三章 十二丁 不捨の契り
煙霧に覆われ、煤が漂う空間に鈍い音が響く
黒角の鬼は赤い髪を乱し、狂ったように何かを壁や地に叩き付けている
鬼がそれを振り下ろす度、絢爛な松が描かれた襖表紙に血が飛び散り、襖の絵は赤黒く塗り変わった
腐敗の始まった人間の手首を持ち、辺り構わず切断面を叩き付けては、粘り気のある血を――筆を扱う如く伸ばす……
――その姿は、絵を描いているに他ならなかった
幾度も殴り、こびり付けた血飛沫は炎を精巧に描き、人々を焼き尽くす凄惨な光景を模した一枚の絵になってゆく
この光景から、一刻も早く目を覆ってしまいたい――けれども、鬼の絵から目が離せない
突如、鬼は身体を屈めたまま動きを止め、じっくり此方を振り返った
暗がりの中で垣間見えた鬼の顔面の皮膚は爛れ、全てが剥がれ落ち、瞼を失い飛び出す目玉は、此方を食い入る様に見詰めている
その容姿の悍ましさに、思わず発せられた悲鳴は声にならず喉を突き通った
黒角の鬼は筆の役割だった腕を捨て、ゆらりと一歩づつ近付き
聞き取れぬ怒号を発しながら激昂する鬼は、反対の腕に握っていた刀を振り上げ、猛り狂うがまま―――
―――此方を突き刺した
身体が跳ね上がり無声の叫びを上げて、ネイは目を覚ました。
その弾みで右胸の古傷が痛み胸を抱え、逃げるように床へ手を付いた事で左腕に更なる激痛が走った。だが焼け付く腕の痛みにより、錯乱していた精神は一先ず落ち着きを取り戻した。
掌にはくっきりと火傷で爛れた皮膚が、手当をされた包帯の隙間から覗いている。
身体が酷く冷たい――ここは何処なのか
幾度も幾度も、あの鬼の夢を見る――
心臓が激しく脈打ち、冷や汗を拭い己を落ち着かせるように思考を纏めれば、次第に頭は冴えてきた。が、未だ記憶は定まらない。
窓は全て閉め切られ、内側に半分開扉された入り口の光のみが、暗然たる室内を照らしている。その薄明かりで、自分は堂内の床に横たわっているのだと視認出来た。
身体には合羽が被せられており、堂の中を見渡せども、朱鍔の刀―― 斬瞑天月 の姿が何処にもない。
白影 と出会って 両月 が経つか、衣服は体格に合ったものを新調し、白影に剣術を習いながら順調に旅を重ねていた筈だった。
しかし、その旅の途中、刀に惹かれ略奪を謀る妖鬼と戦い。白影の制止を聞かずに斬瞑天月を抜き、身を焼く激痛に耐えかねそのまま意識を失った事を思い出した。
戦いはどうなったのか、白影の姿を探そうと辺りを見回せば、細長く切り開いた扉の風景に、煙草の煙が一筋流れているのが見えた。
『 蝕む火傷の痛みに耐え…。鬼打ちの刀を抜き振るう、命捨つるその覚悟。
……生半尺な者に出来るものではない 』
ネイを運び込み、その目覚めを待っていた白影は、堂の外壁へ凭れ煙草をくゆらせながら重い口を開けた。
『 ――だが…、顔の無い鬼……さしづめ無貌鬼といったところか。奴が人を喰らい、主が鬼を数多斬り伏せた後も…行きつく果ては同じ… 』
白影は深く息を吐き、全ての煙を肺から吐き出した。煙管から立ち込める煙は、白影の憂鬱を表わすかのように低く細く揺蕩った。
『 そうなればわしはお前を、斬らねばならんのか… 』
衰弱した身体を奮い起こし堂から姿を現したネイを、真っ直ぐに見据えて白影は言う。
『 鬼を狩るは夜叉の道。人を救う主の腕に斬瞑天月は靡かん。…主には別の世道があろう 』
白影は教え諭すように、ネイの歩みを変え、生き直す道へ誘う。その瞳は悲しみをたたえ――鬼宿る刀と同様、弱く 哀情 に脆いネイの心を見透かしているかのようだった。
主たる力無くば灰へ葬り、荒ぶる魂を鬼へと転ずる――嘗て白影が戒めたその意味を、今は身心に理解している。
けれどもあの鬼の姿を思い出す度、ネイの心に使命にも似た意志が強く燻った。
恐らくあの鬼もこの国に流れ着き、先の夢で見た殺戮と破壊を尽くす。それだけは何としても止めねばならないと己の意志だけでなく、誰かの願いも背負っている気がした。
©️2025 嵬動新九
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