婚約者が来ただけで、機嫌が直りました。
庭は穏やかな陽に包まれていた。
土の匂いと、刈り整えられた草の香りが混ざる。
今日も三人での作業だった。
ノエルはしゃがみ込み、小さな苗に水をやりながら口を開く。
「今朝のアルヴェル様、様子おかしかったわよね?」
隣で同じように手を動かしていたリリアーナが、少しだけ手を止める。
「ええ……少し、怒っていらっしゃるように見えました」
「怒ってたのかしら」
ノエルは首を傾げる。
水差しを傾けながら、どこか納得がいかない様子だった。
「私とルークって、そんなに距離が近いかしら?」
リリアーナは一瞬だけ視線を落とし、それから小さく笑う。
「仲がよろしいですよね。……少し、羨ましいくらいに」
「そうなの?」
ノエルはきょとんとした顔で振り向く。
「これが当たり前だと思ってたから、分からなかったわ」
そのやり取りを、少し離れた場所でローエンが見ていた。
手際よく土をならしながら、穏やかに口を挟む。
「お二人は、小さい頃から一緒なのですか?」
「そうなの!」
すぐに声が弾む。
「私たち、いつも一緒だったの。起きるのも、ご飯も、寝るのも」
迷いなく言い切る。
その言葉に、リリアーナはほんのわずかに息を止めた。
「……でも、そっか」
ノエルは手元に視線を戻しながら、ぽつりと続ける。
「あれ、怒ってたのね」
水をやり終え、指先で土を軽く押さえる。
「甘いものでも食べれば、少しは落ち着くかしら?」
リリアーナは苦笑する。
「さぁ、それはどうでしょう……お兄様、甘いものはあまり得意ではありませんし」
「そうなの?」
ノエルは素直に驚く。
「好き嫌い多いわね」
悪気のない一言だった。
風が、やわらかく草を揺らす。
ローエンは何も言わず、静かに作業を続けている。
リリアーナもまた、手元に視線を落としたまま、小さく土を整えていた。
少し離れた場所で、ルークがその様子を見ている。
声は届く距離にいるのに、あえて近づかない。
その視線だけが、静かに三人を追っていた。
⸻
ーアルヴェル視点ー
昼食の時間だった。席に着いても、視界にいるはずの人物がいない。
「……あいつはどうした」
淡々と問う。リリアーナが、わずかに視線を揺らす。
「……あの、何かすることがあるとかで」
曖昧な返答。理由になっていない。
「人には食事を取れと言っておきながら、自分はどうだ」
短く切り捨てる。リリアーナは何も言い返せず、静かに目を伏せた。それ以上、会話は続かなかった。
昼食を終え、執務室。机の上には書類の山。いつも通りの光景――のはずだった。
「……」
ペンが止まる。文字が、頭に入らない。一行目すら読み直している自分に気づく。苛立ちが、じわりと滲む。
「……何だ」
原因は分かっているはずだが、認めるには曖昧すぎた。思考を切り替えようとした、そのとき。
――トントン。
控えめなノック。無視する。
――もう一度。無視する。
――ガチャリ。
扉が開いた。
「いた!」
顔を覗かせたノエルが、当然のように言う。眉間に皺が寄る。
「主人が返事をしていないのに入ってくるな」
「いるのに無視する方が悪いんです」
即答だった。言い返す間も与えない。
「……」
一拍、沈黙。理屈としては破綻している。だが、それを指摘する気力が削がれる。
「……あの男は一緒じゃないのか」
視線を逸らしたまま問う。
「ルーク?片付けしてもらってる。私、片付け苦手なのよね」
悪びれもない。その手には、また何かがある。机の上に置かれる。
「なんだこれは」
「じゃがいも薄く揚げたやつ」
即答。
「……じゃがいもは嫌いと以前言ったはずだ。覚えていないのか」
「スープ飲めたんだから大丈夫よ。薄く切るの大変だったのよ」
「頼んでいない」
「頼まれてない」
同じ速さで返される。
「……」
言葉が、続かない。論理が成立しない。ため息を一つ吐く。
――これ以上のやり取りは無駄だ。合理的判断。
指先で一枚つまみ、口に運ぶ。
――軽い。
カリ、と乾いた音。舌に触れる塩気。油の温度がまだ残っている。じゃがいものはずなのに、あの土臭さはない。
もう一枚。無意識だった。
「……」
視線を上げる。ノエルが、こちらを見ている。
「美味しいでしょ?」
楽しそうに笑う。
「私やルークが機嫌悪い時、よく使用人が作ってくれたのよ」
意味が分からない。食事と機嫌に、直接の因果はない。だが――
「……」
否定する言葉が、出てこない。
「……面白いな」
小さく呟く。それが何に対してなのか、自分でも分からなかった。
ノエルは首を傾げる。「何が?」
答えない。代わりに、もう一枚つまむ。
「……」
視線を落とす。書類は、まだそこにある。だが、先ほどよりも“重さ”が変わっていた。
ノエルが机に肘をつく。距離が近い。
「ねぇ」
軽い声。
「眉間に皺作ってるより、笑った顔の方が素敵だわ」
一瞬、手が止まる。
「……」
理解できない。評価の基準が不明確すぎる。
だが。
「……余計なお世話だ」
そう返した声は、先ほどよりもわずかに軽かった。
ノエルはくすっと笑う。それ以上は何も言わない。ただ、そこにいる。静かに。
――厄介だ。
そう思いながらも、気づけば皿は空になっていた。




