそすれ、行軍途中で野宿をしろなどといわれる覚えはなかった。
「失礼ですが、その勅旨を見せていただけませぬか」
と言うのはニコレットであった。兜を腹心のソシエタスに預けて。その金髪はくすんではいるものの、くすみとくすみの合間からはかすかに光をはなって獅子のたてがみのように逆立ち、両の目の黒碧ふたつの色の瞳は、らんらんと輝き炎でも噴き出さんがばかりだ。
「ニコレット、無礼であるぞ」
と父が咎めるも、
「ご無礼は戦功をもってお償いいたしまするゆえ、勅旨を見せていただきたいのです」
といって聞かない。
王の遣いはあからさまに不機嫌な顔をして、勅旨を手渡しながら。かつてニコレットが国王を愛していながら、それが報われなかったという話を思い出した。
(女の愛憎とは、怖いものよ)
ニコレットが女の身ながら戦場に立つのは、国王へのあてつけだと、宮中ではもっぱらの噂であった。
勅旨を丁寧に持ち、じっくりと筆跡に印を見定めてみれば、確かに国王よりの勅旨である。ニコレットは、「確かに」と言って王の遣いに勅旨を返す。
「ニコレット殿、このことは王にお伝えしますからな」
と王の遣いは背中を見せて遠ざかってゆき。先に戦場に来た遣いたちも、一緒にかえってゆく。
ドラゴン騎士団は突然の霧に包まれたように不安にかられ、あちらこちらでざわめきが起こっている。が、ドラヴリフトは落ち着き。
「やむをえん。ご命令通り、沙汰あるまでここで過ごすしかない。さあ、宿営の準備をせぬか」
と将卒らにハッパをかければ。指示通り、近くの森の木を切り、テントを張り、にわかの集落がつくり上げられてゆく。嫌な気分を紛らわせたいのか、いつにも増して作業時の掛け声が大きかった。
その間にも、ドラヴリフトはふたりの子を引きつれ、宿営地をまわり、
「元気を出せ。王はわかってくださる」
「我らは、誉れ高きドラゴン騎士団ではないか」
と、激励をしてゆく。
実際、ドラゴン騎士団の大衆の人気は高い。戦場においても敵を必要以上に殺さず、辱めず。また戦争につきものの略奪暴行も、ドラゴン騎士団にはなく。いかなる国の民であろうと民族の出であろうと、決して差別せず、平等に、人間として接してきた。
それが、騎士としての振る舞いである、と。
宿営地を造営する最中であっても、どこからか近隣の町や村から、住民の差し入れが届けられてくる。将卒らはそれらを丁重に感謝し、受け取る。このおかげで、戦争に行っても餓えることが少なく。オンガルリの軍人たちの中には、ドラヴリフト率いるドラゴン騎士団に入ることを夢とする者が少なくない。
今も、ドラヴリフトの目前で、近隣の民からの差し入れを将卒が丁寧に礼を言いながら受け取るところが見られた。
民は、ドラヴリフトとコヴァクス、ニコレットを見ると、まるで神を崇めるように喜ぶ。
それに笑顔で応えながら、
(ゆえに、他からの妬みも尽きぬか)
気がつけば夜の帳が落ちて、三日月が無数の星たちを引き連れて夜空に浮かんで地上を見下ろしていたのに顔を上げて向けて、知らずにため息をついた。
そのころ、辺境の町ワリキュアにおいて近衛軍の勝利の宴がささやかながらもよおされていた。
ワリキュアはオンガルリ東方、東端の地方名で中心となる町の名も同じワリキュアであった。かつてここは百年前まで、ワリキュアという小さいながらも歴とした独立国であった。それがオンガルリの支配下に置かれて以来、その国名は地方名になり、王は地方貴族となってオンガルリの王族に仕えることとなった。
素朴で小さなワリキュアの町が森のしげれる丘陵地帯の台地にぽつんとある寂れたところであったが、この親征軍来たるによってにわかに賑やかしくなっていた。
ワリキュアの東端にダノウ川が流れていて、現時点においてこの川が国境の役割を果たしていた。
国王バゾイィーは町を治める領主のオスロートの、小さな(国王から見れば)城の大広間にて側近たちと飲めや歌えやの、無礼講の大はしゃぎ。田舎ゆえにこれといった馳走もなく都から運んできた山海の珍味も少ないが。
戦勝の心地よさは、それをおぎなってあまりあるほど胸の中でときめいていた。
「うむ、猪肉のなんと上手いことよ」
と脂ののった猪肉をフォークでぶッ刺しては口に放り込み、もりもり食べては、ルカベストから持ってきたワインを浴びるように飲む。オスロートやその召使いたちは国王や側近の接待できりきり舞いだ。
「王よ。あまりはしたない真似は……」
と、酒と戦勝の高揚で頬を紅くした側近のイカンシが、そばに来てそっとたしなめるが。
「なんの、無礼講よ。あのにっくき神美王ドラグセルクセスを、余の力によって追い払ったのだ。こんな愉快なことがあるか」
「左様」
イカンシが苦笑いを含んで微笑むと、オスロートが自分で新しい鹿肉の料理を運んできたので受け取り、王の前にうやうやしく差し出し、丁寧にテーブルに置いた。
他の側近らも召使いたちの運んでくる酒や料理を、笑い声をこだまさせながら次から次へとたいらげているから、もう大変な賑わいであり、騒ぎであった。
ワリキュア城の周辺、町中には親征軍の兵卒たちが町民のもてなしを受けて、やはり同じように飲めや歌えやの大騒ぎ。若い兵士たち酒で顔を真っ赤にして、わかい娘たちと陽気に踊っていた。
なにせ五万の大軍である。ワリキュアの町だけでは人も物も足りないのは言うまでもない。だから近隣の町や村からも大勢の人手が出て、兵卒たちをもてなしていた。
森の中に小さな木造家屋が立り並び。庭があって二階以上ある大きな建物と言えば、防衛線となる小さなワリキュア城と、鋭い槍のような屋根を天に向けるようにしてたたずむ教会くらいなものだった。都から来た面々から見れば、可愛らしいものであったのは言うまでもない。
今は戦勝の気分に浮かれて、退屈極まりない田舎の素朴さすら愛嬌といとおしく感じる。
ドラグセルクセスがおとりをもってドラゴン騎士団をひきつけている間に迂回して、その大軍が国境の川を越えようとしている。との報を受けて、バゾイィーは、
「さればゆかん」
とすぐさま王自ら軍を率いて迎え撃つ決断を下した。日ごろ軍の訓練にも自ら加わりあらゆる武術の修練を欠かさなかったバゾイィーにとって、この報は驚きよりもむしろ日ごろの訓練の成果を発揮できる絶好の好機であると、王の胸をときめかせた。
いざワリキュアと、五万の軍勢とともに疾風怒涛の勢いで来てみれば、対岸の敵は川を渡ろうとしているところであった。その中には、確かに神美王の二つ名に相応しい美丈夫、ドラグセルクセスもいた。
これを見て鎧姿も勇ましく騎乗にて指揮執るバゾイィーは、
「それ、敵の渡河を許すな。今日こそドラグセルクセスの首を獲ってやれ」
と意気込み自ら馬ごとダノウ川に飛び込み、槍を振い先頭に立って敵に突っ込んだ。兵卒たちも、雄叫びを上げて王に続き河に飛び込み、タールコ軍に立ち向かった。
ダノウ川は遥か西方に源をもつ長い川で、大地を裂くようにしていくつもの国をまたいで、一旦北上して、また東南方向へ向かいオンガルリの国を北から東南方向へなぞるようにして通り抜け、海へと流れてゆく。
この川が東南に下っている部分が、国境の役割も果たしていた。が、なぜかその部分だけは川幅は狭く全体的に浅く、せいぜい大人の胸までしか深さがないから、自然の堀の役割はあまり果たせないでいた。
ドラグセルクセスはそこに目を着け、今まで幾度となく川越えを試みたのだが。それはことごとくドラヴリフト率いるドラゴン騎士団によって退けられていた。そしてこの時、国王バゾイィー親征軍がドラゴン騎士団にかわって、ドラグセルクセス率いるタールコ軍を退けたのだ。
残念ながらその首は獲れなかったもの、奮戦の甲斐あって敵はろくに刃を交えずに背中を見せて逃走し、対岸の向こう側へと姿を消していった。
王は叫んだ。
「ついに余はドラゴン騎士団と肩を並べたぞ」
と……。
その会心の叫びを思い起こしては、うんうんと頷き、グラスを傾けワインでのどをうるおす。
そのとき、ひとり侍従の者が近づき、イカンシに何か告げる。
イカンシはうんうんと頷き、侍従の者を側に控えさせて、バゾイィーに、
「ドラゴン騎士団を、足止めしたそうにございます」
と言った。それから、オンロニナ平原での戦いの戦果も報告された。敵軍勢は追い払ったが、敵将ヨハムドは討ちそこねた、という。
「そうか」
それまでご機嫌であったのはどこへやら、ばん、とテーブルをたたき立ち上がると、
「諸君!」
と宴席の側近らに呼びかけた。
側近らは飲み食いをやめ、じっと王の言葉を待っている。広間は水を打ったように静かになった。
バゾイィーは、こほんとひとつ咳払いをすると、周囲を見渡し。威厳たっぷりにまた咳払いをすると、
「ただいまドラゴン騎士団とタールコ軍の将ヨハムドとの戦いの報せがまいった。敵をすんでのところまで追いつめながら、ヨハムドは討ち損じたという。これが、何を意味するのか」
側近らは互いに顔を見合わせ、宴席はにわかにざわつきだす。
「言うまでもない。討ち損じたのではなく、逃がしたのよ。ドラゴン騎士団はタールコと通じておったからな。まさに、この戦果はその証しではないか」
「まったくです。ドラヴリフトは百戦錬磨の勇将。そのふたりの子、コヴァクスにニコレットも、父の器を受け継ぐ若き龍。その気になればたやすく討ち取れるものを、逃したなど。これはまさに、タールコと通じていたという何よりの証し」
とイカンシが言葉を継げば、側近らも異口同音に賛同する。
バゾイィーは酒の勢いも手伝って鼻息が荒い。
「今宵は存分に飲み明かし。翌朝、あの忌々しき裏切り者を討ち取りにゆこうぞ」
と言うと、その場が沸騰するかのように、わっ、と雄叫びが上がった。イカンシは厳かにしかめっ面しながら、うなずく。
「裏切り者に制裁を、死を」
「ドラヴリフトは龍公にあらず、悪魔公なり」
「その子らは、小魔公に小魔公女なり」
「報いを。やつら忌まわしき一族に、恐ろしき報いを」
と、側近らは口々にドラヴリフトらを罵りだした。
それを、右手を挙げて制す。
「もうよい。この喜びの席で殺伐たることをあまり口にするのは、よくない。口直しせよ」
バゾイィーはどっかと椅子に座りなおし、口直しとワインでのどをうるおす。側近らもそれに続く。
(思えば、ドラヴリフトは何かにつけて、余に戦場に立つより都で内政にいそしめなどとほざいておったが。そうか、余を引き篭もりの腑抜けにするつもりだったのだな)
つらつらと、頭の中にいろいろよぎり、鹿肉を口に放り込み噛み砕きながら、頭の中で思考をめぐらす。
(イカンシに教えてもらわねば、わしはあのまま引き篭もりの腑抜けになっておったわ。ふん、オンガルリで戦が出来るのは、ドラゴン騎士団だけではないわ)
側近たちを見回す。彼らは王に忠誠を誓い、命を賭けて戦ってくれた。その実力は、ダノウ川の戦いでいかんなく発揮され。ドラゴン騎士団に頼らなくても、国を十分に守れることを証明した。
(さも我こそ忠臣なりと振舞いおって。余もまんまと騙されて、あやつをドラゴンのごとしなどとおだてて、多大な恩賞をくれてやった。その結果、つけあがったあやつは、いまや一万を超える軍隊を持つまでにいたった。迂闊であった。なんでそれが、反乱の兆しであることを見抜けなかったのであろう)
はっと、脳裏にひらめいたもの。バゾイィーは、いいことを思いついたと喜び「そうだ、そうだ。ははは」と愉快そうに笑って言った。
「まずは、都に人質として住まわせておるエルゼヴァスの首を刎ねてしまえ」
「ご名案でございます」
「ドラヴリフトめ、忠誠の証しに妻を人質にしたが。そうか、妻を使って我が国の内情を探らせるのが目的であったか。迂闊、迂闊。裏切り者と知らず、わしは凶刃を懐にしまっていたのか。イカンシ、そなたには感謝しておる。このまま捨て置けば、オンガルリはドラヴリフトにのっとられていたであろう」
「何を言われます。王の忠実なるしもべとして、当然のことをしたまででございます」
「謙虚なやつよ。まあ飲め」
とバゾイィーは酒をついでやる。もったいなや、と言いながらイカンシはまんざらでもなさそうに酒を飲む。
皆明日の出陣に備えての景気づけと、存分に楽しく飲み食いしていた。
そしてその翌日朝、オスロート以下町の人々の見送りを受けながら威風堂々と、国王バゾイィーの親征軍五万は龍退治にゆくのであった。
ドラゴン騎士団は、勅旨のとおりに、その場に駐屯し、空の雲が流れてゆくのを見上げながら時が過ぎてゆくのを待っているしかなかった。
王命である。
これに背いて動けば、ドラゴン騎士団はたちまちのうちに不忠の騎士団となってしまう。と、ドラヴリフト以下騎士団の将卒は王の沙汰を待っていた。忠実なるしもべとして。
王の気持ちも知らずに。
ドラヴリフトは自分の幕舎で、必要な仕事をこなす以外は書物の読書にふけっていた。コヴァクスは自分の幕舎でじっとしていることなど出来ず、副官をともない部隊まわりをして将卒らと暇を潰すしていた。が、なにかにつけては眉をつりあげ、腕を組んでは指で二の腕をとんとん叩く。
そんな時に、ニコレットも副官のソシエタスをともない部隊まわりをしていてコヴァクスとでくわした。
左右色の違う瞳を兄に向け、
「お兄さま」
とコヴァクスを呼んだ。
鎧を身にまとってはいるものの、兜はなく。母親譲りの美しい金髪は陽光に照らされ、風になびきながら光り輝いていた。小龍公女、戦乙女と呼ぶにふさわしい美しさと強さをあわせもつニコレットを、ソシエタスやドラゴン騎士団の将卒らはまさに女神のようにうやまっていた。
「ニコレット、お前もひまそうだな」
コヴァクスはからかうように言うと、ニコレットは帯剣の柄をたたきいたずらっぽく微笑みながら、
「ええ、退屈で退屈で。剣を握り戦場を駆け巡った方が、よほど幸せですわ」
と、かえすと、兄の顔を見てくすりと笑う。
「まあ、お兄さまったら、怖い顔をして」
「当たり前だ。王は一体何を思って我らをここに足止めさせるのか」
「きっとお考えあってのこと。時が経てば解決いたしますわ。それより、もうそろそろ花嫁を迎えねばならぬ身、何かのたびにそのようにぷりぷり怒った顔をされては、誰もお近づきになりませんことよ」
「余計なお世話だ」
「妹の親切心を踏みにじるなど、ひどいお方。そんなことでは、私は友人たちに、兄に嫁ぐなと言わねばなりませぬわ」
「馬鹿にするな、嫁くらい自分で見つける。決してお前の世話にはならぬ」
「あら、そう。クリスティンカはよく私に、お兄さまのことをお聞きになるわ。どうしたのかしらねえ」
「む、クリスティンカが……。いや、いや、からかうな」
「あら、お顔が真っ赤ですわ」
「これは戦いを求めている戦士の顔だ」
「ふふ、まあそういうことにしておきますわ」
「どういう意味だ」
ニコレットは真っ赤になるコヴァクスを完全にからかって遊んでいる。熱くとも単純な兄は暇つぶしにはうってこいだ。
が、ソシエタスは苦笑いをしながら、こほんと咳払いをし、
「そういえば、奥方さまは、今ごろはどうなされておるのでしょう」
とさりげなく言うと、コヴァクスとニコレットは、はっとして気まずそうに都の方へ顔を向けた。
が、確かに、母は、エルゼヴァスはどうしているだろうか。
そのエルゼヴァスも、ドラゴン騎士団のことを知らないわけではなかった。敵を迎撃するもそれはおとりで、急ぎワリキュアに向かう途中で行軍を中止し王からの沙汰を待っている、と。
都、ルカベストはオンガルリ建国以来、国の中心地として栄えていた。中央に王城がそびえ立ち、陽光を受けて石壁は輝き、それがまた都に降りそそがれている。またそれを幾多もの貴族の邸宅が取り囲み。またそれに従うように一般市民の家々も軒をつらね、そのあいだあいだに、教会のとがった屋根が神よりの言葉を受け取るように突き出ている。
その四方をなだらかながらも山々が取り囲み、自然の城壁の役割をなしている。山々の緑のところどころに、赤みがまざりこみつつあり、涼やかな空気とともに季節の移り変わりと、冬近しことを教えてくれている。
エルゼヴァスは王城の一室の窓から外の景色をながめて、ためいきをつく。山の向こうに、夫と子供たちが騎士団とともにいる。
年すでに四十になるというに、紅いドレスに包まれた身、きりりと背筋は伸び。碧い瞳に金髪は陽光を受けてきらりと輝き。美しいというだけでなく大龍公の妻として、自然と慈愛と威厳がそなわり、かぐわしき薔薇の香りをはなつよう。
だが、口元は引き締められ手を合わせ、じっと窓から景色を眺めているばかりだった。
嫌な予感がする。どうも、最近回りの様子がおかしい。自分も、夫も子供たちも騎士団もどうなってしまうのか、考えると胸が締め付けられそうだった。なにより、これから寒くなろうとしているのに、都に入ることを許されず、野営を強いられているとは。夫はともかく、子供たちは今ごろどうしているだろうか。
戦争にゆくという、それだけでも試練であるというのに。その上にまた、試練が重ねられるのだろうか。
武人の妻である、心配はしても安っぽい同情はしない。だが……。
召使いたちの女性たちが心配そうに見つめるのを背中に感じながら、手を合わせ、神に無事を祈らずにはいられないでいた。
エルゼヴァスはまた、外出を一切禁じられていた。いつのころからか、大臣イカンシが国に不吉の蠢動あり、ご用心のため外出は控えられるように、と言って来た。
それを律儀に守り、部屋からは一歩も出ていない。
しかし、不吉の蠢動とは、一体なんであろう。イカンシは教えてくれなかった。タールコがオンガルリに攻め込んできた、ということで、ドラゴン騎士団がゆき、また王も親征軍をもって迎え撃ちにいった。
その戦果は、まだエルゼヴァスのもとにはもたらされていない。召使いに聞いても、わからない、という答えが返ってくるばかり。
窓から眺める都は、ぱっと見いつもと変わらぬように、路地に人が行き交いいつもの賑わいを呈している。が、どことなく空気が固まっているように、緊張感があるのは感じられた。
人々はタールコとの戦争のことをひどく気にかけているようだ。
(負けはしないだろうけれど)
夫の、子供たちの、そして王の武勇によってタールコはしりぞけられ、オンガルリは守られる。と確信したかった。
このとき、都の様子が一変した。
タールコ軍を迎え撃ちにいった王の軍隊が帰還したのだ。ということは、タールコはしりぞけられたのだ。
早馬が王の帰還を告げ、都は、城は勝利の歓喜につつまれながら、王を出迎えるために途端に慌しくなった。これにエルゼヴァスも加わらねばならないのだが、部屋から出ようとすると衛兵が、外出は禁止されていると出してくれなかった。
(まるで罪人扱いではないか)
とエルゼヴァスをはじめ召使いたちも思ったが、どうしようもなかった。確かに、ドラヴリフトの忠誠の証しとして、エルゼヴァスは都に人質としているが。帰還した王の出迎えの列にも加われぬとは、どうであろう。
なにより、ドラゴン騎士団はどうしたのだろう。
勝利の喜びを味わうどころでなく、やむなく自室に帰って、凱旋の様子を窓から眺めるしかなかった。
突然、他の召使いが慌てて「奥方さま」とエルゼヴァスを呼んだ。何事だろうと、その方を振り向けば、開け放たれた部屋の扉から、イカンシが部下を引き連れ鎧姿のまま入り込んでくるではないか。
王のお気に入りなのに、凱旋式はどうしたのだろう。
「何事でしょう」
といささか驚きはしたが、平静を装いエルゼヴァスはイカンシに何事かと問えば、イカンシはうっすらと不気味な笑みを浮かべ。
「お美しい」
と言った。
突然何を言い出すのか、とエルゼヴァスもその召使いたちも背筋が寒くなる気持ちをおぼえれば。イカンシはまたも唐突に、
「エルゼヴァス様は、いかにして、そのお美しさを保たれておられますか」
と言うではないか。
そんな美容の話をするために、武装して部下を引き連れて来たのか、といえばそんなわけはないのだろうが。その真意を測りかね、言葉に詰まった。まさか口説きに来たのでもあるまい。
だがその方が、どれだけましだったか。
「最近、都において若い娘が次々と行方不明になる事件が起っておりましてな」
「……」
そんな話は初耳だ。イカンシは何を言いたいのか。
エルゼヴァスと召使いたちの困惑は深まるばかりであった。
「その行方不明になった若い娘の一人が、突如として姿を見せたのですが。これがまた、全身傷だらけのむごい様で、こう言うのです。エルゼヴァス様に、血を抜き取られた、と」
「そんな馬鹿な」
召使いの一人が言った。
「私どもは常に奥方さまと一緒に過ごしておりますが、そのようなかわいそうなことをするわけが、ないではないですか」
「ええ、私も何かの間違いかと思い、何度も問い直したのですが、その娘は確かにエルゼヴァス様に虐げられたと言うのですな」
召使いの言葉など歯牙にもかけず、ぬけぬけとイカンシは言う。
「口にするのもおぞましいですが……。美しさを保つために、誘拐した若い娘を殺し。その血を浴び、飲んでいる、と娘は言いまして」
「戯言を! イカンシ殿、いくらあなたでも、それ以上わたくしを愚弄することは許しておけませんわ。何を根拠に、そのような禍々しいことを」
エルゼヴァスは武人の妻らしく声を張りあげ抗議する。言うまでもなく、美しさを保つためにそんな惨たらしいことをするわけがない。美容にしても、普通に食事や化粧品選びに、生活習慣に気を配っているに過ぎない。
なにより、今は喜ばしき凱旋のときではないか。
なぜそんなときにイカンシはそんなことを言うのか。
「ソレアという娘をご存知ですかな」
「……。ええ、先日までわたくしに仕えていましたわ」
嫌な予感がした。
「その娘がソレアとしたら、どういたしますか。いや論より証拠、ソレアよ、おいで」
とイカンシは後ろを振り向いて言うと、おどおどと、包帯だらけの痛々しい姿の少女が姿をあらわした。エルゼヴァスも召使いたちも、あまりのことに、驚きの声をあげる。
「ソレアよ、どうしたのですか。その姿は一体……」
とエルゼヴァスは心配そうに声をかけた。しかし、
「わ、私を殺そうとしたのは、確かに奥方さまです!」
とソレアは震えながら叫んだ。
「奥方さまの髪を櫛でといているとき、粗相をいたしまして。奥方さまは大変お怒りになって、私を何度もぶって『この罪を、お前の血であがなえ』と言って……」
「それで、お前を殺して。その血を抜き取ろうとしたのだな」
とイカンシが言い足す。
「はい、そうです。でもすぐには殺されず、ひどくいたぶられて、この部屋に監禁されて」
「馬鹿げたことを、ソレア、あなたは好きな人が出来てお嫁に行きたいというから、暇乞いをしたのではないですか」
「うそ、うそ。そんなのうそです。奥方さまは、黒魔術に染まった魔女です! そのお美しさも、若い娘の血を浴びたり、飲んだりして保っているではないですか。私も、そんなことを手伝わされて。血のいっぱい入った瓶を運ばされて……」
ソレアは目を見開き、真っ赤な口を開けて狂ったように叫び、エルゼヴァスの罪を声高に叫んだ。その様は、気が触れているとしか言いようがないほど、恐慌をきたしていた。
気がつけば、部屋に多数の衛兵が詰めかけ、じっとエルゼヴァスを見据えている。
「おお、なんとかいわいそうな。このようないたいけな少女をここまで狂わすとは。すんでのところで隙を見つけて逃げ出し、私のもとまで助けを求めて来ねば、今ごろはどうなっていたか」
さも同情するように、イカンシはソレアを優しく抱きしめてなだめて落ち着かせようとするが。ソレアはイカンシの腕の中で、ひたすら、「魔女、魔女」と叫んでいる。
エルゼヴァスも召使いたちも、あまりのことに言葉もない。もはやどう弁明しようとも、問答無用なのは明らかで、どうあってもエルゼヴァスを魔女に仕立て上げて、捕らえるつもりだろう。
「さあ、衛兵たちよ。この魔女を捕らえよ」
衛兵はどっと部屋に押し入り、エルゼヴァスを取り囲んだ。悔しさのあまり、エルゼヴァスは両の拳を握りしめ、目を固く閉ざして奥歯を噛みしめ、ややうつむき加減に頭を垂れた。
(あなた、コヴァクス、ニコレット。……さようなら!)
衛兵の一人がエルゼヴァスの腕をつかむ。だがそれを力任せに払う。
「や、逆らうか、魔女め」
とソレアを抱きしめながらイカンシが言うが、エルゼヴァスは顔を上げきっと鋭い眼差しで、イカンシを見据えると。
「喉が渇いたので、ワインを飲んでもよろしいかしら」
と言って、衛兵たちが取り囲むのも知らぬ顔で、つかつか歩き包囲の輪を抜けて歩き出す。そのついでのように、衛兵の一人の足を踏んだ。
「む、おのれ」
「あら、ごめんあそばせ」
怒る衛兵など構わず、そのまま素通りする。彼女からは、気迫がみなぎり、衛兵は位負けして動けない。なんと不甲斐無い者どもよ、と思いつつ自身も同じように位負けして、イカンシはエルゼヴァスを見据えている。
が、何をするつもりだろう。
召使いは慌てて部屋の棚に置かれていたワインの瓶を取ってエルゼヴァスに捧げようとするが、その召使いに平手打ちが飛んだ。
「馬鹿ね! そのワインじゃないわ。あれよ!」
と言って、別のワインを指差す。召使いはぶたれたことに衝撃を受けるより、エルゼヴァスの指差したワインを見て、ぶるぶると震え出して躊躇している。
「お、奥方さま、あれは」
「いいから、あれが飲みたいの。あなたって、気が利かない愚かな人ね。ああ、こんな馬鹿を今まで雇って給料をあげていた自分が情けなくなるわ」
と言うと、周りを見回し。
「前から思っていたけれど、あななたちなんか、大嫌いですわ。いつもいつも愚かな粗相を繰り返して。それでも堪えていたけれど、もう我慢ならない。みんな、暇をやるから、出ていってちょうだい!」
目をいからし、エルゼヴァスは突然召使いの女たちを罵りはじめた。
(おやおや。いかにエルゼヴァス夫人といえど、この瀬戸際にやけくそになっておるわ。所詮、女なぞそんなものだ)
イカンシに衛兵たちは冷笑しながら、面白いものを見物するつもりで事の成り行きを見守っていた。
召使いたちはというと、ただぶるぶる震えるばかりでひとつも動かない。いよいよ堪忍袋の緒が切れたと、エルゼヴァスは召使いひとりひとりに、強い平手打ちをあたえてまわった。
平手打ちを受けた召使いたちは、涙を流しながら、
「申し訳ございません奥方さま」
と泣きながら出てゆく。衛兵が、あっ、とこれを止めようとするが。
「捨て置け。小娘どもなど」
とイカンシは制して、ゆくにまかせた。これで残るのはエルゼヴァスのみ。
「ワインが飲みたければ、どうぞ」
と厭味たっぷりに言う。
それに応えず、ふん、と傲然と指名したワインの瓶を取り。栓を自分で抜いてグラスに注ぐ。それは、やけに不気味に赤みがかったワインで、まるで血のようだ。
(まさか本当に血を飲んでいたのではあるまいな)
などと、イカンシは少し驚きながら、そのワインの赤さに眼を見張った。衛兵は、血を飲むだの、やはり魔女であったのかだのと、不気味そうにつぶやく。
エルゼヴァスは、一気にこれを飲み干した。なんとも女性ながら気風のよい飲みっぷりであり、それはまこと貴族の夫人と思われぬ豪快さであった。
それから、イカンシに衛兵たちは、
「あっ!」
と声を荒げて、急いでエルゼヴァスのもとまで駆け寄る。
あろうことか、エルゼヴァスは口から血を流し、身体がやや痙攣したかと思うと。赤い蝶々が地に落ちてゆくかのように、ドレスの裾や袖をひらめかせて、たおれて。
ぴくりとも動かなかった。
「しまった、このワインは毒入りだ!」
権謀策術渦巻く宮中にあって、万が一に備えて、エルゼヴァスは毒入りのワインを用意していたのだ。やけに血のように赤みがかっていたのは、毒が入っていたからだろう。
「魔女め、この期に及んで自害をするとは」
と衛兵が悔しそうにつぶやけば、イカンシは苦しそうに、うむ、とうめいた。まさかこのようにして出し抜かれるとは、夢にも思っておらず。これは、いかなる手段をもちいようとも、ドラゴン騎士団を潰さねばと、あらためて腹をくくらざるを得なかった。
エルゼヴァスはイカンシの胆のうちなど知らず、閉じられたまぶたから、うっすらと涙をにじませていた。